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第18話
新しい生活は退屈だった。朝から晩まで勉強をして、夜に片桐が帰って来るまで喋る相手がいない。白い静かな部屋でたった一人、物の少ない広い空間には自分の足音がやけに大きく聞こえた。たまには周辺の地理を覚えるために外に出てみたけど、知り合い一人いない町では潰せる時間も限られる。
人と車が一斉に流れる交差点で俺は立ち尽くす。世界は動いているのに俺は止まってしまった。
そんな時目に止まったのはコンビニに並んでいる求人情報誌だった。
料理とも言えないかも知れないけど、簡単な物なら作れる。
今日の晩御飯は麻婆豆腐の素に豆腐を入れただけの麻婆豆腐と、野菜を切っただけのサラダと味噌汁にした。ボリュームはあれだ、チンする唐揚げ。
「いい匂いですね」
そんな物でも片桐は喜んでくれて、いつも晩御飯は食べずに帰って来てくれる。
「お帰り。今日は早かったね」
キッチンで麻婆豆腐を温め直していると、スーツのままの片桐がやって来た。
「定時退社が目標です。何か手伝いますよ」
「そんなんでいいの」
あははと笑う俺を、カウンターに寄りかかりながら片桐が見ている。
「幸せなんで」
「ふーん」
「朝霞様は、幸せですか」
幸せだろうか。ここに居れば衣食住から四年後の就職先まで決まっている。更にその先も。例え会社を潰すとしても、片桐の事だからきっと自分と俺の将来は不自由無く進むよう算段をつけるのだろう。
「そうだね」
返事をして鍋のHIを切った所で、すっと片桐が俺の真後ろに立った。振り返って視線を上げれば、すぐそばで薄く微笑む片桐の顔が有る。
「今日は一日、何をされてたんですか」
聞かれて俺はフライパンをぶん投げたくなった。そんな事はここに来た初日からずっと決まってる。明日も明後日もその次も何の変化も無い毎日だと決まりきっている。
「はぁ……」
片桐に当たってもしょうがない。片桐は二郎さんのかわりになって、俺をここに住まわせて面倒見てくれているのだから。
「着いて来なきゃ良かった……」
ボソッと呟いたら、後ろの片桐が大慌てで麻婆豆腐を皿に盛り、味噌汁のお椀を用意した。
「私は幸せなんですが、朝霞様は、幸せですか」
はっきり言えば幸せとは思えない。その原因は片桐以外の誰とも交流の無い毎日のせいで、もう飽きた。だいたい俺は後継者になんかなりたくない訳だし、そりゃ将来の安定は欲しいけど、そんなもんは自分で掴む。
「質問を変えます」
答えずにいたら、片桐がキッチンのレンジ台の上にばさりと求人誌を放った。
「ああ、それか。バイトしようと思って」
「なぜですか」
「退屈だから。一人だと勉強してても時間が余ってしょうがないんだよ」
「そうですか」
片桐がコテンと後ろから肩に額を預けて来る。何か文句が有るらしいけれど、困った雰囲気がなんだか不健康で、離れろと言うのも怖い。
「で、どうするんですか」
「うーん、コンビニかなぁ」
「ダメです」
なんでコンビニがダメなんだ。
「それ以前の問題です。どうして私に相談せず、バイトを始める事を決めてるんですか」
「は?いや、だって空き時間をどう使おうが……」
「自由では無いですよ。あなたは二郎様の保護下に居ます。しかし現実、お預かりしているのは私です。大事な事はまず相談するのが正解でした」
そういう事か。
「ごめん、慣れなくて。バイトしていいかな?予定通り勉強もちゃんとするから」
「ダメです」
「なんで」
今度はちょっとムッと来た。ちゃんと謝ってお伺いを立てたのに、問答無用でダメかよ。
「私は今が幸せなので、朝霞様を外に出したくありません」
「意味が分からない。それじゃ片桐のために片桐だけ待ってここに居ろって事じゃん」
「そうですよ」
「離れろバカ桐、もう遠慮はやめた」
背中にくっ付いている片桐の腹部にどかっと肘鉄を食らわせると、妙な呻きを上げて片桐が後ろに離れて行く。
「暴力はちょっと……」
「頭おかしい。俺は男で片桐の奥さんじゃない。そんな理由で閉じ込められてたまるか」
「冗談ですよ。朝霞様の学力では今年も入試失敗の可能性が大きいので、勉強していただかないと困ります」
「嫌なんだよ、ここに一人でずっと居るのが。ストレス溜まって死にそう」
「うーん、そのようですね」
その後も知り合い一人居ない暮らしがどんな物かと、俺は切々と訴え続けた。
「多分そろそろ鬱になると思う」
「相当気が立っているし、そうなんでしょうねぇ……幸せとは本当に、指の間をこぼれて抜けて、掴めない。かと言って朝霞様がおかしくなるのは……分かりました。バイトをなさって結構です」
やった。片桐は結局俺に甘い。今回は俺の主張の方が正当な気がするけど。
「ただしバイト先は私が選びます」
「えっ、もしかして片桐の付き人とか?」
「そうしたいのは山々ですが、能力が低すぎるので邪魔です。要りません」
そうですか。仕事にアホは邪魔ですか。そりゃ好都合。家でも職場でも二十四時間片桐と一緒なんて嫌だ。
という訳でバイト先は片桐が斡旋してくれる事になった。
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