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第32話
風呂から出ると少しイラ立った気配の片桐がリビングで待っていた。俺はタオルで髪を拭きながら、使っていない部屋に移動する。
目星は付いてる。玄関から一番近い部屋だ。玄関を入ってすぐの所が運ぶのが面倒な大型荷物を放り込むのに都合がいい。
その部屋のクローゼットを開けると、案の定ビニールがかかったままの布団セットがあった。注文したと聞いてから何日立つのか、届いていない方がおかしい。
「どうするんですか、それ」
片桐が部屋の入り口まで着いて来ていて、ドアの所から俺を見ている。
「今日から使わせて貰います。頼んでくれてありがとうございます」
よいしょとクローゼットから引っ張り出して、何も無いフローリングの上に布団を広げてみた。
「ここで寝る気ですか」
「長らくお世話になりました」
はぁっと片桐がため息を吐く。
「訳が分からない。内部監査を黙っていたせいですか。でしたら、いつ行きますから用意してと連絡するのはこの場合意味が無いでしょう。それとも岩田さんと赤坂さんの事ですか。不正を行っていたのは二人で私では有りません。それを見過ごせとおっしゃるんですか」
「そんな事じゃないよ、片桐の仕事に口は出さないし、本当に不正があったのなら仕方ないと思う」
「名前の事ならゆっくり話す時間を下さい。冷静にちゃんと話したい」
「これが普通なんだよ、藤堂社長」
俺は布団にシーツを掛けながら、床に膝を着いた低い姿勢から片桐を見上げた。
口で片桐に勝てるわけ無いんだから、冷静にちゃんと言いくるめられろって事かよ。
「甘えていた俺が悪い。子供のように纏わり付いて片桐を誤解させた。すみませんでした」
「誤解?」
「そう、誤解だった」
甘ったれてベタベタ触るから、片桐を誤解させた。そういう事にして無かった事にして欲しい。そうすれば知らない顔で一緒に暮らして行ける。
一瞬の間も無く意味を理解した片桐の目がすっと細まり、俺を睨んだ。
「……腹が立ちすぎて言う言葉が思いつかない」
それが既に急遽の脅し文句な気がしたけれど、俺は素知らぬ顔でシーツをかけるのを続ける。
言葉が出ないと言う通り、片桐は黙ったまま動かずにドアの所からじっと俺をみていて、重苦しい空気を破ったのは突然鳴ったインターホンの音だった。片桐はイラつきを隠しもせずに舌打ちして応対に行き、すぐに戻って来た。
「今から高塚が届け物に来ます。話はそれからにしましょう」
冷静だなぁと惚れ惚れするよ、何があっても仕事となるときちんと対応するらしい。こういう人が仕事人間として家族を蔑ろにして、いずれ家族に捨てられるんだな。
「勘違いで終わってるので、話す事は無いです」
「……そうですか」
シュルリと生地の滑る音を聞いてドアの所に立つ片桐を見れば、まだ仕事から帰って着替えていないネクタイを引き抜いた所だった。手櫛で前髪を崩せば形のいい額にはらりと散って、少し疲れたように見える。
それから程なくしてもう一度インターホンが鳴り、応対に出た片桐と渋い声の高塚さんが話す声だけが部屋で待つ俺に聞こえて来た。
「どうした?片桐疲れてんな。らしくない」
職場とは違って随分親しげな口調だなと思った。高塚さんは片桐と呼んでいるけれど、本当はどっちなんだろう。
けれど高塚さんの来訪で途切れた場は、俺にも冷静になれる時間をくれた。ピリピリして責めるようにこんな事をするのはアホらしい。
やがて戻って来た片桐に本当の名前はどっちなのか問えば、両方ですと意味の分からない事を言われた。
「そんな事あるはず無いだろ、名前は一人一個なんだから。俺に本当の事教えたくないのはどうして」
信頼が揺らぐ。
本名を隠されていたとか、それだけで全てが嘘に見えて来る。目の前に立つ片桐がなんだか遠い人に感じてしまって、俺はため息を吐いた。
「もういいよ。分かった」
「藤堂です。私は藤堂家の親戚の端っこに属しますので、藤堂が本名です」
諦めた俺に慌てた声が重なった。
「じゃあ、なんで片桐なんで偽名」
「社で藤堂と名乗ると何かと距離を置かれますので。大した力も無いのに名前を振りかざして威張ってるみたいでやり辛いじゃないですか」
そうだろうか。営業所では藤堂と名乗ったのに。
「それは、あの営業所がもう隠す必要が無い所まで来ているという事です。それよりも」
伸びて来た手にパジャマの襟を掴まれてぐっと引き寄せられ、なんでそこ掴むと俺は目前に迫った片桐の薄ら寒い笑顔に固まる。
「誤解なんて随分手慣れた事を言う。私を誤解させたなんて百万年早いんですよ」
怖い。
鼻の頭がぶつかりそうな距離で冷たく言われて、怖い。
「や、あの……」
「誤解かどうか、思い知らせて差し上げましょうか」
どうやって。
すっと伏せられた視線が触れ合う寸前の唇に注がれる。
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