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第38話
一度始めたバイトは社長とこじれたからと言って辞められない。
翌日、俺は片桐の会社の事務所で事務の人に教わった通りの仕事をしていた。それはパソコンに手書き伝票を入力して行く物で、机に座ってカチャカチャキーボードを打つだけだ。
頼まれた事をやりながら片桐を見ると、事務所の一番奥で電話を受け、パソコンを叩き、何かを確認してまた電話してと忙しそうで、プライベートの事など全く感じさせず意欲的に様々な事をこなしていた。
「よぅ、総帥に誘拐されたんだって?」
デスクで間違いの無いよう入力している俺の後ろから声をかけて来たのは高塚さんで、白々しい。
「はめたくせに」
ふんっと怒って見せれば、高塚さんはまぁまぁと下手に笑う。
「頼まれて朝霞ちゃんを本社に送りはしたけど、まさか誘拐されるとは思わなかった。社長が怒って大変。生還してくれて良かったよ。あ、それ終わったらこれコピー取っておいて」
都合良くどさっと何かの資料を渡されて、俺はうんざりする。
「もう騙されない。高塚さんの用事は聞きません」
「今度はコピー機すぐそこに有るから誘拐されないし。俺、専務よ?言う事は聞きましょう」
「……はい」
じゃあよろしくと俺の肩を軽く叩いた高塚さんは、次に片桐に声をかけてから二人で一緒に事務所を出て行った。椅子にかけてあったスーツの上着とビジネスケースを持って出たから外出だろうか。
社長と専務の姿が消えるとすぐに事務のお姉さんがコーヒーを入れて来てくれて、社長と一緒に住んでるんでしょうと聞かれた。
「え、えーと……」
「社長が言ったんだから隠さなくても大丈夫」
「そうなんですか。まぁ、はぁ……」
「社長は家ではどんな感じなの?やっぱり真面目で頑固親父みたいなの?」
よく知ってる。
「えーと……いや、もうちょっと、うーん」
「はっきり喋りなさいよ」
怒られた。
マンションに帰って勉強しながら待っていると、定時をずっと過ぎてから片桐は帰って来た。いつに無く疲れた顔をしていて、けれど部屋で待っている俺を見ると柔らかく微笑む。
「ただいま戻りました」
「……お帰りなさい」
俺は夕飯を先にコンビニ弁当で済ませていた。それを見て片桐が一階のレストランに降りて行く。一緒に行くかと声をかけられたけど断った。そしてその隙に風呂に行き、戻った片桐におやすみを言う。
リビングでは片桐がパソコンを開いて仕事をしていて、同じ場所で働いているのだから報告する事も無い。
「おやすみなさいませ」
俺が寝るのはシングルの布団を広げたあの部屋だ。これが普通なんだと思う。
そう、普通。普通の叔父と甥の関係なら続けて行ける。
翌日もバイトに行って事務所を手伝う俺を、社長の甥っ子が来ていると噂を聞きつけた社員の人が、珍しそうに見に来た。
「甥っ子って事はあれか、藤堂総帥の息子か」
ばれてもいいんだろうか。
この道二十年というベテランドライバーのおじさんに言われて、俺は曖昧に笑って誤魔化す。すると、こんな大人しそうな兄ちゃんで大丈夫かと笑われた。他の人にも笑われて、気安く背中までポンポン叩かれる。
そこに通りかかった片桐が、いじめ無いで下さいと笑って背中に隠してくれた。
「高校卒業した所なので、社会勉強に職場を見せてます。聞くより実際見た方が早いですから」
初対面の俺にもみんなが気安く話しかけてくれるのは、片桐が藤堂という名前を振りかざさず従業員に沿って頑張っているからだと思う。お高く止まって一段上に居たら、きっと俺も同じ目で見られる。
ドライバー達からあれはどうなった、これがどうだったと仕事の話が始まり、片桐が一つ一つ耳を傾けて親しげに話す様子に、頼りにされてるなと思った。
俺はさりげなくその集まりから離れて、外を見に行ってみた。ズラリと並ぶ倉庫に大型トラックが何台も着けられて、賑やかに荷物の積み下ろしがされている。どのトラックもみんなピカピカに洗車がされていて、それはいつか見たホームページの生き生きとした写真その物だった。
「危ないから入って来るなよ」
誰かが遠くから俺に向かって叫ぶ声がする。
清潔感があって安全管理がきちんとされたホーム。意識の高い従業員。
なるほどなと思った。俺が最初にバイトに行った営業所のような所を、片桐自ら一つ一つ手を入れて、このように作り変えているのだ。
一郎さんはこれが潰れると思っている。その時の保険に俺が必要なんだと言っていた。
事実、片桐はこれを潰せと言っている。
不可能だ。
会社はそこで働くみんなの物で、その先頭に立つ片桐が一番良く分かっているのに、潰せるはずが無い。
それでも潰せと言うのならそこには何かがある。片桐は俺を保険に一生遊んで暮らそうとしている訳じゃない。今度こそちゃんと、逃げてばかりの俺は向き合わなければならない。
雑用係でも事務所に入れる俺は色々調べる事が出来ると思う。
問題なのは、俺にその能力が無い事……なんだけど、どうしよう。
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