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3つ目の罠

 目覚めると、遮光カーテンの合わせ目から朝日が斜めに射し込んでいる。帯のような透明な光が自分を包んで眠る人に白く眩しく降り注いでいて、片桐が光の住民のように見えた。  よく眠っている顔をしばらく見つめていると、ふっと、片桐のまぶたが上がる。 「……おはようございます、朝霞様」 「おはよう」  いつもの挨拶、いつもの微笑。だけど伸びて来た指が俺の唇を掠って、顔を上げると狙ったキスが落ちて片桐が笑う。  ……キザ。  昨日までおはようのキスはしなかった。俺はなんだか、昨日より大人になった気がした。  大人になったもんだ。ああそうさ、びっくりする程大人になったさ。  尻が痛い。 「藤堂、動き鈍いぞ、サボってんな」 「はい、すみません」  午後からのバイトは地獄だった。やってる事はいつもと同じなのに、尻が痛い。腰が痛い。股関節が痛い。おまけに熱っぽい。理由が理由だから言えもせず、ひたすら耐えて頑張る俺は大人の階段登ったさ。  片桐のせいだ。 「おい。シャキッとしろよ、本部の人間が今から入る。ダラけた事やってんな」  後ろから来た岩田さんに、べしっと尻を叩かれた。今ので血がジェット噴射したに違いない。 「本部の人ですか?」 「ああ、抜き打ちだ。内部監査だよ。ったく迷惑だよな、俺らをなんだと思ってんだ」  抜き打ち?  何しに来るのか分からないけど、岩田さんが妙に焦っているのが伝わってくる。そこに常用車が飛び込む勢いで入って来て、車から降りて来たのは赤坂さんだった。 「岩田さん、どうなってんですか」 「今からじゃ間に合わねえよ」 「それじゃ困るんですよっ、とにかく出来るだけ」  二人はバタバタと事務所に駆け戻って行った。いつもの事だけれど、赤坂さんが乗って来た車はエンジンがかけっぱなしで、俺はまた廃棄ガスの中での作業だ。  見上げれば水色の空に大きな入道雲が真っ白く張り出していて、夕方には一雨来るかも知れない。  しばらくして駐車場に、ここには似合わない黒塗りの車が一台静かに入って来た。  あれが本部の人だろうか。  俺は呼ばれた訳でも無いので、一人倉庫で黙々と作業を続ける。夏の盛りの暑い日で、アスファルトから陽炎が立ち上がっている。 「お疲れ様です」  後ろから声を掛けられて顔を上げると、三十半ば程の真面目そうな男性がこちらに会釈をしてくれていた。その後ろに立つ人を見て驚いて、俺は挨拶を返すのを忘れた。  片桐。  今朝マンションを出て行ったはずの片桐がそこに居て、俺を見ていた。 「お疲れ様です」  先の人と同じように言葉をかけてくれ、そのままふいっと視線をそらして他人の顔で事務所に入って行く。  そうか。本部の人とは片桐の事だったんだ。考えてみれば別に驚く程の事でも無い。俺をここに入れてくれたのも片桐で、藤堂グループの偉い人なのだから。  一仕事終えた所で事務所に休憩に入れば、普段休憩に使っていた長机を二つ向き合わせた大きなテーブルが組まれ、その上に沢山のファイルが積まれていた。  片桐と先程一緒に来た人が、机の隅でそれぞれノートパソコンを開いてカタカタカタカタ何かを始めている。 「藤堂、お前こっちで休憩取れ」  岩田さんに言われて普段事務処理で使っている机の方に足を向けると、構いませんよと片桐の声がした。 「彼をこちらへどうぞ。皆さんの普段のペースを乱しませんので」 「いえ、仕事の邪魔になります」 「こちらがお邪魔しているのですから、どうぞ」  片桐達は事務所で仕事をしているらしい。  どうしようか戸惑っていると、岩田さんに行けと合図されて俺は片桐達の方に進んだ。 「初めまして、高塚です」  戸惑う俺に声をかけてくれたのは片桐と一緒に来た人で、随分と低い渋い声をしている。声優にでもなれそうないい声だなと思った。 「と、藤堂 朝霞です。よろしくお願いします」 「藤堂?」  ピクリと高塚さんが眉をひそめて片桐を見た。 「偶然ですね。社長の藤堂です。よろしく」  俺の横でそう微笑んだのは、片桐だった。 「え?」  藤堂?社長?片桐が藤堂で社長?  何を言っているのか訳が分からない。頭悪いんだから分かるように言って欲しい。 「あの……」  状況が分からない。なんで片桐が藤堂と名乗って社長なの。 「あなたは休憩はきちんと取れてるんですか?」  しかし片桐にそう聞かれて、俺はとりあえずここは合わせた方がいいのだろうと曖昧に頷く。 「はい。作業の合間が出来たら休憩です」 「そうですか。勤務時間はどうですか」  そんな事わざわざ聞かなくても知ってるはずなのに、他人の顔を向けられる。職場で自分の事は話すなと言われていたから、そういう事なのだろう。だけど、藤堂。 「帰りが少し、予定と違って……」 「そうですか。彼の勤務契約書とタイムカードをここに」  すぐにそれらが用意されて、片桐が目を通す。  岩田さんは何も言わなかった。そう、さっき慌てていたのは赤坂さんで、岩田さんはもう間に合わないと言ったのだ。  あぁ、そうか。  テーブルに山と積まれたファイルの合間に、紐でくくられたチャート紙が束になって幾つも見える。それから伝票。そこにはすでに付箋が貼り付けられていて、高塚さんがファイルと付き合わせている最中だ。  俺が毎晩何気無く片桐に話していた所からチェックが入ってる。  あぁ、そうか。俺がここにバイトで入れられた理由は、それか。  岩田さんは決して悪い人では無いけれど、最初から結構辛辣なパワハラを受けても、片桐は岩田さんを褒めて辞めろとは言わなかった。  契約内容と勤務時間が合わない事も、困ると言うけど判断は俺に任せていた。どれもこれも、片桐としても俺に辞められると都合が悪かった訳か。  俺は片桐に使われたんだ。  毎晩遅い帰りを待って話を聞いてくれたのも、報告が欲しかったからで俺を待っていた訳じゃない。  そういう事か。  だからどうだと言うのだろう。それでも片桐が俺にしてくれた事は変わらない。俺たちはもう恋人だと思う。信頼関係があって、きっと互いに好きで。  本名を教えて貰えていなくても。  片桐と藤堂と、どっちが本名なのかなんて迷う事も無く、会社で偽名は使わ無い。  だからどうだと言うのだろう。片桐が俺に……そういえば、好きと言われた事は無かったなと思った。  好きな相手に偽名を使うだろうか。  あれはどうですか、これはどうですか。既に知っている事を初対面の他人の顔で聞いて来る片桐に、俺はただ、聞かれた事に頷くだけで答えた。

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