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第41話
高塚さんの話を聞いて、俺はマンションを出て一人で暮らす事を決めた。
バイトでもそこで働く従業員の様子を見てしまえば、藤堂のやっている事は許せない。かと言って俺に出来る事など何も無い。
新しい生活の軍資金ならバイト代が入ったから、最初に片桐が約束した、一文無しの俺が出る時はそれなりの事をしてくれるというのはこれで果たされたと思う。
俺は出て行く。そして一人で生きる。これが結論だ。
コンビニで住宅情誌を買って帰ったマンションは、珍しく灯りが点いていて片桐が帰っているらしい。ここの所ずっと遅かったのに、出て行く事を決めたこんな日に限って帰りが早いんだな。
「ただいま」
そこにはソファー座りに肘を着いて、顔を伏せているスーツのままの片桐が居た。
「どこに行ってたんですか、門限は業務終了から三十分です」
そんな事、もうすっかり忘れていた。
「食事は?」
聞かれて俺は黙ってコンビニの袋を掲げて見せた。
「体に良くないです。たまにはちゃんと食べて下さい」
椅子から立ち上がった片桐がキッチンに移動しながら、俺の掲げた袋に目を止める。
「それは?」
袋の中に住宅情報雑の入った紙袋を一緒に入れていた。
「何でも無い」
「そうですか」
言いかけてそのままキッチンに行こうとした片桐は、何かに気付いたように立ち止まって俺に向かって手を差し出した。袋を見せろと言っているのだ。
それでやっと、紙袋に雑誌の表紙がうっすらと透けているの気付いた。
「そろそろ一人暮らししようかなと思って」
固い雰囲気に気圧されながも言い訳の言葉を紡げば、片桐は瞼を伏せる。
「下手な嘘を吐く。あなたの誕生日パーティーをすると兄から呼ばれています。お披露目も兼ねて」
「それ、俺まだ返事してない。それにお披露目ってなに」
「近い親族の前で紹介して、藤堂本家の者として迎えるという事です」
そんな話は聞いて無い。
知らないと首を横に振ったけど、片桐は薄く笑った。
「ここから出て誰からの援助も無しにどうやって暮らすと言うんですか。一郎に頼るつもりなんでしょう」
「違う。俺はバイトして」
「無理です、そんなに甘く無い。経済的にすぐ行き詰まります」
「やってみなきゃ分からないじゃないか」
「同じ事。あなたは私の元からいなくなる」
「それは……」
どうしてこうなったのか。すれ違いを正せなくて。
我爱你。
そう言って貰った時はあんなにも重なっていたのに、正す事すら恐れて会話が無くなった。
「それとも、高塚ですか」
「高塚さん?」
ここでなんで高塚さんの名前が出て来るのか分からなくて、俺は首を傾げた。
「あの時、離れたら二度と戻らない予感がしていた」
それ以上、もう片桐は何も言わなかった。そして踵を向けてキッチンに立つ。上着を脱いで、白いワイシャツの袖をまくって俺の夕食を温め直す。
出て行く気配を伺わせても片桐は追ってはくれない。離せないと言ったくせに、実行には移してくれない。待った無しで終わりを受け入れる。
その程度の物だから何も話してくれないのだろうか。俺はいつも諦めて来た。きっと片桐には片桐の考えがあって、従っていれば間違い無いと黙って来た。
全く腹が立つ。
話して貰う事を待ってる自分に腹が立つ。俺が出来る事など待つばかりで、結局こうなった挙句にキレて見せる程度の事だろう。会社云々なんてのは雲の上の話で見当もつかないし、片桐との関係も修復できない。
どんだけ小者なんだ、自分。情けない。
「俺がいなくなったら片桐の計画は終わりだね」
「知りませんそんな事。もうどうでもいい」
「良く無いだろ、一生の問題じゃん。俺が居れば片桐は藤堂から金を貰って食いつなげるのに、いなくなったら一郎さんが資金援助を……」
「舐めた事を言うな!」
言い終わらないうちに、こちらを振り返った片桐に一喝された。初めて怒鳴られて、俺はビクリと肩をすくませる。
「私がいつ資金援助を申し込んだと?あの人が言ったんですか」
「え、いや……これからの話?」
「これからどうしてそんな事に。あぁ、いいです。何を聞いたか知りませんが、あなたがそれを信じるならそれでいい」
片桐の世界は白と黒しか無くて、その中間色が無い。それははっきりしているけれど話す余地も無いという事だ。
この世界は灰色だと見せたのは片桐なのに、その潔癖さが本当に頑固で頭に来る。そういえば、最初から合わないと思っていたのはこういう所だった。
「ねぇ、話し合おうよ。俺は片桐と話したい。片桐を知りたいと思ったのがそんなに悪かったの?」
言った自分の声が泣いてるみたいに細くて自分で驚いた。その声に釣られて、水道を止めて俺を振り返った眼差しが俺の声より悼く見える。
「多分きっと、これまであなたが見てきたどの人間よりも私は狡く汚い。だからこんな自分を隠して少しでもマシな人間のふりをしていたかった。言わないのはそういう理由です」
「俺はそんな事気にしないし、片桐が思うより俺の方が汚いかも知れない」
真っ直ぐに見つめて言い切れば、片桐は苦く笑う。
「あなたは綺麗ですよ。私が見てきた人の中で誰よりも。だから自然と汚水を避けて、私から何度も逃げようとするのだと思います」
濡れた手をタオルで拭いた片桐に、そのままタオルを投げつけられた。痛くも無いそんな片桐の思いが、胸にぶつかりハラリと足元に舞い落ちる。
「素が見たいなら、幾らでも」
来る。
やっと話して貰える。
気配に俺は頷き、聞く準備は出来ていると先にリビングに向かった。
何を聞いても驚きはしないだけもう腹は据わっていて、この時をどれだけ待っただろう。
その結果がどうなっても、後悔はしない。
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