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 だがけっきょくはくだらねえケンカをしてノンちゃんの部屋を飛び出す羽目になったのだ。  ばかばかしいいきさつだった。きのうノンちゃんのスマホがずっとうるさく鳴っていた。ノンちゃんは寝ていたので、音だけ止めようとさわったら、ツイッターの通知が目に飛び込んできた。 『エルくんのエルくんはLサイズ〜〜』  バナナとしずくの絵文字もだ。チンコか? エルくんってノエルのことだろう。なにか予感がした。こまけえことは割愛するけどおれもダテに歳食ってない、ノンちゃんのアカウントを探し当てるのはすぐだった(ゲイ向けの出会い系アプリが役立った)。  ノンちゃんはツイッターにおれとセックスした動画をアップしていた。『トコロテンさせた♡』、じゃねえよ、何考えてんだ。 「おい、これなんだよ」  おれはノンちゃんを叩き起こした。 「なんだよ、勝手に見んなよ」  無断で全世界に公開している奴が何言ってんだ? すでに二百リツートくらいになっている。いいねはもっとだ。 「顔映ってないし、いいじゃん」 「ばか、声と体型でわかるだろ」 「わかるかなあ? エッチしてるときの睦郎って声めっちゃかわいくなっちゃうし、ケツの穴なんてそうそう見ないから誰も気づかないと思うけど……」  おまえには友だちも恋人もいないから平気だろうよ、そう言われている気がした。 「そりゃあ、おれはおまえみたいに目立つ顔とか体じゃないからな。誰とでもやるわけじゃないしさ。あーあ、ハーフで男好きだと、こうも承認欲求やばくなっちゃうもんかね」 「なんだよその言い方!」  いやこれだけだったら、この言い合いで終わったのだ。アンラッキーが重なった。  ノンちゃんは不貞腐れてバイトに行き、おれは部屋で寝ていた。夜になって、例のデブの客が帰ってきた。もう二週間近く滞在している。すっかりこの部屋のキッチンにも慣れ、このときも何やら肉を焼いていた。 「――?」  おれしかいないのでおれに話しかけたのだろうが、おれはぜんぜん英語がわからない。テキトーに笑っていたらおれにも焼いた肉をくれた。エビもだ。ずいぶん豪勢だなあと思ったので、おれもノンちゃんの真似をしてちんぽくらいしゃぶってやろうと手を伸ばした。ふだんだったらぜったいにそんなことはしない。さっき、出て行くノンちゃんがドアを蹴飛ばさなかったら、たぶんやらなかった。ガン! とすごい音がしたのだ。おれも蹴飛ばす側のにんげんになろうと思った。そしたらメロンが食えるかもと思った。そうして誤算だったのは、デニム越しにちんぽを掴んだとたんデブがキレて、肉もフライパンも放り出したまま、宿泊の金も払わず、またたくまに荷物だけまとめて出て行ってしまったことだ。 「どうなってんだよ?」  帰ってきたノンちゃんは苛立った。 「知るかよ」 「連絡先ぜんぶブロックされてんだけど。なんもないわけないだろ」 「――レイプされそうになったんだよ」 「は?」  ブロックときいて、いけると思った。すらすら嘘をついた。 「ノンちゃんが出かけてるあいだに、あいつが帰ってきて……。おれが英語しゃべれないからかもしんないけど、わけわかんないうちに押し倒されててさ。こわくなって、とにかく逃げなきゃって蹴飛ばしたんだよ。ごめんな」 「……まじか」  ノンちゃんはぎゅっとおれを抱いた。 「警察行こう」 「えっ、やだよ」 「なんで? おれ、そういうの許せないよ。ぜんぜん恥ずかしいことじゃないよ」 「いや、そうかもしんないけど結果的にはなんもなかったわけだしさ……」  しばらく押し問答しているうち、電話がかかってきた。ばあさんからだった。なんでも、民泊のマッチングサイトに「あそこに泊まったら年増のオカマに言い寄られるぞ」と英文で面白おかしく書かれていたという。何やってるか知らないけどちゃんとしな、ばあさんはノンちゃんに念押した。やべえなと思った。それでもノンちゃんはおれを疑いはしなかったのだ。その晩おれを優しく抱きしめて眠った。おれはうそ泣きさえした。  次の日だ。郵便受けに入れてあるカギが盗まれていた。デブはちゃんとカギを返して出て行ったので、いつもどおりガムテープで貼っておいたのだが、誰かにいたずらされたようだ。合鍵はノンちゃんが持っているから部屋の出入りはできたが、さすがにノンちゃんもあわてた。 「ろくなことねえなあ」  ぶつぶつ言ってVAPEを吸った。バニラの甘いにおいがして、状況と不釣り合いだった。四階に泊まっている家族づれが騒がしく、どたばた響いた。 「郵便受けにカギ入れてんの、誰かに見られてたのかな。まずいなあ、さすがに社長に怒られそう」 「この部屋に客泊めるのは、もうやめとけば」 「でもその収入はまるまるおれのとこ入るんだもん。やめたらキツいよ」 「ノンちゃんも苦労してんだな」 「誰のためだと思ってんだよ」  ノンちゃんはぼそっと言った。言ってすぐ、ハッとした顔をした。目が合い、おれは瞬時に理解した。失言したなと思ったノンちゃんの自覚を、おれは尊重してやるべきだと思った。 「いつおれが頼んだよ、おまえに養ってくれって、おれがいつ頼んだ?」  ほんとうに腹が立ったわけではなかった。気まずい顔を向けたノンちゃんのために、おれは怒鳴った。役割だ。セックスといっしょだ。突っ込まれたから喘ぐだけ。 「ごめん」 「恩着せがましいんだよ。金もねえ職もねえ、才能もねえ、なんにも持ってない中年の面倒みてやってるって、おまえは優越感に浸りたいんだろ」  われながらうまく怒れていたと思う。こういうの、ヒモっぽいじゃないか。内心おれは笑っていた。  でも、ノンちゃんは困った顔をして言った。 「え、才能ってなに?」  おれは耳が熱くなるのを感じた。つまり引き金はノンちゃんとおれとでハッキリずれていた。 「……わかんないなら黙っとけよ」  そこじゃねえ。おれが突いてほしいのはそこじゃねえよ。へたくそ。つめたい汗が頭皮を走った。 「どういうこと? 意味わかんねえんだけど」 「そりゃおまえはいいよな、おれとちがってハタチだしハーフだしさ……」 「ハーフは関係ないだろ!」  おれは地獄の門と向かい合っていた。国立西洋美術館の庭のベンチだ。ロダンのつくった地獄の門はくろぐろとでかい。この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ? 門はちっとも開く気配がない。若い女たちが門をバックに自撮りしている。鳩が糞を落っことしたが誰も被害に遭わない。  勢いでノンちゃんの部屋を飛び出した。鍵はもうポストにない。ノンちゃんに連絡をしない限り、部屋には戻れない。  ほんとうは寝転がりたかったが昼間の上野公園は人通りが多く難しかった。きれいな格好の年寄りがおおぜい行き交っていた。みんな美術館の客だろう。あるいは洒落た感じの若者たちで、荷物が多いのは藝大生かなと思った。キャンパスがすぐ近くだ。金か才能か(あるいはどちらも)恵まれた奴ら。持っているばかりでなく、持っているものを維持する努力をしている。さっきの鳩の糞に、すずめが熱心にくちばしを突っ込んでいた。  日陰に移動したら似顔絵描きのじいさんが店を広げていた。外国人の家族づれや若いカップルや、みなうれしそうに金を払う。毎日鏡で見ている顔だろうに、なんでだ? おれは自画像の課題は嫌いだった。じぶんの顔を見たくねえから。  そうして眺めるうち、絵描きのじいさんはこのあいだの立ちんぼだと気づいた。びっくりしてじろじろ見ていたら目があった。じいさんは愛想よく笑うと、灼けた手でおれを手招きした。 「なんすか」  無視すればよかった。でも体が勝手に動いていた。じいさんはささやいた。 「尺八なら千円でいいよ。でも店じまいには早いから、少し待っててな」 「いや、そういうんじゃないですよおれ」 「そう? そんな顔してると思ったんだけど」   じいさんはふふふと微笑んだ。 「あんたみたいないかにもさみしそうな顔してるのはこっちだろ。似顔絵は幸せそうな人しか頼まない」 「……おれも絵描いてたんですよ。むかし」  じいさんとホテルに行った。地獄の門を開けてやれと思った。  ベッドに寝転がったとたんおれはべらべらしゃべっていた。じいさんが行きずりの人だからだ。 「もともと描くのは好きだった。漫画みたいなやつ。デッサンを美術の授業で褒められてその気になった。部活には入ってなかったけど、美術の先生に油を教わった。テレピン油のにおいは好きだったな。でも自分でやるのはアクリルが多かった。イラストっぽい絵に扱いやすかった。ぶあつく塗ると、なんだかとくべつなことをしているようで気分がよかった。受験はうまくいかなかったから専門に通って……、でも課題の提出についていけなくて、中退して、おしまい。どうすりゃよかったのかな。実家にはいまだにキャンバスが転がってる。捨て方わかんなくて」  二万も持っていない。金もないのにやっちまったらどうなるだろう。ちんぽがよければまけてくれるか? ねえな。きっとメチャクチャ怒られる。借金させられたりしてな。やくざも出てきてさ。公園で堂々立ちんぼしてるってことは、そういう連中になんらか話を通しているんだろう。金なんかない。返すアテもない。焼肉食って使っちまった。どうすりゃいい? ホテルは密室だから、じいさんをぼこぼこにして逃げちまえばいいか? ひとを殴ったことなんかないけど、いざとなればやるしかない。地獄の門を開けろ。  シャワーはべつべつに浴びた。並んで歯をみがいた。もっとも、じいさんははずした入れ歯をだ。薄暗い洗面台でマウスウォッシュの青が光った。  じいさんはおとなしくおれの話にうなずいている。備え付けのバスローブを着て、やはり足を揃えて座っている。でもおれの話が長いので、やがてベッドに寝そべった。バスローブから突き出た足は生白い。日灼けした顔や腕とぜんぜんちがう。足指と爪はひんまがってはいるが、なめらかに整えられていた。ほんとうに娼婦なのだと思った。ノンちゃんのところどころ黒い足裏を思い出す。 「――ごめんなさい、おれ、金ないんです」  結局は打ち明けた。 「やっぱりね」  じいさんは呆れ顔であくびした。 「まだ何もしてないし、ここの代金払ってくれればそれでいいよ」 「はあ、すみません」 「それともさ、僕があんたを買ったげようか?」  じいさんはしわだらけの指でおれの髪を梳いた。

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