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第2話

「いつもありがとう」  花を抱えて笑ったのは、いろんなところを渡り歩いてきたぼくでも見たことがないような、綺麗なひとだ。でも女のひとじゃない。姐さんたちが黄色い声でその名を呼び、陰から熱い視線を寄せているその人である。  一人一本のはずの花もたくさんの女性から贈られれば立派な花束になる。色とりどりの不思議な調和を起こした花々を抱え持って、彼は男性的に整った綺麗な顔で、笑う。いつもその笑顔に目をすい寄せられてしまって、ぼくは彼の言葉に返すことができなくなるんだ。 「では、これを」  彼が取り出したのは一通の封筒。抱え持った花々からではなく、ちゃんと彼が用意してきたらしい淡い色の花が添えられる。  いつも彼は、届けたい相手の名前を言わない。  けれど、ぼくは知っている。  彼が、いつも誰を見ているのか。  嬉しそうにぼくから花を受け取ると、必ず届けてくれ、と言って彼はぼくから離れていく。いつもと同じように、ぼくは下働きする時に着るちょっと薄汚れた服のままでそれを見送る。誰かへの手紙。そっとその輪郭をなぞってから、ぼくは唇をかみ締める。  それから。誰かに見咎められる前に、彼からの手紙をそっと自分の服の中に隠しこむ。 「……最愛の君へ、か」  淡い色のこの花は、普通に花屋に行って買える花ではないことくらい、『この場所』から出たことのないぼくだって知っている。この花を贈られることは、結婚の約束のようなものだと姐さんたちがよく夢見がちに話しているからだ。  手紙。それが正しい送り先へ渡ってしまったら、最初から叶わないと分かっているぼくのちっぽけな願いすべてが消えてしまう。最後の日までもう少しだから、だからそれまで。 「ジュエ、顔を出せ」  団長の太い声がぼくを呼ぶ。またきっと、腹がでっぷりとした紳士たちの前で躍って見せろと言うんだ。だからぼくは表情を隠す。ここからじゃ、あの『タイヨウ』には到底届かないから。精一杯背筋だけはピンと伸ばして。 *** 「ジュエ君。少しいいかな」  柔らかなバリトンがぼくの名を呼ぶ。振り返った視線の先に映る、すっきりと後ろに流されたアッシュブロンドをぼんやりと見ながらぼくは頷いた。ドキドキと胸が激しく鼓動を打ち始める。今日も連日の食事会がもてなされ、デザートまで終えて一杯のコーヒーに彼らが満足すればただの騒がしい貴族たちの集いへと変化するその場所で、厨房になっている準備室へと向かう細い通路で彼に呼び止められた。 「はい、オウル侯爵」    今日は体調が悪いから本番では本当に落下しかけるなんてドジを踏んでしまった。先ほども皿を2枚ばかり割ってしまったので役立たずは戻れと言われ、自分に宛がわれている天幕に戻ろうとするところだった。  最後に一つだけいいことがあったのだとぼくはほんのり嬉しくなる。いつも彼は、道化師の化粧を取ってしまったぼくにも、他の人に対するのと変わらない笑みを浮かべてくれるのだ。もしかしたら彼だってぼくの知らないところでは哂っているのかもしれないけれど。 「この手紙を、君の団長さんに渡してもらいたいんだがいいかな? 君の手から、だ」  ぼくを呼び止めた時にはいつもと同じ微笑を浮かべていた彼の口もとが引き締まる。いつもなら宛名のなかった封筒には、しかし今日はしっかりとうちの団長の名前が見たこともない敬称とともに書かれていた。彼はこんな名前だったんだ、と封筒の裏に流麗な文字で書かれたその名を目に焼き付ける。 「こちらは、いつも手紙を受け取ってくれる私の大事な人に渡して欲しい」  ほんの少し悪戯めいた風に彼が笑った。それは初めて彼に手紙を渡した時に、彼が冗談を言って笑った時の顔を思い出させた。  初めて会ったのは1ヶ月ほど前だ。このサーカスは大体、一つの街に1ヶ月くらいは居つく。1年のほとんどは移動で終わってしまうから、1ヶ月の間に親しくなれる人間なんかぼくは作れないけれど、姐さんたちはその土地土地で彼のような男性を射止めるべくの行動に容赦がない。初日から姐さんたちによって送られ始めた大量の手紙に、彼は一度も返事をしなかった。  次の日、彼に届けられた手紙はたった一つで。彼は、これを受け取ってくれる人へと言付けてぼくに返事を託した。最愛の君という花言葉を持つ花を添えて。また一気に増え始めた手紙をいくら彼に届けても、彼がぼくに返すのはたった一通だけ。花と同じ名前を持つ、彼女のために彼はぼくを呼んだ。  それから少しずつ他愛のない話ができるようになった。勿論貴族である彼と、どこか遠い異国で拾われて道化師として育てられたぼくとの見えない壁を越えたいなんて望んでもいなかったけれど。あの次の日以外は毎日届く他の姐さんたちの手紙なんか知らない振りして、彼がずっと一人を見ているのだとぼくだけは、知っていたから。  毎日、少しずつ積み重なっていった想いに、ぼくは何度も自分に苦笑しようとしてできなかった。彼に会えなくなる日が近づいてくことに、いつも心がどんよりと重くなる。  毎日増えていく、隠した手紙の数と共に。 「……大事なひと」  やっぱりぼくの耳はぼんやりと、その言葉を聴く。朝から体調が悪いせいか、頭の奥がぼう、となっていくのが分かる。 「ジュエ君? 具合が悪いのか?」 「大丈夫です、オウル侯爵。ちゃんと手紙は届けます。団長にも、花の人にも」  気遣わしげな表情をしていた彼の顔が、ぼくの言葉を聴いてはっとなったようになる。あぁ、そうか。これじゃあ聞く人が聞いたら分かってしまうもの。でも、ぼくはここに来る前に姐さんたちに聞いていたから思っていたより衝撃は少なかったかもしれない。  彼――侯爵が、結婚するんじゃないかって話。  もちろん、相手は花と同じ名前のひと。団長が食事会に姐さんたちを呼び使わないのはこういうことなのだ。踊り子の姐さんたちは綺麗な人ばかり。正妻にできなくても、愛妾にしたいと申し出る男たちが後を絶たなくて、彼らに踊り子たちを取られたくない団長は彼女たちを見せないことに決めたのだ。  けれどショーの間、彼女たちは『タイヨウ』の光の中で煌びやかな衣装で踊る。貴族と呼ばれる彼らが彼らに与えられたものを使えば、こんな小さなサーカスから踊り子たちを召し上げることくらい簡単なことだった。  団長への手紙は、そういうこと。分かっているはずなのに、受け取る手が、震える。叶うことなんかないのに。ただ彼とこんな風に近くで、話せるようになれただけでぼくの範疇を超越していたのに。  こんなに空虚な思いを感じていても、ぼくはきっと道化師のジュエになりきれるんだ。だってもう、ずっとこんな風に生きてきたから。ぼくは、笑って彼を見上げる。ぼくは、道化師ですから。 「大丈夫です、侯爵」  目に急速に駆け上がってきた温かいものを無理やり押さえつける。一気に湿り気を失って、かすれかける声が彼に気づかれないように返事は短く。  大丈夫です、明日でサーカスは終わりだから。  ちゃんと今日、あなたからの手紙を彼女に渡しますから。

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