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第37話
我爱你。
意味も分からず何度も囁かれた声が記憶の中に蘇る。
愛してる。意味が分かればそれは魔法の言葉だった。
そんなはずない。
俺は煖炉からの炎に横顔を照らす一郎さんの陰影を見つめた。
目の前のこの人と片桐に似ている所はどこにも見つけられない。そして片桐は俺とは一滴の血の繋がりも無いと、自分は中国人だと言っていた。そう、片桐の現在の地位は藤堂の親戚だから得られた物のはずなのに、彼は自分を外国人だと言ったんだ。
けれど一郎さんの強い目に嘘は無く、その答えに俺はすぐに思い当たった。
養子だ。俺が今現在その立場に居るじゃないか。
「互いの事を知るのは信頼関係の始まりじゃないか?私がお前の事を知りたいように、親子関係でも友人でも大事な相手の事は知りたい。そして同じように思うなら嘘も隠し事もしないだろう。もちろん言えない事は有るし全部を知る必要は無い。けれど、一番大事な事を黙って騙すような事をするどうかな」
片桐は大事な事を何も話してくれなくて、名前さえも。藤堂 二郎という人がさも他に居るように振舞っていた。
「きっと……理由が……」
「どんな理由が有ると言うんだい。隙を突いて養子にまでして、お前の将来を変える程の事はどんな理由が有れば許せると言うんだい。言いくるめられずに主張しなさい」
理由は有る。きっと有る。
けれど一郎さんの言う事は正しい。
よく考えれば変な事は沢山あった。二郎さんの後継者と言いながら二郎さん本人に一度も会えず、電話すら無い事。二郎さんの部下のはずの片桐が会社の社長で、高級マンションを与えられている事。藤堂の血筋の人間なのに中国人だということ。
外国人の片桐が藤堂家に養子に入り、やがて末端の会社とマンションを与えられて藤堂グループ本社からは締め出された。こう考えると辻褄が合う。
「私の元に来なさい、朝霞。お前は二郎に利用されているんだ。いくら二郎が養子にした所で、私が死んだ時に実父の私からお前への相続は発生する」
「え?」
「それ以前に、お前があれの会社を潰したら援助しなければならないだろう。二郎はそれを狙ってお前を手元に置いてるんだよ。一生お前で食いつなぐ気だ。成人すれば二郎の籍を抜ける事も出来る。誕生日までに考えなさい」
俺はまだやがて来る遺産相続の放棄の誓約書を書いていない。仙波さんと杏奈さんは書かされたのに。
壁のカレンダーに目をやると、自分の誕生日がもう月末に迫っている。もう少しで俺は二十歳になる。
一郎さんはそのまま俺を東京まで連れ帰ってくれた。
マンションの前に着いた時には既に深夜になっていて、整備された道路に灯る街灯が人通りの無い夜のマンション前を明るく照らしている。
「送ってくれてありがとうございました」
小さく礼を言って車から降りる俺に、後部座席で一郎さんが頷く。
「何かあったらすぐに連絡をよこしなさい。用事がなくてもいいから、たまには声を聞かせてくれ」
「……はい」
それではまたと降りた瞬間、俺は強い力で腕を引っ張られて車から引き離される。よろめいた身体を支えられて振り仰げば、片桐の顎のラインが見えた。
「どういうつもりですか」
固い声が車内に向けられる。
「親が子を旅行に連れて行くのに、何か理由が無いといけないかな」
「次は有りません」
「そんな事は無い。私はお前の兄であり、朝霞の実の父親なのだから。困った事があったらいつでも相談に乗るよ、二郎」
二郎と呼ばれた片桐は、はっとした顔で俺を振り返る。
その視線で一郎さんの言った事は全て本当なんだと確信した。片桐は藤堂 二郎だ。
数日ぶりに帰ったマンションの部屋は相変わらず豪華で広く、本家の次男という立場でありながら、本社には入れず何の役職も与えられないかわりにここが有る。
その部屋はテーブルやカウンターの上に書類が散乱し、ゴミ箱にはパンの空袋がそのまま突っ込んであって、珍しく荒れていた。
「すみません。あなたをどこに隠されたのかと探していました」
「いや。海辺の……別荘だったよ」
「不都合は有りませんでしたか。嫌な事や、まさか暴力は」
「有るわけない」
そう言ったら、片桐はそうですねと頷いて手早く部屋を片付け始める。その背中に違和感を覚えた。
連れ出される直前まで俺たちはしっくりと重なっていたのに、片桐は俺に甘えてくれさえしたのに、今は距離が有る。それがどうしてなのかは、俺が片桐と二郎さんが同一人物だと知ってしまったからだ。そして去り際に一郎さんがその事をほのめかして行った。
「片桐」
テーブルの上を片付けている背中に声をかけると、片桐はゆっくり俺を振り返った。
「教えて欲しい、片桐の事を。片桐がどこの誰で、子供の頃は何が好きでどうやって育って来たのか、全部」
一郎さんの言うように好きな相手の事は知りたい。教えて欲しい。そして知って欲しい。
「一郎様から聞いたでしょう」
「片桐から聞きたいんだ。お願い、教えて欲しい」
「私は……」
ふっと、片桐は俺から視線を外した。
「好きだから教えて欲しいんだ、お願い片桐」
「あなたの目はもう猜疑心で私を見ている。私が欲しいのは何があっても寄り添ってくれる気持ちで、少しの事で揺らぐのならば欲しく無い」
片桐は何も教えてはくれなかった。
それは勝手だ。
言いたい事も知りたい事も全て黙って飲み込んで、ただ愛せと片桐は要求するのか。それ以外は欲しく無いと言うのか。自分の事を何一つ語らず、俺が何を聞いたのかも確認せず。ただ愛せと。
名前も嘘、立場も嘘、都合の悪い事は言わないで、いよいよならセックスで懐柔する。なんだこれ、よく考えば遊び慣れた狡い男の手口まんまで、自分はバカだから騙され無いようにしようとか言いながら、俺すっかり騙されて懐柔されてたんじゃん。バカな女そのまんまじゃん。
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