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第12話

 翌朝、飛び置きてカーテンを開けば、そこはザーザー降りの雨の庭が広がっている。緑の木々も庭の芝生も薄紫の紫陽花も、全てが灰色の空に飲まれて雨に打たれていた。 「あ……」  なんだ。  俺はもう一度雨の庭に視線を戻す。  天気予報を見ていたら気付いた事ではあっても、片桐の祈りが天に通じたんだと思う。  朝食を貰いに食堂に行くと、そこでは片桐がいつものようにテーブルセッティングをしていた。窓から見える濡れた緑の庭をバックに、今日も優雅にカトラリーを並べて行く。 「おはようございます、朝霞様」 「今日はどうなの?」 「出掛ける準備をしていて下さい。用が済んだら行きましょう」 「やった」 俺は大急ぎでテーブルに着く。 「犬みたいで可愛いですね」 にこにこ言う一言が余計だ。 「私も買いたい物が有るので、ちょうど良かったです」  その後、片桐は本当に買い物に連れて行ってくれた。ヘリでは無く車で山道を下山して行くと、ポツリポツリと民家が現れ、やがてそれは小さな町の景色になる。 「すげぇ、信号がある」  俺は窓に張り付いて雨に濡れた灰色の町を眺めた。歩道を歩く人々の傘の色、商店の看板、街路樹の緑。そんな当たり前の事が新鮮に見える。 「ねぇ、片桐見て。あそこ特産饅頭って有るよ。何が違うのかな」 「きび団子のような物ですよ。この辺りは温泉街が近いので少し変わった温泉饅頭を作ってます」 「へーぇ。あ、向こうはスイーツかな、看板の写真美味しそう」  それは紫のブルーベリーや赤のベリーが沢山盛られたアイスで、鮮やかさに目が引かれる。 「果物農家がおろしてる店ですね、自然栽培の物を使ってるはずです。食べてみますか」  運転席から横目で看板をチラ見して、ウィンカーを出す。 「え、いいよ」  けれど車は駐車場に滑り込んだ。  車から降りて二人で雨の中を店の入り口まで走る。傘を使うまでも無いわずかな距離だったけれど、少し雨に濡れたのが楽しかった。 「朝霞様」  そのまま店に入ろうとした俺を呼び止めた片桐が、ハンカチで濡れた髪と頬を拭いてくれた。 「風邪をひかれると困りますので」 「大丈夫だよ、これくらい。俺そんなに弱く無いよ」  今日の片桐はいつものスーツからラフなカジュアルで、そうすると硬い雰囲気が和らいで別人みたいだ。なんて事は無い胸元が編み上げのグレイカットソーにブラックパンツなのだけど、飾らないのが逆にシンプルで恰好いい。俺が着たらもう寝るんですかとか言われそうで、神様は不公平だ。  店に入ると明るい店内は看板に引かれたらしい女性客が多くて、俺たちは窓際の席に案内された。  看板に出ていたベリーのアイスを迷わず注文すると、向かいの席で片桐が柔らかく笑った。 「チーズケーキよりこういった方がお好きなんですね」 「うん。でも片桐が買ってくれたケーキは美味しかったよ。あれは好き」 「良かった」  そう言って窓の外に視線を向ける。程なくして出て来たアイスは写真通りの物で、甘さの中にさっぱりとした酸味が効いていて美味しい。あっと言う間に平らげた俺に、片桐は笑いながら自分の注文した別のタイプのアイスをくれた。 「え、いいよ。片桐食べて。美味しいよ」 「私は甘いのは少しで」  まぁそうなんだろうな。お子様味覚の俺と違うんだろうな。  遠慮無くもらって食べると、それも美味しくて幸せだ。思わず自然と笑顔になる程幸せだ。  それからこの辺りで一番大きいというモールに連れて行って貰い、必要な服を揃える。目を引くおしゃれな物がいっぱい並んでいるけれど、俺に必要なのは暑さもしのげてバイトでも着られるティーシャツ。しかも買って貰う立場なので、好きなのを選べと言う片桐をそれとなく量販売り場に誘導して行く。  その道すがら、それぞれの店舗に並んでいる小物やバックをひやかして歩き、ふと目を止めたのはケースに陳列された本革のサイフだ。彫り模様がシンプルで恰好いい。 「気に入りました?」  隣に並んだ片桐が一緒にガラスケースを覗き込む。 「これいいね」 「革は色が変わって来ますよ。それだと茶色が濃くなります」 「へーぇ。青はどうなるの?」 「黒くなりますかね。どちらが好みなんですか?」 「うーん、茶色がいいかなぁ。けどいいや、服見に行こう」  いいも何も、買える訳がない。ガラスケースから離れて量販コーナーに行き、俺は三枚千円のティーシャツを購入した。 「片桐の買い物は?」 「私はもう済みました」  いつの間に。安い物を探して量販コーナーをうろついている間に済ませたのだろうか。見ると片桐は確かに小さな紙袋を下げていて、早い。きっと買い物に迷わない人なんだろう。 「じゃあ、どうしようか。帰る?」 「他に何か見たい物は無いんですか?」  逆に聞き返されて、俺はうーんと考える。知らない町で何が有るか全く分からないから、浮かばない。 「大丈夫。帰って勉強する」  そう言うと、片桐は少し驚いたような顔をしてから薄く笑った。  帰り道は来た時とは違うルートを行くようで、やがて景色が温泉街になった。緑が多く屋号を掲げた看板が並んでいる。その前をいかにも観光客が傘をさして歩いていた。沢山の旅館やホテルが立ち並び、道も細く複雑になっている。  珍しく車窓を見ている俺に、運転席から片桐が横顔で笑う。 「なんだが今度は大人しいですね。疲れました?」  来る時は久々の町が嬉しくてはしゃいでいたから、うるさかったかな。 「うんん。温泉街ってあんまり来た事無いから、珍しなぁと思って」 「旅行とかは?」 「修学旅行なら行ったよ」  そのまま帰るのかと思っていたら、車が駐車場に入って俺は首を傾げる。 「足湯が有ります。少し試してみませんか」  今度はちゃんと傘をさして車から降り、歩道を片桐と二人でのんびり歩いた。パチパチ傘に当たる雨の音がして、湿気を含んだ空気に硫黄の匂いが混じっているのを胸に吸い込む。  入浴料を自販機で払い、ついでにタオルも買って足湯に行けば、そこは大きな屋根がかけられただけの細長い池みたいだった。中年の女性客が数人足を浸らせていたから、その集団から一番離れた場所に片桐と並んで座る。 「熱いかな?」  裾をめくって恐々つま先から湯につけてみると、じんわり温かい。安心して両足を膝下まで下ろせば、俺の様子を見ていた片桐が同じように足を浸らせた。 「気持ちいいねぇ」  なんだがほっこりして来る。屋根がかかるだけの屋外で、雨も降るのに寒く無い。むしろポカポカ温かくて、眠くなりそうだ。  おばさん達が向こうで楽しそうに喋る声さえバックミュージック。 「落ち着きます?」 「うん。最高。屋敷からちょっと出ただけなのに、この辺いい所なんだね」 「良かった」  つぶやいた片桐の声音が妙にホッとしたようで、足湯効果で片桐もほんわかして来たのだろうか。 「今日は、雨で良かったですか?」 「ん?うん」  迷わず頷けば、ふっと片桐が笑った。その笑い方にいつものような皮肉も作った風も無くて、温泉効果は凄い。そうやって笑ってれば片桐はとても恰好いいのに、いつもそうならいいのに。 「言葉通りの意味じゃ無いんですけどね」 「ん?」  なんだろう。急にそんな事を言われて俺は考える。 「雨で良かったが、どういう意味?」 「さぁ、なんでしょう。私も雨で良かったと思います。朝霞様が楽しそうにして下さったので」 「うん?晴れても楽しかったと思うよ」 「それでは相手が違うので」  晴れたら勝海さんと一緒に来る予定だった。雨でヘリが飛べなくて時間が出来た事を理由に片桐が変わってくれたわけで。そう言えば前に杏奈さんが案内を頼んだ時は、即答で断わっていたっけ。  返事に困っていると、ぽんっと膝に小さな紙袋が乗せられた。それは片桐がモールでいつの間にか買っていた物で、俺は不思議に片桐を見上げる。 「何?」 「お礼です」 「お礼?」  俺は片桐に何かお礼をされるような事をしただろうか。連れて来てくれたのも、アイスを奢ってくれたのも、服を買ってくれたのも、この足湯料金も片桐が出してくれているのに。 「それとお詫びも兼ねて」  ますます意味が分からない。とりあえず開けてみるよう促されて、素直に袋を開けると出て来たのは俺が一目惚れしたサイフだった。 「えっ、なんで」 「だから、お礼とお詫びです」 「意味分からないよ。お礼するのもお詫びするのも俺の方で、片桐に迷惑ばっかりかけてるのに」 「一応自覚は有るんですね」 「そりゃ有るよ」  そう言ったら、片桐は珍しく声を上げて笑った。この雨はヤリに変わるかも知れない。 「楽しかったんですよ、不思議に。どうしたら朝霞様が喜んでくれるか考えて、結局何のプランも無い買い物でしたけど、あなたが楽しそうだと私も楽しい。なんでしょうね、この満足感」 「満足してるの?」 「過去最高に」  片桐はおかしい。半日買い物に付き合わされて過去最高に満足してるとか、つまらない人生の賜物のようだ。  この人、何者なんだろう。 「でもこれは貰えないよ。お礼するべきなのは俺の方で、貰う理由が無いよ」 「じゃあ、お母様がいらっしゃなくても寂しくならないように、ここにも愛情は有るということで」 「は?」  別に母さんが居なくて寂しい訳じゃない。そりゃ元気かなとか幸せかなとか気にはなるけど、いい年の大人が自分で行ったんだから、そういう事だと分かってる。 「家族になりませんか?私と。その証に」  尚更意味が分からない。なんなんだこの唐突な家族の申し出は。だいたい家族は誘い合ってなる物では無くて、おぎゃーと生まれる物なんじゃないだろうか。 「考えたんですよ、なぜ朝霞様が出て行きたがるのか。一つは家族のように気を許せる相手がいないから、身の置き場が無いのではないかと」  見当違いも甚だしい。また勝手に決めてる。  それは無いよと俺は笑った。 「片桐は俺を子供扱いするけど、そんなに子供じゃないし」 「そうですかね、私は寂しかったですよ」 「片桐が?」 「昔の話です。だから朝霞様にはそういう思いはして欲しくない。それにあなたと一緒にいると散々振り回されるので、何かと楽しい。色々な感情が自分の中にわいて来て、妙な充実感も有ります」  変な人。  振り回されるのが楽しくて充実するとは、本当に変な人。若いのに山奥で暮らしているせいで、心だけ棺桶にでも入ってるんじゃないだろうか。  とりあえず俺は財布を貰う事にした。そうした方が片桐が喜ぶと分かったからで、いずれ俺がバイトして何かを返したら喜んでくれるかも知れない。 「ウォーシーホォワンニー」 「え?」  急に言われた言葉が聞き取れなくて、俺は片桐を見る。 「なんでも有りません」  片桐はただ穏やかに微笑んだ。

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