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第42話

 リビングのソファーで俺たちは向き合った。  普段からテレビをあまり点けない部屋はどちらかの声が無ければ静かで、最近はこの白い部屋もずっと沈黙していた。  広い部屋だ。高級マンションの最上階で、モダンでおしゃれで、こんな所住みたくても住める物じゃない。けれど向き合う俺の目には、この部屋が片桐を閉じ込める白い鳥かごのように見えた。  納得しろと中身の無い見栄えの良いだけの物を与えられて、代わりにそれ以上を奪われている。 「昔の話です、今から三十年前」  やがて用意したコーヒーを一口飲んでから、片桐は静かに語り出した。 「中国から労働でやって来た女性がいました。彼女は一人の日本人の男性に恋をした。けれどその人にはとっくに家庭があって、やがてビザが切れた彼女は男と別れて泣く泣く帰国した。男は藤堂 一郎です。そして彼女は帰国してから妊娠に気付いた。その時生まれた子供が私です」 「えっ……?」  それでは俺と片桐は兄弟になってしまう。血縁関係が無いなんて嘘で、一郎さんの息子同士じゃないか。  腹違いの兄弟。  思わず口元を手で覆った俺に、片桐が向かいのソファーから緩く首を振る。 「女は一郎に連絡をして、迎えが来るのを中国でずっと待っていた。しかし日本からは何の音沙汰も無く、待ち望んでいた迎えがやっと来た時、私は五歳になっていました。一郎は特別養子縁組をして私を実子として迎えようとした。  養子縁組には二種類有りましてね、朝霞様と私は普通養子縁組です。これだと朝霞様は私の子供になるけれど、実父の一郎との縁も切れません。特別というのは元の家族から切り離して完全に自分の子にする事です。  母は私を一郎の子と主張したけれど、生まれたのが中国で国籍が違う。認知するにも縁組するにも時間がかかる。  やって来た代理人に私だけが日本に連れて来られました。年齢制限が有るんですよ、特別養子縁組の子供は六歳未満で無ければならない。  言葉も通じない、母もいない国で私は毎日帰して欲しいと泣きました。が、許されない。そうこうしているうちにDNA鑑定の結果が出ました。今と違い当時は鑑定に時間がかかる上、何度もやり直した」  そこで片桐はソファーから立ち上がり、サイドボードの引き出しから一通の封筒を取ってテーブルに置く。 「どうぞ。あなたを私の籍に入れる時に使った物です」  俺は片桐の白い顔を見ながら封筒に手を伸ばした。  中で折りたたまれた紙は、戸籍謄本だった。けれど。  理解が出来ない。  俺は黙ったままじっとその紙を見つめて答えを探す。  片桐の名前は藤堂 二郎になっていて、そこは分かる。そして養子として俺の名前も記載されていて、実父の欄に一郎さんの名前。なのに遡る片桐の父の欄には一郎さんの名前では無い別の人の名前。そして養子の文字。実父は空欄になっている。  おかしい。  実父が空欄の答えは一つしか浮かばない。 「違ったんですよ。何度もやり直したDNA鑑定は、何度やり直しても私と一郎の親子関係を否定した。私は一郎の子供では無かった」 「じゃあ……」  やはり俺との血縁関係は無い。 「当然認知の話も養子の話も無くなった。国際養子縁組は時間がかかる事が幸いし、成立しないまま私は六歳になった。これで母の所に戻される。そう思った時……今度は母が行方知れずになっていた」 「え?」 「母は知ってたんですよ、私が一郎の子供では無い事を。私を日本に送り出した時点で手切れ金としてそれまでの養育費と慰謝料が払われたそうです」 「そんな、じゃあ片桐は」 「母が恋しいと泣く子供はそこに存在する。一郎は騙されて人身売買で子供を買わされたんです。金が動いていなければ慈善でも、実際には多額の金額が支払われている。こんな事が世間に知られたら大変な事になる。隠し通さねばならない、絶対に。私は山奥の屋敷に送られました。片桐というのは乳母の役目をしてくれた使用人の名前です。屋敷で調理師をしていた方が居たでしょう」  そういえば、あの屋敷は高塚さんのお父さんともう一人、料理や掃除をしてくれていたおばさんが居て、それで賄われていた。 「母親変わりになって私を育ててくれた片桐さんは、期待外れに泣き暮らす私に、いつか迎えが来るはずだと言い聞かせました。それまでの辛抱だ、勉強して優秀な人間になれば必ず迎えが来るはずだ。子供だった私は素直に信じて必死で勉強して、努力して努力して……けれど違ったんです。私が待っていたのは母の迎えだけれど、片桐さんが言っていたのは藤堂からの迎え」  そして藤堂から迎えは来た。藤堂性を名乗っているのだから。  けれど。  俺はもう一度戸籍謄本を見て年代を指折り逆算する。そこには片桐が帰化した日付が記載されているのだけれど、それはほんの十年前。  そしてもう一つ。  水雅という名前。これが多分帰化する前の片桐の中国名だと思う。漢字の名前をわざわざ帰化に合わせて二郎と改名している。 「片桐を養子として藤堂に迎えたのは誰なの」 「あなたのお爺様です。一人息子の不祥事を拭い去って先代は亡くなりました」 「二郎と改名させたのも?」 「その方です。日本国籍が無い人間はずっと日本には居られない。けれどもう、私は中国に帰っても行く場所も待っていてくれる人もいない。やっと差し伸べられた手を取るしか無かった」  あなたのお母様がいなくなった時と同じですねと、薄く片桐は笑う。  だから俺の母さんがいなくなった時、あんなに心配してくれたんだと今更分かった。片桐は幼い頃の自分と俺を重ねたのだろう。  それにしても、元の名前が水雅なら漢字をそのまま当てはめる事は可能なのに、わざわざ二郎にしている。長男が一郎とくれば次男は二郎。正しく一郎さんに次ぐ名前だ。  無理矢理名前を奪われる事とはどういう事だろう。それまでの全てを消されて、存在すら無かった事にされるという事なんじゃ無いだろうか。否定とかの問題じゃなくて、抹消。そして役割だけを押し付ける新しい名前に繋がれる。  片桐が居る本部を見た時、いい会社だなと思った。最初にバイトに行った営業所よりみんな生き生きしていて活気があって、そして片桐を信頼していた。それはやがて日本中の全ての営業所に広がって行くだろう。しかも藤堂に利益を吸い取られているようなもんなのに、まだなんとかギリギリ黒字。  会社とか仕事とかよく分からないけど、相当な手腕の気がする。営業行って仕事貰って、他の運送会社とも折り合い良く付き合って。  子供の頃から努力を重ねた結果、若くして頭角の片鱗を現した片桐を見抜いた先代の爺さんは、国籍を与える代わりに片桐を藤堂に繋いだ。そして片桐は期待通り藤堂という企業の末端で、身内が食い潰す餌を稼いでいる。  気付けば握りしめた自分の拳が膝の上で震えて、爪が手のひらに食い込んで痛い。  悔しい。一人の人間の人生を。親から離して間違いでしたで幽閉して、更にその子が優秀だと分かればまた利用する。  なんだと思ってるんだ。悔しい。悔しくてたまらない。  片桐が自分の事を語らないのは、語れないからだと分かった。連れて来られた子供は抹消されて、本当の片桐は遠の昔に失われている。居るのは藤堂 二郎。そして藤堂 二郎の十九歳以前の過去もまた存在しない。 「教えて」  俺は顔を上げて片桐を見た。 「片桐の本当の名前。なんて読むの」  聞いた時、片桐の瞳か大きく揺れた。そしてその名前は、何年もの時を超えてやっと音になる。 「スウェィヤー」  それは片桐に似合う、綺麗な響きの名前だった。

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