28 / 44
覚悟しました。
来月のシフトを見せると、片桐は面白く無さそうにソファにどっかり座る。
サイドテーブルの上に置いて有る卓上カレンダーに視線を走らせ、ため息を吐いた。
「辞めようか、バイト。」
「いいんですか、あんなにやりたがってたのに」
「他の所にする」
せっかく片桐が見つけて来てくれた所なのに、話が違うんじゃしょうがない。けれど片桐は任せますとしか言わなかった。
「大学に行くのが遠回りになって、人生もっと早く成し遂げる方法は有るよね」
赤坂さんの言うのは最もだと思う。あの年齢であのスーツ、ギャバクラ通い。
「誰の受け売りです?」
ソファで片桐が俺を睨んだ。
進学しても無いくせにそんな事を言えば、そう言われるに決まってる。それに後継者のレールから外れる事で、それは許されない。
けど俺は後継者になりたい訳では無くて、増してその役目が会社を潰す事だとは、出来ない。
バイトでも職場にはいり、それぞれの人がどんな風に働き何を守っているか、だんだんと実感を伴って見えて来ていた。
「赤坂さん。仕立てのいいスーツ着て金持ってそうで、一生懸命働いてるんだと思う」
「ああ、最初に朝霞様がベタ褒めしていた方ですか。そうですか……」
はぁぁぁ……と片桐は深くため息を吐いてソファの肘掛に上半身を持たれて潰れてしまった。
予想外の状況に俺は首を傾げる。
「片桐、どうしたの?疲れてるの?」
「ええ、少し」
「大丈夫?寝た方がいいよ、もう若く無いんだから」
「一言余計ですけど、そうします」
片桐はヨロヨロしながら立ち上がって寝室に足を向けた。それを追って寄り添って体を支えてあげる。片桐が体調不良なんて今まで無くて、俺は急激に不安になって来た。
片桐をベッドに横にさせてから額に手を当てて熱が無いのを確かめて、後はゆっくり休んで貰うしかない。
「大丈夫?どっか苦しいとか無い?」
「胸が」
「胸?」
ぐっと手首を引かれて、あっと思った時にはもう背中に布団の柔らかさを受けて、ベッドのスプリングがきしんだ音を聞いた。
すぐさま片桐を見ると、上にのしかかられている。
「嫉妬で焼け狂う」
「な……んで」
その視線の強さに俺は息を飲む。嚥下した唾液が喉でゴクリと鳴った。
「私が海のように広いのは、朝霞様の意識がこちらに向いている時だけで、少しでもそれると我慢できない」
「海のように広い心は最初から無いんで間違いだと思う」
「じゃあ米粒なんで我慢できない」
俺の頭の両脇に腕を着いた片桐が、肘で体重を支えて抱えるように頭のを抱き込んで来る。そうすると片桐の胸元に顔を埋める事になって、はだけたパジャマの襟から素肌首筋が頬に触れた。
ヤバイ。
ドクンっと鼓動が跳ねて、片桐の香りをモロに吸い込んで、ヤバイ。
岩田さんが前にシャンプーがどうとかって言ってた、あの匂いだ。俺と片桐は同じ香りがする。なのに違う。自分の臭いは分からないけど、片桐の匂いは嗅ぎとれる。吸い込めば吸い込む程、息が出来なくなる。
「何やってんですか」
金魚みたいに口をパクパクさせて吸うばかりの所に呆れた声が落ちた。
「経験値の差」
「埋めましょう。早いかなとやめてましたけど、他を向くなら惹き寄せます」
「向いて無い」
「他の奴に影響されて、他の奴を褒める。自信が無いのでそんなつまらない事に嫉妬する。私に寛大になれる自信を下さい」
この体勢でそれは。
怯えて見上げればすぐ近くに片桐の真剣な顔。そしてもう逃げられないように頭をホールドされてる。
「今すぐ、覚悟を決めて下さい」
もう呼吸も忘れた。そしてそのまま俺は飲み込まれる。激しいキスに翻弄されて奪われて、何も出来なくなる。
「片桐」
パジャマのボタンに片桐の指がかかり、外されて行く。
どうしよう。
開いた前から手が差し込まれ、肩を落とされる。それは身体の輪郭をなぞり、脇腹まで下りてそこで指先が肌の上を彷徨う。
どうしよう。
あのキスからいずれはと思ってもいた。だけど自分が何をされるのか分からない。がっつかれるのが怖い。
「片桐、やめて」
腹筋をたどり、ぴったりと手のひらが腹部に沿って横に移動して骨盤を撫でる。その瞬間にヒヤリとした。
「片桐っ」
怖い。どうしたらいいのか分からない不安に押しつぶされて、俺は片桐の首に腕を回してしがみついた。すぐに背中に腕が回って抱きしめてくれる。
「何をそんなに怯えるんですか。大丈夫、酷い事はしないから」
大丈夫、大丈夫。あやされて俺はやっと息を吐く。
「私が今まで酷い事をした事が有りました?」
子供に言い聞かせるみたいな口調に思わず頷きそうになったけど、何気に酷い事ばかり言われていたのを思いした。
「失礼、痛い事は無かったでしょう」
質問を変えた。しかも断定して来てる。どうあっても言いくるめる気らしい。そんな事をしなくても俺の世界はもう片桐中心に回ってるのに。
「いいけど、ゆっくりやってくれないと、どうしたらいいのか分からないよ」
そう言ったら片桐が驚いたように目を見開く。
「あなたは本当に……」
ふっと、力の抜けたように片桐が微笑んだ。
「待ちます。三秒なら」
「それ待って無いから」
ともだちにシェアしよう!