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第8話
その晩、屋敷の与えられた部屋に戻った俺は熱を出した。公園で一晩明かしたせいだろうか。夜中のうちから腰だの足だの重苦しくて、うとうとしては目覚め、解熱剤でも飲んでぐっすり寝れば大丈夫と思いながらも薬を持っていない。人の家なのでどこに有るかも見当が付かず、朝になったら下がっている事を願いながらよく眠れ無い夜を過ごした。
翌朝、朝食の席に行くともうみんな食べ始めている。
「あら、戻って来たの。取るもの取るまで帰って来るなって、お母様にでも追い返されたの」
それ見た事かと艶子さんが赤い唇で笑う。クソばばぁ。けど今の俺には艶子さんに反抗的な目を向ける気力すらない。
ヤバイ。相当熱が高くてフラフラする。
それでも席に着くと、杏奈さんが小さな声でお帰りと言ってくれた。女神がここにいた。
「スープ美味しいよ。この間の代わりに、今日は一緒に散歩しようか」
「……ははは……そうですね」
「じゃあ俺も行く」
杏奈さんと散歩の約束をしていると、すかさず勝海さんが話に入って来た。めげない人だ。
「じゃあ一緒に。この間見た滝の景色がとっても良かったから、そこに行ってみましょう」
しかし予想外に杏奈さんの反応がいい。これは二人で出かけていい感じになって来たのかも知れない。
そんな事を考えていると、艶子さんが食事の途中で席を立ってテーブルを回り、俺の隣に立った。
「失礼」
ひたいに細い手が当てられてビクッとする。
「片桐、この子凄い熱よ。様子がおかしいと思ったら。医者を呼んで」
すぐに片桐が飛んで来て、熱を確かめようと手を伸ばして来たから、俺はその手を払った。
「朝霞様」
「大丈夫。風邪薬ちょうだい」
「しかし……」
「薬じゃダメよ、熱が高すぎる。医者を呼ぶのが嫌なら病院に連れて行って。あなたこんなんでよく起きて来れたわね」
艶子さんが首筋に当てる手が冷たくて寒気が走る。そこまで冷たく感じるのだから、よっぽど熱が有るのかも知れない。
すぐに片桐がバタバタと電話をかけに行き、驚く事に艶子さんが手を貸してくれて、俺は部屋まで戻った。
「知恵熱かしらね」
片桐では無いお手伝いさんが氷枕と濡れタオルなどを用意してくれ、ベッドに横になった俺の頭と枕の間に艶子さんが氷枕を入れてくれる。
「あなたのお母様は様子おかしい事に気付かずに、あなたを送り帰して寄越したの?」
「会えなかったから」
そう言うと艶子さんはそれ以上は突っ込まなくなった。
艶子さんはいつも母さんの事を批判してる気がする。俺への嫌味なのだろうけど、そのネタはいつも母さんの事で、本当は俺なんか最初から眼中に無くて、子供を使う母親と母さんを軽蔑していたのかも知れない。
実際一目で俺の体調不良を見抜いたのは艶子さんだけだった。
「失礼します」
大人しく看病を受けていると、やがて片桐が銀のトレイにスープカップを持ってやって来た。
「医者がこちらに向かっています。朝食を召し上がらなかったようですので、こちらをお持ちしました」
見ればカップの中は野菜がゴロゴロ入ったスープだった。こんな時にそれを食えと。頭おかしいんじゃ無いだろうか。
朝昼晩と三食きちんと取ってカリキュラムに沿った勉強に励むのが片桐が求める俺たちの生活で、片桐も片桐で毎日決まった時間通りの生活をしている。頭がおかしい。本当に固いにも程が有る。こんな山奥で何を楽しみに生きてるんだろう。
「要らない」
「ですが、少し召し上がらないと」
「片桐、無理よ。私が診てるから下がって」
艶子さんに言われれば、片桐は引き下げるしか無くて黙って去った。
「片桐の事嫌いなの?」
ドアが閉まって二人になった部屋で、艶子さんがタオルを絞ってくれながら少し気の毒そうに俺を見る。
淡いベージュのマニキュアを塗った白い綺麗な手が白いタオルを絞るのは不思議な気がした。そんな事しそうに無い人なのに。
「さっき、片桐の手を払ったから。体調が悪い時に具合をみようとした人の手をあの勢いで払うのは、好意の無い証拠かなと」
この人、お高く止まってるだけじゃなくて人をよく見てる。
「あなたが居なくなったと分かった時、片桐真っ青だったわよ。よっぽど想定外だったのかしらね」
クスクスと面白そうに艶子さんは笑う。
「計算高くて生真面目で、ああいうタイプは思いがけない事に弱いから色んなパターンを想定してるものだけど。まさか逃げるとは思わなかったみたい」
クスクスクスクス、艶子さんは面白そうだ。この人は何でここに居るのかなと考えて、最初に二郎さんに会うためだと言っていたのを思い出した。けれどそこまでで、俺はスッと落ちるように眠った。
それから医者が往診に来て点滴と薬を貰ったけど、薬で熱が下がっても切れるとすぐにまたぶり返す。
うつらうつらしながら夜中に目を覚ませば、薄暗く絞った灯りの下で、ベッドサイドに人が居るのが分かった。
「艶子さん、大丈夫だからもう寝て下さい」
そう言ったら、覆い被さって来た艶子さんが片腕で俺の頭を抱えるようにして氷り枕を変えてくれた後で、ひたいのタオルも変えてくれてちょっと感動だ。
「母さんだってこんなのしてくれないですよ。子供の頃はやってくれたけど、もうそんな歳じゃないし。艶子さんは俺の事子供扱いするけど」
はぁ……と、吐いた息が熱い。
「薬は飲めますか?」
「うん。飲める」
吸飲みの口を唇に当てられ、本当に手厚い看病で有難い。
「母さん、どこ行ったのかなぁ。俺ってやっはりバカだから頼りにされなくて、何も言って貰えなかったのかな。今頃誰かと幸せにやっててくれるかなぁ」
「……さみしい?」
タオルで目を覆われ、見えない視界の中でしんみりとした声がする。
「いいんだ、幸せになってくれるなら。きっとさ、もう俺も一人で大丈夫って思ったからいなくなったんだと思う。それって認められたって事だよね」
「……前向きに考えれば。けれどこのやり方は朝霞様が気の毒です」
「母さんを悪く言わないで。ずっと甘えてて当たり前だと思ってた俺が悪いんだ。もっとしっかりすれば良かった」
艶子さんの手がそっと頭に触れて髪を撫でてくれる。それは羽根に触るような優しい感覚で眠くなる。しかしうつらうつらしながら俺はふと不思議に思った。
なんか手がでかい。艶子さんの手はこんなにでかかっただろうか。
まぁいいか、朝からついていてくれたのは艶子さんだから、艶子さんに決まってる。
それから三日立っても熱は下がらず、結局俺は病院に入院させられた。
連れて行かれた病室は特別室で、でかいテレビや応接セットまで有るホテルみたいな部屋だった。ベッドで点滴しながら寝ているだけの俺にはあんまり意味が無いけれど。
うとうとしながらいつ目を覚ましても、分厚いカーテンの向こうではカタカタカタカタパソコンのキーボードを叩く音がしていて、片桐が付き添ってくれている。
毎日の生活スケジュールを崩さないくせに、やっぱり預かった責任なのだろうか。そんな事感じなくてもいいのに、本当に固い。
カタカタカタカタ。執事とはそんなにパソコンに齧りつかなければならない仕事なのかと不思議に思ったけれど、カタカタカタカタ、その音は連日深夜もしていた。
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