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9.忠実であるべき主 -1

すっかり日が暮れ、窓辺に立って見た眼下には河口のように照明の波が広がっている。 よほど有能で天がみかたしていないかぎり、二十歳代では手に入れることの難しい景色だ。 まもなく二十五歳になろうかという高井戸颯天(たかいどはやて)はそれを手に入れていた。 天に見放されていないか、有能かどうか、まだその結論は出ていない――はずだ。 『颯天、元気でやってるんでしょうね。まったく帰らないで。本当に東京にいるの?』 耳に当てたスマホから聞こえる母の声は、五年前とさして変わらない。 もっとも母からは一週間前に電話があったばかりで、それ以前にもしょっちゅう連絡は取り合っているから、変化を感じとる暇もない。 『東京にいるの?』という母の問いかけは口癖になりつつあり、颯天は独り苦笑いを浮かべた。 「いるさ。ここに来たことあるだろう。近々帰るよ。いろいろ任されてるし、忙しいんだ」 『そんな贅沢なところに住まわせてもらえるくらいだから、社長さんもよっぽどあなたのこと買ってるんだろうけど。過労死なんてことにならないでちょうだい。連絡もなかなか取れないんだから』 「だからこうやって折り返し電話してる」 『広希(ひろき)も就職してから忙しいって、バイトやってた大学時代よりますます帰るのが遅くなったの。大丈夫かしら』 「あいつのとこはフレックスタイムだって聞いた。広希はもともと夜型人間だし、朝ゆっくりしてれば問題ない」 受話器からその吐息を感じそうなくらい、母はこれ見よがしに大きくため息をついた。 すると、合わせたように反対の耳に吐息がかかる。 ぞわぞわと背中から粟立ってしまう。 いつまでたっても慣れることはない。 それどころかますます敏感になっている気がして、颯天は喘ぎそうになったのを瀬戸際で堪えた。 窓に映る自分の向こうに人影を捉え、そうして目が合う。 にやりと薄ら笑いを浮かべ、背後から颯天を抱くようにしながら、節くれ立った手をカーゴパンツのベルトにかけた。 『仕事しないで家にこもってるよりはマシなんだろうけど、息子二人ともワーカホリックだなんてどうかしてるわ』 「それってぜいたくな悩みだろ? じゃあ切るよ。これから社長と食事の約束してるんだ」 『もう! 近いうちに顔出さないと、あんたの社長に直談判するわよ。いいわね?』 「ああ。おれからも云っとく」 ――社長じゃなく組長に。 と内心で付け足した。 颯天のふざけた返事に呆れて笑いながら、母は、またね、と電話を切った。 ん、あ……。 ボクサーパンツをずらすようにしながら颯天のオスがつかみだされた。 その瞬間の声は母の耳に届いていなかっただろうか。 そんな不安を覚えながら、颯天は顔だけ後ろを振り向いた。 「なが……んんっ」 呼びかけているさなか、颯天は口をふさがれた。 躰を抱きとられ、首をひねったままくちびるを押しつけられ、逃れることはできない。 無意識で止めていた息が出口を探して颯天自身の口を開かせる。 とたん、分厚い舌が口腔へと侵略してきた。 熱く煙草臭く、なお且つ貪るような攻撃性にもすっかり慣れたが、その慣れはスイッチとなって颯天を即座に悩殺する。 颯天の(あるじ)はキスをしながら器用にシャツのボタンをはだけ、胸に手を当てて撫でまわした。 四本の指先は八の字を描きながら左右をゆっくりと巡る。 けっして弱点には触れない。 それが逆に弱点を苛んでいる。 早くしてくれ。 胸を這う手の甲に手を重ね、颯天は無言で切望する。 すると、男娼ごときが、と懲らしめるべく、咬みつくようなキスに変わった。 差しだすように絡ませた颯天の舌が歯噛みされる。 はじめてそうされたときは本当に咬みちぎる気ではないかと怖れた。 けれど、ぎりぎりで痛みは回避される。 そのぎりぎりにあるのは快楽にほかならず、呑みこまれるかと思うほど舌を吸引されて、颯天の脳内はエンドルフィンに痺れてしまう。 そうして、左胸の尖りが捕らえられて転がされる。 ずんとした甘い痺れが全神経を侵し、颯天はくぐもった嬌声を放った。 躰ががくがくとふるえて足もとからくずおれそうになる。 同時に右胸が抓まれて摩撫されると、下腹部に一気に熱が溜まった。 だめだっ。 内心で叫び、それでも制御できずに逝きそうになった寸前、くちびるも手も颯天から離れていった。 下腹部が疼いたまま取り残され、颯天はのけ反っていた顔を起こして閉じていた目を開ける。 窓に映った自分に否応なく見返された。シャツを乱して胸を晒し、そしてカーゴパンツをはだけてボクサーパンツから飛びだした颯天のものは隠しようもなくオス化していた。 「永礼(ながれ)組長、今日は……」 窓に映る目を見て話しかけると、しかめた顔がくっきりと浮かびあがった。 「ふたりきりだ」 永礼直樹(なおき)は、耳もとに息を吹きかけるようにしながら低い声で熱く語りかける。 颯天がそのしぐさに弱いとわかっていて永礼がそうするように、ほのめかされただけで永礼が何を要求しているのか颯天が察するにはたやすい。 それほど五年半という月日は長かった。 「直樹さん、清道(しんどう)理事長が見えます」 永礼の要求に添い、ファーストネームで呼べば、満足そうな笑みが渋い顔をやわらかく見せる。 永礼が率いるやくざ組織、凛堂会(りんどうかい)の組員にはあまり見せることのない、組長らしからぬ穏やかさだ。 「そのまえに抱いてはいけないというルールでもあったか」 子供っぽ云い分だが永礼は悪びれることもなく、そして颯天の答えを聞くまでもなく、手を颯天のオスに添わせた。 くっ。 そこは颯天の意思に関係なく、びくんと跳ねるような反応を見せた。自ずと血が滾っていく。 「颯天、おまえはいつも期待を裏切らないな」 「裏切ってほしいんですか」 訊ねると、くつくつと興じた笑い声が颯天の肩に降りかかる。 「そうしてくれたら、簡単におまえを手放せるんだがな」 「手放す?」 「そうだ」 「……殺す、って意味ですか」 明確に颯天への要求であればさっきのように読みとれるが、永礼の中にある本意は読みとれたためしがない。 もっとも、心情が筒抜けであれば、四十という若さで関東随一と悪名の高い凛堂会のトップに立ち、十年もの間、安定して君臨していられるはずがない。 その身には常にほかの追随を許さないような威厳と獰猛(どうもう)さを纏い、永礼は非情であることをためらわない。

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