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第9話
食べられ無い俺にも食事は出る。それは扁桃腺が腫れて飲み込む事が困難な俺に合わせた、ドロドロで食欲の失せる物だったけれど。
「少し召し上がらないと、体力がどんどん無くなってしまいます」
ベッドサイドに椅子を持って来た片桐がゲル化した物体をスプーンにすくって食べさせようとするけれど、俺は顔を背けた。
「朝霞様」
片桐が食べてみてよ。
喉の炎症で声も出し辛いので目で訴えると、片桐は酷く難しい表情をする。自分だって食べたく無いんだ。嫌なんだ。
結局食事は全く進まず、溜息と一緒に下げられた。
そんな事を繰り返して数日、病室に宅配便が届いた。俺はベットの中から宅配便って病室にも届けてくれるんだなと驚きながら、待ち兼ねたように荷物を受け取る片桐を見ていた。
片桐も最近は困った顔ばかりなのに、自然に笑みがこぼれている。そうすると破壊的な美形っぷりなんだけれど残念、今は看護師さんすら居ない。
そんなに嬉しそうに何が届いたんだろう。ちょっと気になるけど関係無いと思っていると、紙皿の上に綺麗なペーパーナプキンを敷いたレアチーズケーキが出された。
「さ、朝霞様。医師からの指示で、何でもいいから口に入れて下さいとの事です。お好きだと聞いた物を取り寄せましたので、どうぞ」
これが届いたのか。
差し出した皿を受け取らない俺に、片桐がベッドの横の椅子に座る。
「点滴だけじゃ体力が持ちません。好きな物を一口でも食べれば体が思い出しますよ」
そうは言われても、レアチーズが好きなのは母さんで俺はむしろ嫌いなんだけど。なんでそんな間違った情報を教える程うちの親は適当なんだろう。そして片桐はバカみたいに信じてる。今度は絶対食べるはずと、期待した目で見ている。
「今、召し上がらないと味が落ちます。どうぞ」
そんな濃い物を体調の悪い時に食べたら気持ち悪くなるに決まってる。だけどわざわざ取り寄せてくれて、あんなに嬉しそうだった訳で、ここは食べるべきだろう。
そう決心した時、片桐がフォークで端を切り分けてあーんと俺の口元に持ってくる。チーズの濃い匂いを感じて、それだけで気持ち悪くなりそうで決心も揺らぐ。
「……そんなに私がお嫌いですか」
グズグズしている間に、俺の口元からケーキを下げた片桐が急に悲しそうに呟いた。
「朝霞様は反抗的だし家出はするし、こんなにフラフラになっても私の手からは何一つ食べようとなさらない。そこまで私は嫌われましたか」
いや、むしろチーズケーキが嫌いなんだけど。
「私が悪かったんです。自分より十歳近くも下の方とどう接すればいいか戸惑いました。家出をされた時には私のせいだとすぐにお迎えに上がりましたけれど、お母様が行方知れずにれなっていた。じゃあ朝霞様はどこに行ったのかと身が凍る思いでした」
そもそも俺を送り込んだ後で言わずに引っ越した母さんと、屋敷にのこのこ居座ってしまった俺が悪いんだけど。
「今時の事も気の利いた事も何一つ言えない私は、お若い朝霞様とどんな話をしたらいいのか分からない。当たり前ですけど、こんな私にあなたは一度も笑ってくれない」
逆に言えば俺だって自分よりずっと年上の人達と何を話したらいいか分からないけど、それなりに上手くやってるのに、片桐って変な奴だ。
「挙句こんなに熱を出されて、なんて儚い方なんでしょう」
どうでもいいけど儚いとか、死ぬような言い方はやめて欲しい。
「こんなに発熱するようなウイルスもこれといった原因も見つかりませんでした。私が追い詰めた所にお母様の蒸発が重なり、精神的な物だと思います。私が悪かったんです」
そんなもん、公園で野宿して風邪ひいたからに決まってるのに、また原因を勝手に決めてる。全く片桐は、いつも何でもかんでも勝手に決めて俺の言う事なんか全然聞いてくれない。本当に頭の固い人で、まだ若いのにどうやったらこんな頑固親父みたいになるんだ。絶対友達いないな。
「せめて一口でいいから召し上がっていただきたいんです。これまでの心無い言葉、どうすれば償えますか」
心底困り果てたような目で見つめられて、なんだか俺の方がいじめているような気分になって来た。美形の不安そうな表情は反則だと思う。
「……本当は、嫌いなんだ」
喉の痛みを堪えて喋ってみたら、掠れた声が出た。片桐は一瞬驚いたように目を見張ったけれど、すぐに伏せてしまう。
「私がですか。承知してますのでとどめを刺さないで下さい」
チーズケーキが苦手で、俺に関する情報は適当なんだと説明する前に、分かりましたと片桐がスッと椅子から立ち上がった。
「言い訳は結構です。好きも嫌いも訳なんか要りません」
ちょっと待て。こっちは喋るのも一苦労なのに、言い訳する間も無く怒り出すなよ。
下目に俺を見る目つきが冷め切っていて相当怒ってるのが伝わって来て、俺はベッドの上で凍り付いた。
「結構です。人が下手に出て機嫌取ってやりゃ調子に乗って、こんなにしてやってるのにぬけぬけと嫌いとかほざきやがってクソガキが」
豹変した。と言うか、こっちが地なのか?
俺は呆気に取られて冷めた顔で見下ろして来る片桐を見上げる。
「建前でもここは感謝の礼を言っとくもんなんだよ。これだからガキは嫌いなんだ、本当に言う事聞かないし、やる事全部予想外で扱い辛いし、世話ばっかかかってやってられません。帰ります」
片桐が切れた。それはコメカミからブチッと音がしそうな見事な切れっぷりで、俺がビックリしている間にさっさと病室のドアが乱暴な音で閉められる。ベッドを囲むカーテン越しにも地響きがしてきそうな有様だった。
なんなんだあいつ。人の事をガキ呼ばわりして理解不能みたいな事を言うくせに、片桐の方が全然分からない。理解出来ない、我慢が足りない。理不尽極まり無い。
やっぱり俺たちはどこまで行っても反比例して行く程違う人間なんだと思う。
ため息を吐きながら投げた視線の先で、ベットサイドのテーブルには高そうなチーズケーキだけがポツンと残されている。ヤケクソでフォークに突き刺し一口食べてみれば、意外に美味い。舌の味覚が蘇るように歓喜しながら何かを吸収し、それが体の隅々まで広がって行く気がする。
なんだ、これなら最初から素直に食べてれば良かったなと思ったけど、ベット脇の椅子には謝るべき相手はもう居ない。
俺は誰も居ない部屋で、その椅子を黙って見つめた。
誰も居なくなった部屋はさみしい。
その晩熱にうなされながら目を覚ましたけれど、いつも付き添ってくれた人の気配が無くて、俺は布団の中で膝を抱えて丸くなった。
きっと片桐は忙しい人なんだと思う。いつも午後出かけていたし、病室に居る時だってパソコンの音がしていたし。そんなに忙しい人が無理して付き添って居てくれたのに。
相手を思いやって感謝出来なかった俺は、片桐の言う通り子供だ。わがままばかりで困らせて怒らせた。きっともう片桐は来てくれない。
一人ぼっちの暗い病室で、胎児のように縮こまって無理矢理眠るしか無かった。
しかし皮肉な物で翌日から熱が下がって体調が回復に向かい始めた。こうなると治るのが早くて、三日目には退院の許可が出てしまった。
困った。
俺は広い病室で途方に暮れる。
明日には退院して下さいと言われても、どこに帰ればいいんだろう。母さんと住んでいたアパートには戻れ無いし、片桐が怒ってるから屋敷には帰れないし。
最もそこは出て行く気だから戻れなくてもいいけど、更に困るのが入院費で、退院する時には払わなければいけないのにこんな部屋絶対払える訳無い。入院費はローンが組めるのだろうか。そもそも住所不定、無職の未成年にローンなんか組める訳が無い。
困った。
どうしたらいいのか良い案も浮かばず、逃亡かといよいよ困り果てていると、病室のドアがノックされて失礼しますといつものようにスーツ姿の片桐がやって来て、幻覚なんじゃないかと思う。
「お迎えに上がりました」
「本物?」
驚いて見ていると、にっこりと片桐は笑う。
「明日まで待っているとまた逃げられそうなので。そんな顔してどうしたんですか?」
病院から連絡が行ったのだとは分かったけれど。
表面上はとても穏やかだけれど、その実悪そうないつもの笑顔を見てすら泣きたくなる。
「どうしよう。俺、入院費払えない」
「そこですか。少しは進歩したかと思えば、そこですか」
はぁ……と、片桐は大袈裟に白い天井を見上げた。
「二郎様がお支払い下さるそうなのでご安心下さい」
「良かった。医療費踏み倒さないで済んだ、良かった。二郎さんに必ず返すからって伝えといて」
「返さなくていいでしょう。後継者選別の経費に含まれますし、一郎様の御子息なのだから当然の権利です」
「違うよ。母さんが言うから息子なのは本当かも知れないけど、知らない人だし当然じゃ無い」
「あなたを見てると昔の……」
すいっと手が伸びて来て、頬に触れられた。少し身構えて、俺は片桐を見上げれば、何かを悼むような目が有る。
「なに?」
「なんでもありません」
温もりを伝えて来ていた手を下ろした片桐は、いつものように口元で薄く笑った。
昔ってなんだろう。
「で、私にはいつ謝ってくれるんですか」
その疑問は憮然と言い放つ片桐自身にかき消されてしまう。
「えっ、まるで何も無かったみたいだから、片桐ってさっぱりしてるんだなって見直した所なのに」
「私は陰湿で陰険で執念深いドロドロのヘドロのような奴なんで」
すげぇ、自虐なネタだ。だけど否定が出来ないのが悲しい。
「あの、嫌いなのは片桐じゃなくてチーズケーキで、あの時はそう言おうとしたんだ」
「は?しかしお母様から先に伺った話しでは……」
「あの人適当だから、自分の好きな物言っただけ。他に何を聞いてるか知らないけど、全く当てにならないと思う」
そう言ったら片桐はかなりムッとした表情をする。なんか作った笑顔以外はいつも怒ってる顔な気がするんだけど。
「だったら初日に出した時に言えばいいのに、美味しそうに食べてたじゃないですか」
「そこは空気読んだんだよ。けど片桐が注文してくれたケーキ食べたら、ご飯が食べられるようになって病気が治った」
片桐の口が何か言い返そうと開いて、でも言わずに閉じてそのままニヤリとした笑が浮かんだ。
「当たり前です」
「片桐作ったんじゃないくせに」
「体が食べる事を要求してるのに、色々我慢し過ぎて気付けないまで麻痺したんじゃないてすかね」
あっと思った。
大丈夫だと自分を押し殺した事を言ったのは、入院する前に屋敷で艶子さんが看病してくれた時で、妙に手が大きいなと思ったけど。
「最初の晩からずっとついててくれたの、片桐だったんだ」
「他に誰が面倒を見てくれるんだか。なのに他にばっかなついて私を全く信用しない所が頭にくる」
「ごめんなさい」
素直に謝ると、片桐の手が子供にするみたいに俺の頭を撫でた。
なんて言うか、甘んじて受けてやる俺は大人だ。片桐って本当は不器用で子供みたいな人の気がする。
頭を撫でられながら片桐を見上げて笑うと、少し驚いたように目を見張った片桐が、ふっと優しく笑い返してくれた。
「帰りましょうか、屋敷に」
「うん」
とりあえず今回は一緒に帰ってやるけど、俺はまた出て行くけどな。
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