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第43話
「スウェィヤー」
片桐が言うのをなぞって初めて発音した名前は難しい。けれど俺がそう言葉にした瞬間、片桐が顔を伏せた。
口元に片手を持って行く動きに、泣いたのかも知れないと思った。
「水雅」
もう一度呼ぶと、吹っ切って顔を上げた片桐に涙は無かった。
「人は強い時も有るけど、弱い時も有るよ。泣いても格好悪く無いと思う」
「泣きませんよ、こんな事で。幾つだと思ってるんですか」
何を聞いても黙って愛して欲しいと言ったくせに。それしか要らないと言ったくせに。
片桐の求める物は国籍も家も外堀を全て取っ払った自分その物に向けられる愛で、今となってはその意味が理解出来た。
愛情を欲しがる子供のように包んで欲しいと願っているのは、俺じゃない。片桐の方。
じゃあ俺に出来るだろうか。片桐が望むまま、片桐を包めるだろうか。
「最初から、理由を話してくれれば協力したのに」
「私は誰も信用していなかった。欲に目を眩ませてやって来たあなた方を利用する事しか考えて無かったんです。なのにあなたは正直なだけの子供で、最初から私を見抜いて嫌っていた。私には笑ってくれないあなたに、汚い奴だと責められてる気がしていました」
やるしか無い。
相手は十も年上で、ガチガチの堅物に自分を装う男だ。おまけに俺よりずっと頭が良くて本当に手に余る。
けれどその人が愛して欲しいと心で泣くのだから、こんな可愛い人を離せるはずがない。
片桐はまるで深窓の令嬢のよう。執事じゃなくて姫だった。
黙り込んでこの先をどうしたらいいか無い頭を絞る俺は、向かいのソファーで片桐が怯えている気配に気付いた。
何を考えているのか分からず、きっとさよならを言われると思っている。
俺はそんな片桐に向かって、なるべく優しく笑いかけた。
けれど片桐が欲しいと駄々をこねても、それは駆け落ちでもしない限り藤堂込みなる。俺と会社とどっちを取るのとかって迫れば、あっさり従業員を取られるのは目に見えているわけで。
本当に、どうしよう。
「まず、俺は一郎さんの開いてくれる誕生会に出るよ。そこで藤堂の一族として認めて貰う」
「そう……ですか」
決まったなと、片桐はため息を吐く。
「待って、けど片桐の籍からは抜けない。俺たち結婚したんでしょ?財布くれたよね」
あの時買ってくれた財布はもちろん今も使っている。薄茶の皮が少し濃い茶色に変わって来た所で、これからどんどん濃くなるのだろう。
「片桐が立場の弱さを取られて藤堂に使われるなら、俺が藤堂の人間としてあの会社を守ろうと思う。一郎さんは自分の子は可愛いっぽいから、俺が居れば違うと思う」
「それはそうですが、それでは朝霞様が会社の為に将来を縛られる。あなたが引継ぎ早い内に傾かせれば、本社が買い取り従業員は無事なはずです。それまでの一時、申し訳ありませんが時間を下さい。そして自由になって下さい」
やっぱり片桐が言う会社を潰せは、社長が自分では延々食われ続けるだけだと先を見ての事だった。このままでは頑張ってる人達に見返りが渡せないから、本社に買い取らせて従業員を守り、自分は身を引く。
「従業員は誰の下でもいいって訳じゃ無いと思うよ。それに残念だけど、俺はバカだから将来知れてるんだ」
「朝霞様をバカだと思った事は一度も無いです。環境から抜け出す事をせずに甘んじて受ける私とは逆に、気に入らないとすぐゴネて逃げ出そうとするわがままっぷりが眩しくも有りました。その奔放な強さが私にあったらと」
誉められてるのか貶されてるのか分からない所が微妙だ。けど、きっと片桐が俺を選んだのはそういう所なんだと思う。最初から俺たちは正反対だった。
「俺は今自分で決めたんだ、永久就職先の旦那とやってくって。これはプロポーズだよ。ねぇ片桐、愛が欲しいなら俺の手を取れよ。ここに有るんだ」
俺はテーブル越しに片桐に向かって手を伸ばす。
ここに有る。この手を。
差し出した手を片桐がじっと見ている。
「疑り深く計算高い、小声が趣味で嫌味ったらしい。こんな性格の悪い人のどこに惚れたのか自分が分からないけど、惚れたものはしょうがない。もっと言えばペラペラペラペラ小言の口はよく回るくせに自分の事は話さないで、俺よりも激しい激情型だ。だいたい年の差を考えれば俺の方が甘やかされていいはずなのに、片桐の方が真っ先に甘えて来てたってどうなの。だけど好き。凄く好き。絶対好き。これが今俺が考えてる事」
言わないとまた勝手に決めつけられて悟りを開かれてしまうから、俺は自分の意志を口に出した。
「俺の嫁さんになって」
その瞬間、ぷっと片桐が吹いた。
「私が嫁ですか」
笑いながら手に手が重なり、テーブルの上で繋がれる。その手のひらの温かさが心にジワリと染みて来て、やがて嬉しくて叫びたくなる。
「やった、マジ?」
プロポーズは成功したらしい。
「離婚の時は慰謝料請求しますよ」
「即再婚して俺の一生で払うよ」
勢い付いて、俺は繋がれた手を離さないままテーブルを回り込んで片桐をソファーに押し倒す。抱き付いて頬をすり合わせて、目の前にあった唇にキスをしようとしたら、苦笑いを浮かべる片桐に押し返えされた。
「なんで、ここはそういう流れじゃないの?嫌なの」
「嫌では無いですけど、高塚とあの時どこに行ったんですか」
あの時と聞かれて、俺は首を傾げた。
ソファーに押し倒した片桐が下からじっと俺を見つめて来ていて、それでやっと思い出した。
「ああ、会社の近くの居酒屋チェーン店。高塚さんはパフェ食ってたよ。一郎さんに怒ってるから協力してくれるって言った」
「ああ、それであの資料の打ち込みをやらせてたんですか。何を見せるつもりなのかとヒヤヒヤしてました」
「片桐の方こそ高塚さんと昔何かあったの?あの人片桐に触る手がやらしい」
「は?まさか。高塚と何かあったら自殺しますよ。そこまで自分を粗末に出来ない」
凄い言われ方だ。
「朝霞様の方こそ高塚に首を舐められて、そこから病原菌が回る」
以前高塚さんに噛まれた首をゴシゴシ擦られて痛い。
なんだかなぁと思っていたら、擦った後をぺろり舐められた。
「くすぐったい」
首をすくめると、片桐が苦笑いした。
「こんな初心なの高塚に手ぇ出されたらあいつ殺す。奥さんが田舎に帰ってるから危なくて仕方ない」
「ああ、そうなんだってね」
人の事より自分が幸せで、今度こそこれが永遠に続く事を願った。
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