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4.ファミリー -1
祐仁は歩くのが早く、颯天が部室を出た頃にはもう屋上の出入り口近くまで進んでいた。
気配を察したのか、ドアにたどり着く寸前で祐仁が足を止めて振り向く。
躰が急に汗ばんだのは、クーラーのきいた場所から蓄熱したコンクリート上に出て、温度差に対応しきれないせいか。
まっすぐ見返せば、不自然なほど祐仁からじっくりと見られているように感じた。
表情まで見分けられるほど距離が近くなるにつれ、粘りつくような視線が全身を覆っているような気がして、颯天は嫌でも十日前の信じられない出来事を思いだしてしまう。
本格的に夏に入って日が沈む時間も遅くなったが、それでも暗くなるまで集う活動が早く切りあげられたのは祐仁の都合――即 ち、颯天との時間をつくるためだろうか。
そんなことを勘繰ればますます焦る。
足がすくみそうになるのをこらえて、颯天はなんとか祐仁のもとにたどり着いた。
「どこに行くんですか」
「邪魔の入らないところだ。聞きたいことがあるだろう?」
「……弟の話なら聞きたいです」
「ほかに何がある?」
祐仁は愚問だとばかりに薄らと笑い、ついてこいと云うかわりに顎をしゃくった。
祐仁に先導されながら、半歩どころか五歩くらい間を空けて階段をおり、校舎の外に出たとたん、祐仁は歩きながら振り返って颯天に一瞥を投げた。
ふっと漏らした笑みは、颯天の臆病さに気づいて呆れたのか。
臆病ではない。
そんなプライドがもたげて、颯天は半歩後ろまで追いついた。
会話ができる距離でありながら話すわけでもなく、大学構内を出るとタイミングを計ったように車が歩道沿いに止まった。
洗車してきたばかりかと思うほど黒光りした、いかにも高級車だったが、後部座席のドアが開いたとき颯天は一瞬、誘拐かと思った。
段田に連れていかれたときの広希のことが脳裡をよぎったのだ。
車からはだれも降りてくる気配がなく、祐仁は自ら歩み寄った。
「乗れよ」
祐仁は客を迎えるようにドアを支えて、颯天を促した。
何者だ。
そんな疑問を持ちながら、颯天は招かれるまま車の後部座席に乗りこんで奥に行った。
祐仁が続いて颯天の隣に座ると、車のドアはタクシーのように自動で閉まり発進した。
ダークスーツ姿の運転手の男は、乗るときにちらりと見ただけだがおそらく二十代半ばだろう。
颯天が乗るとき無反応だった男は、祐仁が乗る際、かすかに会釈をしていた。
臨時雇いの運転手ではない、阿吽 の呼吸が感じられる。
以降、車中は暗黙の了解のように互いに言葉を交わすこともなく静かだ。
颯天は、呼吸音を立てることすら気づまりで、ゆったりと座席にもたれかかっている祐仁を横目で見、居心地の悪さを紛らせるように時生から聞かされたことに思考を馳 せた。
祐仁の噂について最初に聞いたのは、バックに大物がいてその愛人だということだった。
それが、次には大物はどうやら裏社会に通じた人らしいとなって、さらにその次には裏社会の要人だとまで発展した。
その噂話を聞かなければ、広希のことで祐仁を頼ることはなかったかもしれない。
実際に、この内装が革張りだったり、艶を出した木製のパネルが嵌めこまれていたりするこの高級車が祐仁を主 としているのは明らかだ。
祐仁自身の家柄がいいのか、それとも噂どおりで大物から優遇を受けているのか。
少なくとも、訊くまでもなく広希のことは祐仁が解決してくれたのだと颯天は確信した。
そうして都心部に入り、数ある高層ビルの一つ、クラッシックな装いの洒落 たビルの前で車は止まった。
車を降りてそびえ立つ建物を見上げると、エントランスの上に『Noblesse 』と凝った書体で記された銘板があるだけで、ほかになんの表示もない。
建物内に入るとフロントがあり、コンシェルジュから儀礼的な挨拶を受けただけで祐仁は素通りした。
ホテルのロビーのようにソファもあれば、観葉植物や水槽などの鑑賞物もあった。
出くわす人は様々で、子供や年寄り、そしてスーツを着た男性や買い物袋を提げた三十前後の女性もいる。
そんな日常が見られるのは、ホテルではなくマンションだからだ。
贅沢(ぜいたく)だと思いながら、颯天は祐仁についていった。
エレベーターは振動を感じないほど静かに上昇し、最上階の二十五階で降りるときには颯天と祐仁のふたりだけになっていた。
「朔間さん、ここ、ホテルじゃなくてマンションですよね。ここに住んでるんですか」
それまでの沈黙を破り、床の大理石は本物か模造か、そう思ったとたん颯天は訊ねていた。
「いまのところ、そうだ」
「いまのところ、って……」
「そのうち教えたくなったら教える」
つまり、よけいなことは訊くなということだ。
大学生の祐仁は頼りがいのある先輩というイメージを醸 しだしているが、大学を一歩出たとたん、独裁者のようなイメージを纏い、そしていま、颯天に対しては権限者であることを示した。
いくつかドアの前を通りすぎ、まもなく行き止まりになる寸前のドアを祐仁が開ける。
車に乗るときと同じで、祐仁がドアを支えてさきに颯天を促した。
入ると、玄関口は颯天の家よりも格段に広く、天井まで届く収納ボックスがあり、二足だけ男物の革靴が外に並んでいるだけですっきりとしている。
その二足は光沢のあるビジネスシューズで学生向きではない。
祐仁のものだろうかと疑問に思っていると、奥のほうから物音が聞こえた。
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