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第36話

 一郎さんが到着したのは翌日の夜だった。 「待たせて悪かったね。二郎が君を返せとうるさくて」 「はぁ」 「いい所だろう。ここは私の隠れ家でね、疲れると利用する。そこの海で釣りも出来るからやってみるといい。なに、私以外誰も知らないのだから、何を使っても怒られはしないさ」  つまり一郎さんがここを所有している事を他の誰も知らないと。  そして明日も俺はここに居ると。 「帰りたいんですけど」 「そう急かさず、話をしよう」  一郎さんは皮張りのソファーにゆったりと座り、ガードマンが暖炉に火を灯す。ゆらゆら揺れるオレンジ色の炎は時間を止めるように穏やかにした。  が、俺は帰りたい。 「幼稚園の頃はどうだった。お遊戯会では何をした?」 「覚えてません」 「じゃあ、小学校の頃は。いじめられはしなかったかい?」 「チビだからよく泣かされたけど、イジメじゃないです」 「ああ、朝霞は小柄だね。誰に似たのか。お父さんがいない事でからかわれたりしなかったかい?」  パチパチと暖炉の炎が爆ぜて、ログハウスの中が温まって行く。昨日は寒かったのに火が灯れば一気に温かくなって、オレンジ色の影がゆらゆら揺れる。 「イジメられなかったけど……」 「けど?」 「さみしい時も、あったのかも知れない」  それから沢山の話をした。聞かれた事に答えているうちにどんどん思い出して来て、一郎さんが穏やかに相槌を打ちながら楽しそうに聞いてくれるから、喋り過ぎな程に話をした。  誰かに聞いて欲しいなんて思っていたわけじゃないのに、あんな事があった、こんな事があった。それこそ沢山の話をした。 「あぁ、朝霞は可愛いな。自慢の息子だ」  そう言われて嬉しい気がする。 「父さんを恨んでいるかい?嫌いかい?」 「そんな事は無いです」  気付けばそう言っていた。これは本心なのだろうか。暖炉で炎が燃える。ここは温かい。 「しばらく前に二郎が君を欲しいと言い出した。聞けば会社から何から相続させるつもりらしい」 「それは……」 「あいつはやる事が早くてね、さっさと君を自分の籍に入れたようだけれど、それは君のお母さんも納得したようだ」 「母さんが?」  では、あの後片桐は母さんを見つけ出して連絡を取っていたのだろうか。そんな事は一言も言わなかったのに。 「十五歳以上の子を養子にするには本人の意思確認が必要だ。そこを誤魔化すためにお母さんを使ったんだろう」  二郎さんはずっと海外に居るから、やったのは片桐だ。保険証を貰った時にその話は聞いた。細かい事はうやむやのまま流れてしまったけれど。 「二郎が望むなら、それもいい。けれど朝霞本人の同意が無いのは困る。何も知らずに押し付けられるのは荷が重いだろう。嫌なら言いなさい、お父さんがなんとかしてやるから」  確かに荷が重い。それは最初から思っていた事で、養子も俺の意思じゃない。 「あの、俺が嫌だって言ったら片桐はどうなりますか」 「どうにもならないよ。あれはあれの道を行くだろう」  じゃあ俺が二郎さんの籍を抜けても片桐にお咎めは無しでいいのだろうか。いや、これは一郎さんが言っている事で、二郎さんが言っている事じゃない。片桐は二郎さん寄りなのだから、確認する相手が違う。 「……少し考えます」  とりあえず俺がその返事を保留にした。 「あの、なんで俺だったんでしょうか。集められた兄弟の中で一番役に立たないのは俺でした」 「その話は聞いているけれど、そうだなぁ」  一郎さんはゆったりとソファーの背もたれに身を預けて俺を見る。 「正反対だから、欲しかったんだろう」 「正反対?」 「二郎と君と」  そうなのか。  二郎さんとは名前ばかり何度も聞くけれど、どんな人なのかは全く知らない。 「二郎が嫁を連れて来ようが、跡継ぎに朝霞を選ぼうが、私は反対しない。しかし何事も本人の同意が必要だ。今回私が怒ってこんな事をするのはね、理不尽な手段で君を養子にしたからだよ。勝手に奪われるのがどんな物か、同じ事をやり返して反省させている」  そう言って一郎さんは面白そうに笑ったけど、俺を片桐に預けっぱなしなのだから焦るのは片桐で、二郎さんじゃないと思うけど。  それにしても確かに理不尽極まりない。何しろ知らない間に養子になっていた。最初は戸惑って藤堂と呼ばれても自分の事ではないようで、反応出来なくて怒られた。 「どうだい。最初からやり直して、私の息子に戻らないかい?」 「え?」  俺はびっくりして一郎さんを見つめてしまった。  それはきっと一郎さんの籍に入るということで。俺が一郎さん側に行けば二郎さんの保護下から一郎さんの保護下になるって事で、片桐とはもう暮らせなくなる気がする。 「片桐が、待ってるから帰らないと」 「あれは本当に頭の切れる食えない男になったもんだ。どんな手を使ったか知らないが、洗脳されてるんだよ。少し離れてみなさい」 「そんな事無いです。片桐は……」  確かに頭の切れる食えない奴だ。おまけに性格がいいとお世辞でも言えない。困った、庇うにかばえない。 「君が二郎の所にいて何か酷い仕打ちを受けるとは思っていないけれど、意思を操作されるのはまずいね」 「そんな事はされて無いです」  片桐はそんな霊感商法みたいな事はしていない。誤解されたくは無くて少し強く言う俺に、どうかなと一郎さんは笑った。  そういえば、片桐の本名が藤堂だと知った時、何か変だと思いながらもその疑問を形にする前になし崩しで誤魔化された気がする。納得する前にセックスでうやむやにされた気がする。 「強く依存すると相手の言う事が正しいように勘違いする事がある。相手を理解しようとして、自分の疑問や意思を封じ込めて合わせてしまう事がある」 「片桐は別に……」  まだ庇おうとする俺の言葉に一郎さんの少し強めの口調が重なった。 「私の言う二郎と君の言う片桐とは同一人物だ」 「……え?」 「片桐とは二郎の通り名だよ、朝霞」  片桐が二郎さん?  言われた事を理解出来なくてただ一郎さんを見つめれば、見つめ返される強い視線に嘘は無いのだと、少し時間をかけながら俺は悟った。

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