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第9話
目覚めたとき、心は決まっていた。
家は知らないけれど、哲朗の住む町は判るから、帰宅している日に、たとえ平日でとんぼ返りになるとしてもそこへ行こうと。
念のため、メールで尋ねると、月曜の昼には帰っている予定だという。互いに休憩時間にちょっと遣り取りするだけだし、実に至ってはここのところ外食にも出られないから、弁当か行きがけに購入するパン類で済ませることが多く、長い文章を打つ時間もなかった。
当日、家に着いたらしい哲朗から「ようやく酒が飲める」とメールが入り、よし家にいるなと心の中でガッツポーズをして、なるべく早く帰れるようにとひたすらに書類を捌き続けた。
それでも職場を出ることが出来たのは二十時を回っていた。一応大体の道は判っているつもりだが、夜だし視力がよろしくない実にとって、知らない道はそれだけで神経を擦り減らす。
途中でおにぎりとガムを買い、手早く腹を満たしてから、運転に集中した。
高速道路のインターを降りてすぐの町は、人口は少ないが面積は広い。
さてここからが問題だ。
山と田畑と果樹園に、点在する住居。何処かで道を尋ねようにも、店がなさそうである。
いや、そういえば確か最近コンビニが出来たと言っていたような。淡い期待を込めてナビで検索すると、役場の近くに全国チェーンの見慣れたマークが付いていて、ほっとしながらそこを目指した。
駐車場には、思いのほか車や原付が沢山停まっていた。更に全員が町民のようで、実の車は注目の的である。
最初は誰かに道を尋ねようと思っていた実も、此処にきて臆病風に吹かれて、もう十分一人で頑張ったと自分に言い聞かせてついに携帯電話を手に取った。
「実? 珍しいな、前置きなしなんて」
いつもはメールで確認してからの通話というパターンなため、哲朗は驚いたようだ。
それでも、入浴中とかで不通にならなくて良かったと実は胸を撫で下ろした。
「あの、実は今、近くにいるんだけど。あ、近いかどうかわかんないけど」
「え? 何処、まさかK町に来てんのか」
「うん。コンビニって一軒だけ? そこに居るんだけど、近い? どうやってわったんとこ行ったらいい」
「えええっ、まじでっ。すぐ行く、あ、しまった飲酒っ」
電話の向こうでは哲朗が立てる様々な物音から、上着を着て外に出たところのような気配がした。
「遠い? 説明しづらいかな」
「うーん、車でなら距離は大したことないけど、ちょっと入り組んでて」
話しながら哲朗は歩いているようで、実は取りあえずコンビニ前の道路をどちらに進めば良いか訊いて、通話中にしたままホルダーに立ててそちらに進めた。
殆ど徐行運転のスピードで、目印を訊きながら進んでいると、前方に携帯電話を耳に当てて歩いている男性が見えてきた。スウェットの上下にジャンパーを羽織った哲朗だった。実は軽くクラクションを鳴らしてから道の脇に停めた。
「実っ、びっくりした、マジで」
それでも嬉しそうに駆け寄ってきた哲朗が、初めて乗るなあと助手席に大きな体を収めるのを、実も新鮮な気分で眺めていた。
「くつろいでたとこ、邪魔してごめんな」
「邪魔だなんて、」
「会いたかったんだ、凄く」
遮るように言った実に、哲朗は言葉を失ってまじまじと顔を覗き込んだ。
目を丸くして、半開きになっていた口がゆっくりと横に引かれて笑みの形になる。
それを確認しただけで、やっぱり今日来て良かったと、もう満足しながら、実は紅潮した。
「やっば……」
哲朗は、実の想像の中と同じように耳を赤くして、それからしきりと髪を掻き上げて照れていた。
「あー……うち上がってくか。あ、散らかってるわ。えーと……」
おたおたと言葉を探す哲朗がやけに子供っぽく、実はううん、と首を振った。
「ありがと。出てきてくれただけで嬉しい。ここ、しばらく停めといても大丈夫?」
誰かの家の塀に寄せていたので、もう少し向こうがいいと指示されるまま、用水路沿いに駐車し直した。
「あんま長居出来ないから、このままでいいかな」
「お、おう。明日も仕事だよな」
シートベルトを外して助手席の方へ体を寄せると、哲朗も同じようにしてくれて、ベンチシートで良かったと初めて感謝した。長距離乗るには乗り心地が今一つだけど、こういう時に間に余計なものがないのがいい。
そのまま横を向いて強請るように見上げると、察した哲朗が屈んでそのまま口付けた。
ふわりと日本酒の香りがして、それが哲朗の唾液と舌と共に実と混じり合い、くらりと酩酊する。
近付いてくる話し声に哲朗が体を離し、親指で実の唇を拭った。
「なんかあったのか」
問われて、「ちょっと」と困ったように微笑んでから、そのまま外の声が遠ざかるのを待った。
「一年で一番忙しい時期になったからさ、土日のどっちかしか時間取れなくて……そうしたら、もしかしたらまた一ヶ月会えないかもって、会いたくて、だから、仕事の後そのまま来ちゃった」
へへ、と照れながら言う実に、
「こんな時間まで毎日仕事あんのか」
と、哲朗は困惑していた。
「あ、他の時期は暇というか、そうでもないんだけどさ、ちょっと学年の変わり目は仕方ないっていうか」
付き合い始めたタイミングも悪かったのだろう。もっと二人の仲が安定していれば、そこまで無理はしなかったと思うのだけれど。
ぽふんとまた哲朗の胸に顔を埋めて、初めて甘えてみせる実を、哲朗はそっと腕で囲んだ。
「充電。そしたらまた、明日からも頑張る」
「おう」
コンビニは、若者たちの寄り合い場所にもなっているのを哲朗は知っている。
だから行き交う人が勿論全員自分の知っている人たちで、しかも割と若いというか同年代以下で、知らないナンバーの車の中を物珍しそうに覗き込んでいくのを視線で追い払っていたのだが、実はそんなことは知る由もない。
農園と家族のことは、今度またゆっくり話そう。
今はただ、哲朗のことを肌で確かめたくて。次に会うときまでその温もりと声と匂いを忘れないでおこうと、もぞもぞと位置を変えながら縋り付いた。
哲朗の方は、窓の外を気にしながらも、襟元や首筋に当たる実の吐息に体が反応してしまい、ちょっと困ったことになっていた。
きっと今頃コンビニの駐車場では地元の男衆が大騒ぎだ。実は女性に見える顔立ちとは言えないが、小柄だし暗いから顔なんて良く判らないしで、きっといろんな憶測が飛び交っているに違いない。
帰りはあそこを通らない道を勧めなければと頭の隅で考えていたら、ようやく実が顔を上げて、今度はじいっと見つめている。
指先で、ひとつひとつの造作を確かめるように顔に触れていくのを、哲朗は黙って身を任せていた。
「そろそろ帰らなきゃ」
弱々しく実が囁いたとき、時計は零時を示そうとしていた。まるでシンデレラだ。
「わったん」
誘うようにうっすらと唇を開くから、今度は重ねてついばむだけの口付けを交わした。
「今度は俺が行くよ。家にいる日は、夜に会いに行く。だからもう無理すんな」
互いに、仕事に支障が出ないようにと体調を気遣って、連絡も控えていた。それでも、哲朗だって同じように少しの時間でもこうやって触れ合いたかったから、今夜の出来事で何かの箍が外れてしまった。
「わったんこそ、無理しないでな。寝不足で事故とか、俺ショックで死ぬかもしれないよ」
真剣に言うから、わかったわかったと柔らかな猫毛を撫でて、哲朗はもう一度キスを落とした。
きりがないけれど、と、気を付けてと言って見つめてから、ゆっくりと車を降りたのだった。
一般入試の前日の晩だった。実は宿直に当たらなかったため、翌日の受付当番ではあったが、一時間ほどの残業で帰宅することが出来た。
前日にメールがあり、帰る時間に連絡してというので一報を入れてある。その間に自宅で久しぶりに温かな夕食を摂り、入浴も済ませてしまった。
携帯電話片手に玄関付近でうろうろする実を、両親は呆れたように眺めていた。
吉岡邸の前はすぐ道路になっていて横付けは出来ないため、反対側の敷地を月極駐車場にして貸し出している空きスペースでいつも哲朗は車を停めている。
門の方へ頭を向けてバックで実の車庫に前付けしてから「着いたよ」とメールを入れると、程なくして実が滑りの悪い扉を開けて出てきた。
駆け出したいのを我慢して、足を止めて左右を確認している。その時、駐車場の壁を見たまま実が硬直した。
笑みが消え、サッと表情が薄くなり、それから恐怖にも似た色が覆いつつあるのを見た時点で、哲朗は車から降りた。
踏み出し掛けた足を後ろに戻したい様子の実は、それからハッと哲朗のことを見て、また壁の方を見た。
いったい何があるというのか。何か動物の死骸でもあるのかと最初は思ったものの、そんなとき実なら後退るより駆け寄るだろうと思った。
訝しげに足を向ける哲朗に向けて、ついに実が道路に飛び出した。
ファーッ! けたたましくフォンを鳴らした車が、減速しないでぎりぎり実の後ろを掠めて通り過ぎていく。忌々しげに睨み付けるドライバーの視線など意に介す余裕もないのか、実は哲朗の胸に飛び込んできた。
「みのっ、危なっ」
受け止めた哲朗の腕の中で、顔色を白くした実が震えているのは、車と接触しそうになった恐怖からではなかった。
「ちょっとみのちゃん。そこまでして避けなくてもいいじゃない」
壁の向こうから駐車場の入り口に現れたのは、コートのポケットに両手を入れた新汰だった。
哲朗のセーターを握り締めて唇を噛みしめている実を見て、これは誰だったかと哲朗は記憶の糸をたぐった。実の関係者で哲朗が顔見知っている相手などしれているから、すぐに「相方の新さん」だと思い出す。
だが、今のこの実の様子は、とても相方と呼ぶ、趣味でコンビを組んでいる人に対するものではない。
再会した日、別のテントの下で他の誰かと談笑する新汰を、少し寂しそうに実は見ていた。それを思い浮かべながら、哲朗は、首を傾げて新汰を見遣った。
いったい二人の間でなにがあったのだろう、と。
「みのちゃーん、やっぱり嘘付いてたんじゃないの。俺のこと嫌いになったわけじゃないとか、他に好きな相手がいるわけじゃないとかさ。そいつ、違うの。
それだったら一緒でしょ、俺のこと一方的に責められないよね。二股してたんならさ」
入り口を塞ぐように立っている新汰はにやにやと汚らしく笑っている。
実は、ようやく首を上げてぶんぶんと激しく振った。
「ちが、違うからっ。そんなわけないっ、違うんだ」
涙を滲ませた目は、哲朗に向けられている。それに更に新汰は気分を害されたようだった。
「なにがさ。そいつにも足開いてるんでしょ。ねえ、おにーさん、俺が一から開発したからさ、いいとこ取りだよね。具合いいでしょ。いつまで経っても、これは自分の本意じゃないって言いたいようなさ、凄く複雑な顔で喘ぐんだよねえ。そん時が一番そそられんの、俺。味見ならさ、今までのは許すから、そろそろそれ返してよ」
「なっ……」
絶句して新汰を睨み付ける哲朗の腕の中で、実はギュッと目を瞑り、その拍子に流れ落ちた涙はそのままに、「やめろよ」と叫んでいた。
体を反転させ、全身から拒絶の意志をほとばしらせて、新汰を凝視する。
「卑猥な言葉で、わったんを傷つけるな! 新さんとは違う、おれたちはそんなんじゃないっ。新さんなんか、おれのこと好きでもなんでもなくて、ただ言うとおりに動く人形が欲しかっただけでっ」
「でもさあ、あれだけ痛めつけたのに、それでもそいつとは会ってたんでしょ。それが好きってことなの。印も気にしないで抱いてくれるわけ。それも愛なの」
暗い笑みを浮かべた新汰は、心底不思議なのか、実から哲朗に視線を移した。
痛めつける、という言葉に、哲朗の中で何かのピースがはまった気がしていた。
温泉で、実が意識を失ったとき。酒も飲んでいたし、別段外傷もなかった。風邪というわけでもなく、食欲もないわけではなかったのに、それでも具合が悪いと困ったように笑っていたのを思い出す。
「あんた、まさか」
「ん、なに、ホントにまだ手え出してないの」
次第に怒りを表していく哲朗を挑発するように、新汰は哄笑した。
人通りが少なくて幸いだった。すっかり落ちてしまった夕日に加え、若者が通らない道であるだけに、居合わせて気まずい思いをする通行人も居なかった。
「聞かなくていいから、わったん」
悲鳴のような実の制止を越えて、新汰の声が哲朗の胸に暗い炎を灯す。
「そうだよ、お察しの通り。去年以来、拒まれるようになったからさ、縛って無理矢理突っ込んだんだよ。だから当分誰とも出来ないだろって思ってた。あの露店におにーさんが来たのを見たときに、ピンと来たからな。
効き目があったんならやった甲斐があったよ。しかもまだ手ぇつけてないんでしょ。だったらいいや、全部許すから、もう置いといてよ、それ」
喉の奥で唸る哲朗を見上げ、実は今までとは別の気持ちでしっかりとしがみ付いた。
「だめ、わったん。無視して、ほうっといて。お願いだから」
体格と、普段の鍛え方が違う。哲朗から手を出せば、いくら挑発したのが新汰とはいえ傷害事件にされてしまうかもしれない。
すぐに感情を表に出す割に言葉では言わない哲朗と、何を考えているのか、その言動からは図れない新汰。どちらのこともそれなりに知っている実は、ここで哲朗に手を出させてしまったらおしまいだと感じていた。
振り払われればどうにもならない。それでも、哲朗が自分を無碍には扱わないと信じていたから、背で哲朗を庇うように、大きく腕を広げて新汰に向き直り、しっかりとその目を見つめた。
「新さん、ごめんね。でもおれ、嘘なんてついてない。ずっと前から、新さんとのいびつな関係から抜け出したかった。だけどなかなか言えなくて、だらだら続けてたおれが悪いよね。でも、もう踏ん切りがついたんだ。
ガラスは、楽しいよ。でも、それは新さんのレベルまで引き上げてもらわなくても、気が向いたときにちょっとした小物を作るだけでも十分楽しいって解ったんだ。
だから、ごめん。手伝いだけなら続けても良かったけど、新さんはそんなの望んでないでしょ。全てにおいて自分についてきてくれる都合の良いのがいいんだよね。
でも、もう嫌なんだ。だから、もう二度とおれの前に現れないで。おれのテリトリーに入ってこないでよ。
誰か好きとか、そういうのが問題なんじゃなくて、おれがもう新さんといるのに疲れただけなんだから」
ギラつくくらいに意志を漲らせていた新汰の瞳が、瞬きをする毎に色を失っていった。
ゆっくりと噛みしめるように言った実の声はけして大きなものではなかったが、新汰も哲朗も黙ってそれを受け入れた。
動かない新汰を緊張した面持ちで見つめたままの実の腕を、哲朗がそっと掴んで下ろさせた。労るように肩から下へと撫でながら、実の後方から同じように新汰を眺める。
実の心は、もうとっくに新汰から離れている。
それがちゃんと伝わっているから、頼むから新汰も、少しでも実のことを思うなら手を引いてくれと願いながら、動くのを待っていた。
「勝手だな」
やがて口を開いたその声には、疲れたような響きがあった。
街路灯に照らされた彫りの深い顔には濃い影が落ちていて、表情が判別しづらい。
「折角名前が売れてきて、これからってときに」
「ごめん。制作だけなら出来るけど、もう一緒にいられない」
「十年近くかけて手に入れたもの、全部手放せって言うのか」
「おれだけ選んでくれてたら、喜んで傍にいたよ」
静かに言葉を落とす新汰に、実は丁寧に応じた。
そこには、ここ最近感じていた狂気の色はなく、実が慕ってきた新汰が寂しそうに佇んでいる。
「こんなこと、おれに言われたくないだろうけど。新さんの才能、凄いと思う。コンビなんて組まなくても、パーツの接着の時とかだけ誰かに手伝ってもらえば、十分に今まで通り続けていけると思うんだ。だから」
今度こそ、本当に。
実は、こくりと喉を鳴らし、真摯に新汰を見つめながら紡いだ。
「新さん、おれを救ってくれてありがとう。
沢山、新しい世界を見せてくれて、そこに連れていってくれてありがとう。
凄く好きだった。ずっと一緒に前を向いて歩いていきたかった。隣に居たかったよ。だけど、おれの気持ち、何度言っても伝わってないと思った。
近くに居るはずなのに、ずっと遠く感じてた。他に目がいかなかったから、それでもぐずぐずして、誤解させてたと思う。
突然みたいに思っても、もう何年も前から違和感の方が強くて、ようやく決心が着いただけなんだ。
これからは、一人のファンとして、新さんのこと応援するよ。本当に……ありがとうございました」
最後に深く腰を折るところまで、身じろぎもせずに新汰は聴いていた。
やがて、深い吐息が伝わり、くるりと新汰は踵を返した。
「もっとメジャーになってから後悔してもしらないからな」
そう言い捨てて、壁沿いに足音は遠ざかっていく。
やがて足音は消え、代わりに何台か車が通り過ぎて、それから足早に横切る通行人を数人見送ってから、実は握っていた拳を開いて恐る恐る哲朗を振り返った。
ん、と淡く笑みを刷いた口元と目をじっと見て、小さくごめんと呟くと、どうしてと哲朗が腕を広げた。
「いこ」
だが、熱が冷めてここが何処だかを思い出し、車の方へと足を向ける。
本当は、今すぐ抱き締めて口付けたかった。
しかしながら、今まで散々に騒がせておいて今更だけれど、きっとご近所さんにも少なからず聞こえていると思うのだ。
実も顔を赤らめてから、助手席に身を沈ませ、二人は夜の帳の中を、郊外に向けて走り出したのだった。
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