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第35話
俺が想像する社員食堂とは、割烹着のおばちゃんが大きな鍋でドカドカ材料を煮込んで包丁をカカカカカカカカとまな板に叩きつける、給食センターのような図だったのだけれど。どうやら会社が大きいとそういうのとは別にレストランも入っているらしい。
どうしてだろう。そんな大きな会社のレストランで、こんな大きな会社の一番偉い人が目の前に居る。
出会ってしまったのが運の尽き。俺は一郎さんに引っ張られて、高層階にあるレストランの眺めのいい席でグループ総帥と向かい合っていた。
「この店は社以外のお客様も利用するから拘っていてね、海外の方にも評判がい。ほら、何が食べたい」
向かい合って座るだけで圧倒されそうな気迫のロマンスグレーがにこにこにこにこ、どこの子煩悩親父だと思うような笑顔で俺にメニューを向ける。
「はぁ……」
視線が痛い。
ちょうど居合わせた他のお客さんは会社の人なのか、どの人もピシッとスーツで非の打ち所がない。そんな中でジーンズにティーシャツ姿の若造が一番偉い人と同席しているなんて、胃が痛い。
だいたい何でタイミング良く出会ってしまうのか。高塚さんが仕組んだに決まってる。
「えーと、電車賃程度しか持ち合わせが無い物で」
「そんな事は心配しないで、好きなのを頼みなさい。もうお昼になるね、ステーキはどうだい」
そんな物値段を見なくても遠慮する。
「アイスがいいです、アイス。このシャーベットにしよう」
その程度なら払えるので指差すと、ご飯にしなさいとにこにこしている。この場に俺を連れている事はいいのか悪いのか、一郎さんは全く気にしないらしい。
「凄い会社ですね、びっくりしました」
「やがて君もここに通うようになる」
「それは……」
どうなんだろう。
「俺なんか期待に添える人間じゃないので」
俺は生き別れの父を見る。
なるほど、俺とは似ても似つかない。
感慨などは特に無かった。いないと思っていたのだし、もう父親がどうとかという年齢も過ぎて、どこかの偉そうなおじさんにしか見えない。
「あの、そろそろ。ちょっとお使いに出て来ただけなんで」
「しばらく借りると連絡はしてある、急いで戻る事もあるまい。君に会わせろと何度言っても二郎が首を縦に振らなくてね。やっと会わせて貰えた」
それも変な話だ。
一郎さんは慈愛に満ちた目で俺を見つめるけれど、だったら何故もっと早く会いに来なかったのか。仙波さんにしろ杏奈さんにしろ、外の子供は俺以外にもいるのに。
胡散臭い親父。
「どうだい、今晩一緒に食事でも。もう少しゆっくりと話そう」
「え、えーと。バイトが終わったら早く帰るように言われてるので……」
「構わないだろう、親子じゃないか。君の子供の頃の話を聞かせて欲しい」
親子と言うよりは爺さんの年齢の父親を見つめた。
父親。そうだとみんなが言うからそうなのだろう。けれどそこに何の意味が有るのか。
「すみません。片桐と約束してるので、後日片桐同伴でお願いします」
そう言ったら、困った物だと一郎さんは笑って、俺はそのまま片桐のマンションに帰れなくなった。
随分長い間車に揺られて、連れて来られたのはどこかのログハウスだった。
拉致された訳では無い。有無を言わさず黒服のガードマンに車に乗せられ、高速をノンストップで走られただけだ。俺は拉致られる程子供では無いし、指示を出したのは実の親父でこれでは拉致誘拐が成立しない。
困った。
辿り着いた時にはもう夕方になっていたので辺りの景色はよく分からないけれど、車の中から徐々に減って行く町の灯りを見た。それから道路の案内標識は東京から県を二つ跨いでいた。外の空気は湿気を帯びて冷たく、遠くに波の音が聞こえる。
携帯は車に乗せられる時に一郎さんに取られた。
車を運転して来たガードマンが別荘に明かりを点けて風を入れ替えてから、車から降ろされた。
中に入ればこじんまりとした山小屋のようなログハウスは、丸太むき出しの壁にウィスキーの瓶が並んで暖炉まである。ガードマンは二階に行って忙しく何かやってるので、俺はぼんやり肌寒さに震える。
「こちらをどうぞ」
二階から戻って来たガードマンが毛布を一枚持って来てくれた。
「あの。まるで状況が分からないんですが、なんで俺はここに連れて来られたんでしょうか」
「後ほど総帥が到着されます。親子の語らいをごゆっくりなさりたいそうです」
そりゃまた、大掛かりな語らいの場を設ける親父で困ったね。なんて呑気に言っている場合じゃなくて、本当ならもうバイトを終えてマンションに帰っている時間だ。これで約束を三回破った事になってしまう。しかも今回は今日中には帰れそうも無くて、外泊はさすがに片桐も怒るだろう。
だけど携帯も無ければ、このガードマンは送ってはくれないだろう。どうしよう。
「あの、帰らないと家の者が心配するので、帰りたいんですけど」
「総帥の方からご連絡されるそうです」
そうですか。
仕方ないので命までは取られはしないだろうと俺は腹を括る事にした。
ログハウスの木製ダイニングテーブルで無表情のガードマンと向き合う。聞かれた事にしか答え無いガードマンは無口で無愛想で、カチカチと時計の秒針を刻む音がやけに大きく聞こえた。
ここでいつまで一郎さんを待てばいいのか。
「……お腹すいたな」
ぼそりとつぶやくと、ガードマンがすっと立ち上がりキッチンの棚を漁り出す。しばらくしたらチンするご飯にレトルトカレーが出て来た。
「どうも」
それをもそもそ食べながら、一郎さんはまだまだ来ないのだろうと察した。
「あの、ガードマンさんお名前は?」
「必要ありません」
「強そうな名前ですね。携帯持ってません?」
「お貸し出来ません」
「そうですか」
東京の夜はまだ暑いくらいだったのに、地方に来ると寒い。山奥だからだろうか、夜が更けるに従って気温がどんどん下がって行く。
毛布一枚では足りないなと思った時、風呂を勧められて寝室の用意が出来ていると教えられた。
初めて外泊が決定した夜、片桐はどうしているだろう。
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