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第4話

 その晩、夕食を終えて風呂に行こうとして俺は屋敷の中で迷ってしまった。  大体にしてこの屋敷は昔の成金趣味で鹿鳴館かよって程に広くて複雑なのが悪い。鹿鳴館行った事無いから実際どうなのか知らないけど。  しばらく廊下を行ったり来たりしていると、大きな中央階段の下に黒いスーツの後ろ姿を見かけた。スーツと言えば片桐か仙波さんのどっちかで、良かったとホッとしながら近付くと、女の秘めたような小さな笑い声が聞こえて俺は足を止める。  囁く笑いの中に媚を売る色が有り、これは……。  廊下の角に隠れてそうっと覗いたら、スーツの背中は背が高く細身ながら肩幅の広いスラリとしていて、片桐だと分かった。  その身体に身を隠すようにして甘く笑っているのは、杏奈さんだ。  俺は小さくため息を吐く。  杏奈さんは片桐の首に片腕を回して密やかに囁く笑い声を立てている。片桐がどんな風なのかは背中しか見えないから分からないけど、あんなに可愛い人に言い寄られて嫌な訳が無い。  これはもう仕方ない。杏奈さんは人生変えたくてここに来たって言っていたので、問題が有るのはまだ離婚をしていないって事くらいで、何にしろ本人達の問題だし。 「あーぁ」  天井を仰げば吹き抜けの天井は高く遠い。  いい雰囲気の二人を邪魔するのも悪いから、戻ろう。  屋敷を彷徨いながら何とか自分の部屋に戻れば、なんとさっき階段下で見た片桐が中に居て、俺はドアを開けた姿勢のまま固まってしまう。 「えっ」 「失礼しました。そろそろ入浴がお済みの頃かとお飲み物をお持ちしたのですが」  凄い早業。イチャついてんならもっと時間かかってもいいはずなのに。  そんな事を考え驚いている俺の頭から足の先まで視線を這わし、片桐は少し首を捻った。 「入浴はまだのようですね」 「あ、うん。迷って風呂場に行けなかったんだ」 「はぁ?昨日は行けたじゃないですか」 「昨日は片桐が案内してくれたから」  そう言うと片桐の目がすっと細まり、アホを見る目で俺を見た。 「本当に手取り足取り。あなたは誰かいないと朝食も食べられないし、勉強も出来ないし、風呂にも行けない。何をやってるんですか」 「女たらし込んではないな、間違いなく」  うっかり言い返してしまって、俺はあっと口元を押さえる。しかし遅かった。片桐は微妙な表情を浮かべた後、トレイの上で優雅にポットからお茶を注いでカップを俺に突き出した。 「二郎様は仕事で海外に行っています。しばらく戻れ無いので、後継者の選択は私に一任されました。皆さん賢いですよ、仙波様は後継者になれば私に重役のポストを与えて下さるそうです。杏奈様は自分自身を。あなたは何を私にくれますか?」  それは……。  何をくれるのかって。言葉の意味にすぐ思い当たって、俺は片桐を睨む。後継者になりたかったら片桐の機嫌を取れと言うことだ。なんて汚い奴。  片桐は俺が受け取らないカップをワゴンの上に置いて、俺に向かって優雅に手を伸ばして来る。 「笑って下さい」  箸より重い物は持った事が無いような白く細い指先が頬に触れて、俺はビクリと肩を震わせた。 「あなたは一度も笑わない。どうぞ、笑って下さい」 「面白くも無いのに笑えない」 「媚へつらう人間はつまらなくても笑うんですよ」  俺は頬に触れる片桐の手を払い落とした。 「媚びる気もへつらう気も無いから。後継者になりたいなんて一度も言って無いのに、勝手に決めるな」 「意外に気位が高いですね。それともまだ価値が分かりませんか、この屋敷も全て二郎様から受け継ぐ事が出来るんですよ」 「後継者は会社の後継者で、私財くれるなんて一言も言って無いじゃん。片桐の物でも無いくせに何でもかんでも勝手に決めるなよ」  そう言ったら少し驚いたように片桐は目を見張った。それからニヤリと悪そうに唇を歪めて笑う。 「本当に意外だ。一番鋭い」  つまり仙波さんと杏奈さんはそこに気付かず、全て貰える物と思って片桐に貢いでいる訳か。なんて汚い奴。 「誤解しないで下さい、私は後継者になりたければ何かを差し出せなんて言ってません。仙波様も杏奈様もご自分でそうされているだけです。しかも仙波様は口約束、意味はありません」 「じゃあ杏奈さんは口約束じゃ無いから意味が有るの」 「その前に私は杏奈様に興味が無い」 「嘘だろ、だってさっき」  言いかけてやめた。一瞬探るように俺を見た片桐の瞳が次にはもうにやりと笑う。  俺はワゴンに置かれたカップを掴んで中身を一気飲みした。まだ冷めて無くてお茶が熱く、喉が焼けるかと思ったけど腹まで行ってしまえば分からない。 「はい、飲んだ。おやすみ」  空になったカップを涙目で片桐に突き返すと、少し驚いたように片桐は目を見張り、次にやっはりアホを見る目で俺を見た。

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