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第40話

 翌日の日曜日を、片桐は二日酔いで丸々潰した。  週明けの月曜。いつものようにシャキッとした顔をして出勤して行くのを見送り、午後には俺もバイトに行く。  事務所に行ってみれば二日酔いだったなんて微塵も感じさせない片桐が仕事をしていて、安心した。 「朝霞ちゃん、ちょっとお願い。また入力なんだけど」 「はーい」  高塚さんがパソコンのデスクの椅子を引きながら、机の上にファイルを山と積んで待っている。冬になる頃には受験のために辞める予定だからと簡単な雑用しかしないとは言え、その量に見ただけでうんざりする。  とりあえずデスクの前に座ると、隣の椅子から高塚さんが身を乗り出すようにしてパソコンの画面を指指した。 「使うのはこのアイコンね。開いて」  開いた画面とファイルを付け合わせながらやる事を教えて貰う。メモを取りながら一度で済ませようと真剣になっていたら、隣からいきなりかぷっと首筋を噛まれて、俺は悲鳴を上げた。 「ななななななにっ!なにやってんですかっ」 「いや、いい匂いするなぁーと思って見たら、誘うような首筋が」 「だからって何で噛むのっ、誘って無いです、首は首、全ての人間が持ってるから、犬も猫も魚も持ってるから!」 「魚にあるの?」 「しらねぇよそんなのっ!」  うるさいですっと事務のお姉さんに怒られて、何故か俺が謝らされた。 「専務だからって怒られて謝らないのずるい。高塚さんのせいなのに」  小声でブツブツ言いながら横目で睨めば、若い子は肌が綺麗でいいねーとスケベ親父みたいな事を言っている。  なんなんだ、この人。 「続き教えて下さいよ、一メートル以内に近付かないで」 「そんなの無理じゃん。手取り足取り教えてやるから」  ギャーギャー言ってたら、お姉さんにまたうるさいと怒られた。 「専務が朝霞ちゃん気に入ったのは分かりましたから、大人しく指導お願いします」  ビシッと言われて、高塚さんは今度こそ素直に謝ったものの、怒られたねと俺を見て他人事のように笑っているから始末に悪い。  本当になんなんだこの人。  しかも渡された入力書は膨大で、細かな数字ばっかり並んでいて気が遠くなる。人使いも荒い上にセクハラ魔人なんて最低。 「高塚、出るから一緒に来て」  そこに身支度を整えた片桐が声をかけて来て、外回りに出かけるらしい。 「じゃあ朝霞ちゃん、それ急いでるから残業してでもここまではやっといてね」  何気に鬼だ。  やっておいてと言われた所まで済ませて上がらせて貰うと、いつもより少し遅い時間になってしまった。  今日もコンビニで弁当を買ってマンションに帰れば、片桐はまだ戻っていない。避けられてるのは週が明けても継続中のようで、しんどい。  片桐の事は好き。でも信用出来ない。  欲しいと言われた盲目的な愛なら何も見ずに片桐に着いて行けるのかな。けどそこまで何も見ずに目を塞げない。  片桐が帰って来たのは深夜で、その時俺は既に布団の中にいて物音だけ聞いた。二人で暮らしているのに相手の気配だけ察するのは、一人で居るよりしんどい。いっそマンションを出て行って会わない方が楽かも知れない。  けれどそれは片桐を苦しめると思うのは、自分に甘いのかも知れない。本当は片桐も、もう嫌気がさしているのかも知れない。  カレンダーを確認しようと電気を消した真っ暗な部屋の中で携帯を取る。明るい画面の中の日付は、誕生日が来週に迫っている事を示していた。  来週、俺は二十歳になる。マンスリーならバイト代でも何とかなるから、その時にはっきりさせよう。  高塚さんに任された仕事が何の入力なのか気付いたのは、翌日になってからだった。  それはトラック一台ごとの収支報告書で、おかしい。藤堂専属の車が経費ぴったりの売り上げになっていて、利益を上げていない。その分他の車が他所を抱き合わせ輸送していて会社は黒字だけれど、専属で入ってる車の台数を考えるとそれらが利益を産めばもっと儲けがあるはずだ。これでは藤堂専属車が無料で走らされてるような物で、意味が無い。  それとも同じグループ企業だからだろうか。 「高塚さん、ちょっと質問が有るんですけどいいんですか」  デスクで仕事をしている高塚さんに声をかけると、ひょいとこちらを見た高塚さんはにやりと笑った。 「いいよ。じゃあオヤツ食べに行こうか。社長」  電話中の片桐に声をかけて、俺を社外に連れ出す事をジェスチャーで示すと、片桐は酷く嫌そうな顔をする。そりゃ一度高塚さんの言う事を聞いてお使いに出たら攫われたんだから仕方ない。 「さ、行こうか」 「や、あの……」 「今度は誘拐しないから、大丈夫、大丈夫」  本当だろうか。  なんかこの人は信用ならない。  連れて行かれたのは近所の居酒屋チェーン店だった。昼はランチがメインだけれど夜はアルコールがメインになるので全室個室の店で、中に入ってしまえば他に話が漏れない。  その座卓に向かい合って、高塚さんはため息を吐きながら笑うという器用な表情で俺を見た。 「よくわかんないんですけど、グループだと藤堂に入ってる車は経費分だけで運賃無料の契約なんですか」 「ダメだろ、そんなの。それより何にする?せっかくお子様と来たから朝霞ちゃんが頼んだふりしてパフェ食っていい?」  あっさり言われて、即違う話になってる。俺には高塚さんが分からないよ……。 「それより、春になるとたまにニュースでよくグループ全体の売り上げとかって言ってるじゃないですか。全部合わせちゃうから仲間内は損得無しって事なんですか?」 「あははは、面白い事言うね。それだったら世間は仲良しで戦争も起こらないや」  世界規模の話になった。どうやら俺は全然的外れな事を言っているらしい。 「グループ企業ってのは親会社、子会社の関係になる。子会社は親会社から便宜を得られる変わりに上層部は親会社の人間が天下って勤めるわけで、うちはこの天下りが片桐と俺」 「えっ、高塚さんも藤堂の親戚なんですか?」 「まぁね。嫁が藤堂筋の人なんだ。片桐にくっついて入社して知り合った」  結婚してたとは知らなかった。生活感の無い人と言うか、まぁ片桐より五歳程上に見えるから、変じゃないけど。 「わぁ、高塚さんの奥さん見てみたい」  そう言ったら、思いがけず照れた顔ではにかんで笑った。 「今度な。子供が出来たんで田舎に引っ込んでる。で、なんだっけ?そう、うちは運送屋で藤堂の子会社の荷物を運ぶわけだけど、この子会社は他所の会社と同じな訳だよ。もちろん多少の便宜を図ったとしても、利益の上がらない仕事はしなくていいに決まってる。と、ここまで理解した?」  した。同じ会社じゃないのだから、財布まで一緒にしなくていいって事なんだと思う。 「片桐が泣かされてんだよ、でっぷり腹の肥えたジジィ連中遊ばせるために。行政監査が入っても、幾ら安かろうが運賃契約が結ばれていて不正は無い。だけどこれじゃあ会社はやってけない。でも所詮養子だから一族総意には敵わない。逆らったら潰されて困るのは従業員だ。親族経営ってのは上が一塊になってるわけで、御親戚ですから」 「え、だって片桐はそういうの許さないじゃないですか」  岩田さんと赤坂さんの時にそう言ってたし、事実二人は消えた。 「そりゃあっちから見ても片桐は信用出来ないだろうし、あいつの気性は理解してるだろうから、突っ込まれて困るボロは出さない。だからずっとこのまま。動けないんだよ」  だから潰したいのだろうか。でも潰してしまったら結局同じなのに。 「世の中そういう会社は大小かかわらずいっぱいあってね、みんなギリギリの線を渡ってる。灰色なんだよ、世間は。全部が灰色。片桐だからまだうちの会社はマシで、献金なんか要求されたら目も当てられねえわ。お前ならどうする?」  そんな事言われても。  とても簡単に話してくれたんだろうけど、片桐が動けない物を俺がどう動かせると言うのだろう。

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