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10.乱れぬ足音 -2

祐仁! そう叫んだつもりが果てたばかりの息苦しさと猿ぐつわのせいで一音すら言葉にならない。 「いいだろう」 すぐそこにいるのが祐仁なら颯天の最低限の願いは叶っている。 違う、いま最も願っていた再会が叶った。 それなのに、ひと目見ることも呼びかけることもできない。 了承する永礼が非情にさえ思えるほどもどかしかった。 いますぐ触れたいという衝動が叶わないばかりか、祐仁の手が颯天の中心から離れていき、心もとなくさせられる。 「明日、こっちから車をやる」 「承知した。何か失態があれば返品してくれ。私のお気に入りだ」 短くこもった声は笑ったのか。 「これで今回の件はチャラということで。では」 と、素っ気ない挨拶のあと、乱れることのない靴音は遠ざかっていく。 果たして本当に祐仁だったのか確かめることはできないまま、颯天は心底から込みあげてくる、泣き叫びたいような欲求を抑制しなければならなかった。 躰の拘束が解け、黒い袋が取り去られ、猿ぐつわが外されたとき、平常心であろうと努めていたのを永礼に見破られなかったか。 そんな不安に苛まれながら、颯天は翌日のその時を待った。     *   凛堂会にやってきた車に乗せられ、連れてこられたのは都心部に近い場所だった。 門柱には『エリートタンク研究所』という表示がなされ、広大な敷地のなかに五階建てのビルがある。 五月も半ばで日は長く、夕方のいま太陽の光が横から入り、ビルの窓ガラスに反射して(まぶ)しい。 それが箱型のビルの無機質さをより一層、強調していた。 祐仁と別れた日のことを嫌でも思いだす。 このビルの外観のように、あの男たちは感情に淡泊で非情だった。 昨日から期待と不安を抱えていたが、思いだしたことで不安の比重が俄に増した。 そんな颯天の動揺をよそに、車は道案内に従って進み、やがてエントランスの前に止まった。 そこに祐仁が待っているわけでもなく、後部座席で両端に座っていた男たちがそのまま車から颯天を連れだした。 二人の男は颯天が逃げないようガードしているのだろうが、祐仁に会うためにここに来た颯天からすれば取り越し苦労にすぎない。 滑稽(こっけい)にも思いながら、何度もセキュリティをクリアして四階にたどり着いた。 男たちは『UA』と書かれたドアの前で立ち止まるとノックをした。 「はい」 こもった声は祐仁ではない。 ドア越しでも颯天の記憶は鈍らず、やはり出てきたのはまったく初見の男だった。 その男はじろりと颯天を見やる。 三十代そこそこといった男は、颯天の顔にやたらと見入る。 はじめて見る顔だからではない、なんらかの理由が潜んでいそうだが、颯天にわかるはずもない。 「どうぞ」 男はドアを支え、颯天に入るよう促した。 それから男たちに向かうと「下がっていい」と命じた。 部屋のなかに入ると、引力が生じたように颯天は右の目の端に存在を捉えた。 期待でも不安でもない、怖れを憶えながら颯天は右の奥に目をやった。 祐仁は、そこにいた。 ドアが閉まると、デスクに向かっていた祐仁はゆっくりと顔を上げた。 その間、颯天は臓腑(ぞうふ)が締めつけられたような息苦しさを感じ、会いたかったくせに逃げだしたい衝動に駆られた。 祐仁は颯天の顔を捉えたと思った瞬間、受けとめる間もなく視線をずらした。 「有働(うどう)、あとから呼ぶ」 「承知しました」 閉めたばかりのドアを開け、有働と呼ばれた男が出ていく。 その気配を感じながら、またドアが閉じられたとき、颯天の緊張は一気に跳ねあがり、取り乱しそうなくらい張りつめた。 ふたりきりという確信を得た祐仁は、ドアにあった視線をゆったりとスライドして颯天に焦点を結んだ。 「祐仁……」 「高井戸颯天、おまえにはおれの付き人、あるいは駒としてやってもらう。一切の口答えは無用、ときには交渉におまえを使う」 「……祐仁、それは……」 「どういうことかわかるだろう。いままでおまえがやってきたこととなんらかわりない」 つまり、躰を売ってきたことを云っているのだろうが、その言葉よりも、祐仁の冷ややかさに颯天は呆然とした。 「祐仁、おれはずっと会いたくて……」 無意識に心の内を曝けだすと、祐仁は可笑しそうに笑う。 いや、それは颯天が知っている笑い方ではなく、まるで呆れ返り侮ったような嗤い方だった。 「いつの話をしてる。まだガキのままか? おれは最もセックスに弱い奴を選んだ。交渉の段階で逃げられては困るからだ。それがおまえだった。おれに会いたかったのなら尽くせるだろう? 有働から指示をさせる」 颯天にとって再会はまったく思ったものではなかった。

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