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第17話

 あなたは私の奥さんです。  あなたは私の奥さんです。  言われた言葉が脳内にリフレインする。  夕食から戻って来た俺は、食後の腹ごなしのふりでリビングのソファに寝そべっていた。  確かに財布を貰った。これは家計を預けるって意味なんだろうか。そして家族になろうと言われた。更に、着いて来いと言われて着いて来た。  すげぇ、知らないうちに完璧に口説かれてる。そして俺は全部頷いてる。自覚無しに。片桐怖い。 「そろそろ理解出来ました?」  濡れた髪をタオルで拭きながら風呂から出て来た片桐が、俺にペットボトルを投げて来る。  下はスウェット、上はティーシャツ、おまけに濡れた髪とか、屋敷では絶対に見せなかった姿に、片桐の住居スペースに踏み込んだ気がした。 「できない。日本は同性婚を認めて無い」 「で?」  で?って。そろそろ冗談だよって笑ってくれないと質が悪い。 「もうやだ。冗談やめてよ。俺はそういう意味で来たんじゃなくて」 「じゃあどういう意味で来たんですか」  どういう意味って、二郎さんの後継者になって会社を潰すためで、努力しなくても俺がなってしまえば勝手に潰れるだろう。  いや、そんな事が出来るんだろうか。  俺は広い室内に視線を走らせる。ここがどんなに高級マンションなのか、嫌と言うほど見た。これだけの物を所有して社員を住まわせる会社なのだから、傾けば必ず系列グループの手が入る。何しろ大元は親族経営だし。それに潰れてしまえば片桐を含め社員一同路頭に迷う訳で、生かすより潰す方が難しいんじゃないだろうか。 「二郎さんに会わせて」 「今は無理です。海外におられますので」 「じゃあ一郎さん」 「それも無理です。あの方は何しろ忙しいですし、系列会社の平社員風情ではお繋ぎ出来ません」 「嘘だね。じゃあなんで片桐が遺産相続放棄の誓約書を書かせるんだよ」  繋がりが無ければそんな話は回って来ない。それに平社員がこんな所に住めるはずが無い。片桐がちょっと歩いただけで、いったい何人のハゲ親父が会釈した。  一郎さんは還暦を過ぎていたはずだ。その弟の二郎さんもきっとその位の年だろう。二郎さんには子供がいないとはっきりしてる。けど、一郎さんは子沢山。本妻の子が何人か居る。  決まりだな。 「片桐、本当の名前はなんなの。奥さんなら知らないと困ると思うんだけど」  ピクリと片桐の形のいい眉が動いた。 「家族になろうとか、本当は兄弟なんじゃないの。俺たち」  そう言ったら、呆気に取られたような表情になった。 「ああ、なるほど。そう考えた訳ですか。残念ですけど違います。私と朝霞様の間に一滴も血の繋がりは無いですよ。DNA鑑定にかけても構いません」  外したか。  じゃあ何なのだろう。  考え込んでいると、ソファが沈んで寝そべる俺の空きスペースに片桐が座って来た。 「朝霞様がどうしても父親に会いたいと言えば、私はそれを拒否出来ない」 「まぁそうだよね。親子なんだしね。一郎さんが会わないって言うなら仕方無いけど」 「会いたいですか?純粋に親子の情で」  俺の腹の辺りに座った片桐が、上半身を捻って上からしっかり表情を読もうとして来る。その片桐の顔の方がなんだか辛そうに見えた。  こうやって近くでしっかり見つめ合うと、綺麗な人だと今更思う。整った顔立ちもそうだけど、生乾きの髪が驚く程の色気を放っていて、見惚れた。  日本人では無いみたいだ。いや、日本人の顔立ちだけど、どことなく雰囲気が違う。どうしてか異国の風を感じるようなその美貌は、怖いくらいに綺麗だ。 「片桐、モテるだろうなぁ」 「ん?いえ全く」 「色男過ぎて女が近寄れないんだな。本当に格好いい人見ると緊張して目も合わせられなくなるじゃん」 「……今、私と朝霞様はしっかり見つめ合ってますよね」 「うん。これ以上無い程しっかりばっちり」 「……そうですか」  はぁっと片桐が溜め息を吐く。 「で、本気で父親が恋しいなら頼んでみますけど、期待しないで下さい」 「片桐はどう思う。会った方がいいと思う?」 「それを私に聞きますか」  はぁぁぁぁと、今度はさっきよりも深い溜め息が漏れる。 「面会を申し込んでも会えない可能性が高いと思います。残念ですが奥様は朝霞様達を快く思っていませんので、話がお父様に通る前に揉み消されるかと」 「そう、か……」  それはそれで微妙だ。自分の存在が知らない誰かに疎まれている。  悲しくなったのが伝わったのか、片桐がゆるく髪を撫でてくれた。 「ですが、どうしても会いたいとおっしゃるなら私が直接通します」  ほら、やっぱり片桐は只者じゃない。俺に甘いから、ちょっと傷付けばもうバラしてる。 「いや、いいよ。誰かに憎まれてもいいと思うほど、強く会いたいとは思わない」 「朝霞様。すみません」 「なんで片桐が謝るの」  片桐が謝る必要の有る事など一つも無い。本妻の立場から見れば俺は疎ましいだろう。仙波さんと杏奈さんからは、いずれ相続が発生した時に放棄する誓約書を取れたけど、未成年の俺からはまだ取れない。そんな子供が父親に会いたいと言い出せば、目障りで仕方無いだろう。 「先に謝っただけです。寝ましょうか、お疲れでしょう」  案内されたのは大きなベッドの有るモノトーンで統一された部屋だった。生活感のまるで無いこのマンションの中で、この部屋だけ微かに人の息使いを感じる。  薄いデスクに積まれた書類、本棚に並んだ本、趣味なのだろうか、アンティークの小物。片桐の寝室だとすぐに分かった。 「え、ここ?」  けれどベッドは一つしかない。 「布団の用意が間に合いませんでしたので。注文はして有りますのですぐに届くでしょう。それまでですが、嫌ですか?」 「うんん、別に」  学生時代は友人の家に泊まるとみんなで雑魚寝だったから、気にならない。  躊躇せずにお邪魔しますとさっさとベッドに入った俺を、少し驚いたように片桐が見ている。 「ごめん、図々しかった?」 「いえ、随分慣れてるんですね。予想外でした」 「クセで……」 「クセ?」  眉をひそめた片桐がリモコンで部屋のライトを絞りながらベッドに入って来て、その動きに合わせてふかふかの布団が揺れる。 「クセになるほど他人のベッドに戸惑いが無いと?」 「っていうか、雑魚寝?けどごめん。片桐大人だから友達とそんな付き合いしないよね」 「ああ、そういう意味ですか。心臓が止まるかと思いました」  暗い部屋に片桐が笑った気配がして、俺は目を閉じる。が、閉じた瞼をすぐに開く事になった。 「ちょっと、何やってんの」  枕と首の後ろに腕が差し込まれ、こちらを向いた片桐にぎゅーっと抱き込まれた。足まで絡めていて、完全に抱き枕状態にされてる。 「寝やすいので」 「俺は寝苦しいから」 「あまりに子供過ぎてどうにも出来ないので、方向転換しました。さっき謝ったのは取り消して下さい」 「何がだよ」  意味が分からないよ。  とにかく、重いので必死でもがいて片桐を突き放そうとするのに、笑っている片桐が離してくれない。 「いいじゃ無いですか、誰も見てません」 「重いからっ」 「私があなたに甘えても、誰も見て無いんです」  甘える?片桐が俺に? 「初夜なのに新妻が幼すぎて手出し出来ない哀れな夫です、慰めて下さい」 「バカじゃね。その冗談もうつまんないから」 「でしょうね」  分かってるならやめればいいのに。それより先に離して欲しい。だけど片桐は離す気が無いらしく、そのまま寝に入った気配がした。仕方ないので俺も暴れるのをやめて大人しくする。完全に寝入ってしまえば逃げても気付かないだろう。  そう思ったのに、爆睡したのは俺の方だった。

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