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『危機的ロックオン』須藤慎弥
【危機的ロックオン】
アスファルトの照り返しも太陽の陽射しも灼熱だった、ある真夏の夜の出来事だった。
藤崎 奏 は、その日の仕事を終えて帰宅しようとしていたところ、駅前で幽霊のように雰囲気の暗い男と肩がぶつかった。
「あ、すみません」
連日仕事は忙しく、この日も時刻はサービス残業込みで二十一時を回っていた。
いつもに比べれば早い方だ。
毎日のうだるような暑さと仕事疲れで体はもはやヘトヘトなので、急いで帰宅して風呂と食事を済ませたいと気持ちが先行し、小走りだったのがいけなかった。
ぶつかってすぐに軽く頭を下げて謝罪した奏は何気なく、のっそりとした背の高い相手を見上げる。
──気味悪い男だな。
失礼ながら、無反応な幽霊男のその大きな図体の周りに黒いオーラが見えた気がした。
よくよく顔を見てみると、長い前髪の隙間から奏をジッと凝視していて、思わず肩を揺らした奏は一歩後退る。
「ひっ…。 あ、じゃあ、あの、失礼しまし、た…!」
「待って。 ………待って」
──し、喋った! つか引き止められた!
幽霊男は意外と俊敏だった。
後退った奏の腕を目にも止まらぬ早さでガシッと掴み、前髪の隙間から尚も見詰めてきて背筋が寒くなる。
本当に幽霊ではないのかと、勇気を出して、恐る恐る奏も前髪の奥を見詰め返してみた。
すると男は掴んだ腕をぷるぷるさせて狼狽え始め、…何事かと思った。
「嫌、嫌だ! 見ないで、まだそんな…僕の事なんて見なくていい…!」
「………は?」
「ドキドキしてしまう、から…! 僕があなたを見るのはいいけど、あなたから僕を見るのはいけない!」
「………………………」
──何を言ってるんだ、この男は。
見てはいけないと言うなら腕を離してくれよ、と言い掛けて口を噤む。
正直、気色が悪い。
髪はボサボサで、せっかくの恵まれた図体を猫背ですべてパァにしてしまっている。
身なりは奏と変わらぬサマースーツでそれなりなのに、雰囲気とオーラを含めた見てくれがまさに幽霊だ。
しかも、謎の引き止めをしておきながら「見てはダメ」という、ベッド上での処女のような恥じらいを向けられて途方に暮れた。
「ひとまず腕を離してください」
「………うん、分かった」
「離してくれんのかよ。 それじゃ」
「あ、あの!」
「……まだ何か? ぶつかってしまった事は謝ります。 この時間に帰れるの久々で急いでたんで…」
「うん、うん、そうだよね。 いつもより早い!」
「え、……?」
「見てたから…ずっと。 あなたの事を」
──何コイツ。 リアルに恐いんですけど。
前髪の奥で男がはにかんでいる。
両手の指先をイジイジしながら、照れた様子でチラ、とだけ奏を伺う視線はまさに危ない人間のそれだった。
これはヤバイ。
よく分からないがこの幽霊男から「ずっと」見られていたらしいと知り、気味悪さと驚愕に言葉を失った。
いつから見てたんだよ、とツッコミも入れられない。
昼間熱されたアスファルトからの反射熱が熱帯夜を生み、この日も例外なく奏の額を汗が流れる。
背中も汗ばんできた。
ただこれは暑いからではない。
異常なほどの寒気からくるものだ。
「見てるだけで良かったのに……話し掛けてもらえるなんて……」
「いや話し掛けたわけじゃ…」
「僕はとっても嬉しかった! きっとこれは、神様が与えてくれたご褒美なんだ!」
「待て、一人で突っ走るな。 …う……。 気分悪い」
「大丈夫!? 大変だ…っ」
──お前のせいだよ、お前の。
確かにこの状況に具合が悪くなりそうではあったが、仮病を使ってそそくさと退散しようとした奏の魂胆は見事に不意にされる。
また、腕を取られたのだ。
「どこか入る!? 大丈夫!? トイレがいいかな!? 大丈夫!? 僕今日車じゃないんだ! ごめんね! 大丈夫!?」
「大丈夫が多い。 うるさい。 いいからほっとけよ…なんか分かんないけど俺のこと見るのもやめて」
「………え───?」
本当に奏が病人であったら、このやかましさは迷惑以外の何ものでもないだろう。
タオル地のハンカチで額や首元の汗を拭い、その流れで掴まれた腕を外そうとすると、愕然とした幽霊男の口から絶望の台詞が飛び出した。
「嘘でしょ…何でそんな事言うの……僕にはあなたしか居ないのに…見てるだけで良かったのに…それもいけないって言うの…?」
「聞けば聞くほどやべぇ奴だな。 もうマジで離せって! 痛いんだけど!」
地面を睨んでいた男の瞳が奏を捉え、掴まれた腕がミシッと音を立てたかと焦った。
今日はいつもより早く帰宅出来たはず。
帰りたいと全力でアピールしている奏の小柄な体躯では、幽霊男の馬鹿力からは逃げたくても逃げられなかった。
「………撤回して」
「何を」
「見るのもやめてって言ったの、撤回して」
「するわけねぇだろ! 怖えって!」
「怖い? 僕の事が?」
「あんた以外に誰が居るんだよ!」
──ここで天然を出してくるな!
だんだん苛立ちが抑えきれなくなった奏の口調は激しさを増しているにも関わらず、絶望していた男は何故かここでニヤリと微笑んだ。
「そう……あなたの脳に僕の印象が刻まれたって事か…悪くないね」
「それが怖えって言ってんのに…! 分かんねぇ奴だな!」
「明日も待ってる。 あなたを見てる。 ……あなただけを」
「怖えよ!」
「気分が悪いなら早く帰って寝た方がいい」
「そんなの言われなくても…!」
力強く掴まれていた腕が突然解放され、奏はこれ幸いとばかりに足早に駅へと向かった。
最悪だ。
一番疲労を感じる週半ばに、あんな恐ろしい奴と出会してしまった。
あなたの事をずっと見ていた、などとはどう考えてもヤバイ奴である。
ヤバイを超えてホラーだ。
改札を抜けて、奏は恐る恐る振り返ってみた。
……見ている。
この位置からだと表情までは伺えないが、確実に奏だけを見ている。
行き交う人々は、前髪で顔が覆われた姿勢の悪い幽霊のような男を避けて歩いていて、そんなものなど気にもしない男の口が微かに動いた気配がした。
「…………おやすみ、奏くん」
「─────!」
合っている保証はない……ないけれど、口の動きはこう言っているように見えて、奏の背中がぶるりと震えた。
● ● ●
翌日以降、奏はあの駅には近寄らない事に決めた。
待っていると言われても、あんな恐ろしい奴が居ると分かっていて行けるはずが無い。
電車帰りをやめてバスでの帰宅にしているので、はじめの一週間は時間の感覚に慣れなければならず、毎晩憤りと共に自宅の玄関を開ける。
今日でちょうど二週間。
奏が来ない、避けられている、と悟ってそろそろ待ち伏せは解禁されていないだろうか。
「マジであいつ何なんだよ…!」
ホラー映画さながらの恐怖を味わったためか、夜な夜な夢に見る最後の口パク。
『おやすみ、奏くん』
ずっと見られていたらしいので、すでに名前を知られていたのかもしれない。
あの駅は飲みの帰りに先輩ともよく使っていて、気軽に「奏」と呼ばれている。
それを見ていた幽霊男の耳に、それが届いてしまっている可能性が濃厚だ。
対峙した時は名前を呼んでこなかった事から、頭はキレそうである。
「あいつ見るからに危ないオーラ出してたし…執念深そうだよな…」
まだまだ用心した方が良さそうだ。
気を抜いてまたあの男に出会せば、意図せずホラー映画の続編となってしまう。
奏はその日もヤツの夢を見た。
『あなたの脳に僕の印象が刻まれた』
そう言って前髪の奥で不敵に笑った姿に飛び起きるという、最低最悪の朝を迎えた。
おかげで二度寝も出来ずにさっさと支度を済ませ、普段より二本も早い電車に揺られて会社前へと到着する。
幽霊オーラの男は幽霊らしく、朝は姿を見せない事はあの日の翌日に確認済みだ。
「なんだあのゴツい車」
会社の目の前に堂々と路駐された真っ白な高級車に、スーツの大人達が群がっている。
奏はいつも遅刻ギリギリなので、こんなに朝早く出社をする事が珍しい。
一応大企業の総務部にこの春から就職が決まった身であるからには、朝も余裕を持って出なければならない事くらい分かっているが……朝は小さな頃から苦手なのだ。
「お、奏じゃないか。 今日はえらく早いな」
「おはようございます、倉敷 先輩」
高級車に気を取られていると、奏の教育係である倉敷に肩を叩かれた。
倉敷は見るからに優しげな外見とは違い、学生時代の運動部で培ったとみられる上下関係をやけに気にする元気な男である。
「二度寝しなかったんで。 てかあれ誰の車ですか? 役職付きのお偉いさんがずっとあぁやって待機してるんですよ」
「あれな、専務の社車だ。 社長の息子」
「え、社長の息子が専務? めちゃくちゃコネ入社じゃないですか」
「それがコネとも言い切れねぇのよ。 アメリカで博士号まで取ったらしいからな、若干二十歳で」
「マジですか! それはすごい…」
「おまけにめちゃくちゃイケメン…ほら、出てくるぞ」
暑いのでこんなところで長居はしたくなかったが、イケメン専務というワードにはかなり興味をそそられた。
何しろ奏は同性愛者で、その上かなりの面食いだ。
奏がマイペース過ぎて付き合っても二ヶ月と保たないが、いい男というのはどうこうなりたいと思う前に目の保養になる。
──これで肩透かしだったら倉敷先輩に文句言わないと。
期待に胸を膨らませていると、車のドアの影からスーツの足が見えた。
専務はゆっくりと降車して地面に降り立ち、奏の視界の先にその横顔が現れる。
「おぉ……」
「な、イケメンだろ」
「そうですね。 やり手顔って感じ」
横顔だけでもいい男だ。
期待していたわけではないが、あれは確実にノーマルだと勝手に納得し、奏は倉敷に笑い掛ける。
「倉敷先輩が煽るからどうせ不細工なんだろって思ってました」
「なんでだよ! 俺の目は節穴か! ………ん? …奏、専務がめっちゃお前の事見てるぞ」
「え?」
見てる、という単語は今はちょっとだけ怖い。
倉敷から専務の方へと視線を移すと、本当に奏をジッと見てきていた。
「え、おいおい、こっち来るぞ! お前〜俺の知らないとこで何やらかしたんだよ〜!」
「何もやらかしてないですよ!」
真正面から颯爽と歩いてくる専務は、他の社員達には目もくれず明らかに奏を見詰めたままこちらへ向かってきている。
白状な倉敷は、奏の背中をトンと叩いて専務に頭を下げ、社屋へと逃げてしまった。
──え、え、俺自分でも知らないとこで何かやらかしたのか…?
こんな公の場で、専務の顔も素性も知らなかった新入社員の目の前までやって来るとは、これもまた「ヤバイ」としか言い様がない。
綺麗に整えられた長めの髪が、真夏の生温い風に揺らめいている。
非の打ち所のない容姿はまさに奏のタイプではあるけれど、この状況では流れる汗を拭う余裕もない。
「おはよう」
「……! お、おはよう、ござい、ます」
狼狽えまくる奏に、何故か専務は屈んで耳打ちで挨拶してきた。
この声…聞き覚えがある、……ような。
どこで聞いたのだろうかと頭をフル回転させている奏へ、専務はさらに驚くべき事を告げる。
「待ってたのに…来てくれなかった。 姿を見られればそれで良かったのに。 …冷たいね、奏くん」
「─────!?!」
持っていた鞄を地面に落とした。
──嘘だろ、嘘だろ、見た目が全然違うじゃねぇかー!!!
聞き覚えのあった声の主は、なんとあの時の幽霊男だった。
ホラーな台詞を囁かれ、あれから毎日、やはりあの場所で奏を待っていたのだと知ってゾワゾワっと背筋が寒くなる。
この専務とあの幽霊男がなかなか一致しない。
その薄気味悪さも手伝い、周囲の専務への挨拶すら遠くに聞こえ始めた。
「昼休み、専務室まで来てください。 これは専務命令」
「なっ……!」
「来ないとどうなるか…」
「わ、分かった! 行きます! 行かせて頂きます!」
「良かった。 嫌、って言われたらこのまま拉致しちゃうとこだったよ」
「あの、あの…!」
「また後でね、奏くん」
ふふ、と素敵な微笑みを向けられたが、奏はポッと頬を赤らめるどころか顔面蒼白だった。
立ち去っていく専務の周りに、スーツの大人達が用心棒のように付いていく。
何が起きたのか分からない。
あのボサボサ男があんなキラキラ男だったとは、にわかに信じられないのだ。
──帰りてぇ……。
鞄を拾いながら、奏は苦笑を浮かべた。
今は苦笑以外に何を浮かべろというのか。
● ● ●
社内からこっそり様子を見ていて事情を知る倉敷が、昼休みを知らせる社内放送がなされるや「早く行け」と奏を急かした。
いらぬ世話だ。
どんな話をされるかも分からないので行きたくないのに、せっかく受かったこの大会社をクビにされても困るため、嫌でも行かなければならない。
ご丁寧に専務室への行き方まで教えてくれた倉敷にムッとはしても、奏個人の問題なので苛立ちは隠しておいた。
「どうぞー」
専務室までやって来てノックをしようと腕を上げた瞬間、中から声がした。
怖い。どこかで見張られているのではないか。
「失礼します」
「待ってたよ、奏くん! あ、でもまだジッと見ないで! チラ見くらいならいいから!」
「……どういう事ですか」
「恥ずかしいんだよ…。 ずっと、僕だけの奏くんだったのに、急に話し掛けられて…戸惑ったんだからね」
──プンプン、じゃねぇよ! その「ずっと」ってのが怖えんだよ!
頬を膨らませて怒りを表しているキラキラ専務は、朝とは印象が真逆だった。
目の前に居るのは、あの日話した幽霊男そのものだ。
「だから話し掛けてないって…!」
「立ってた僕にぶつかってきたのは奏くんでしょ? ビックリしたんだから!」
「ビックリはこっちのセリフです! 何なんですか、マジで!」
「あ! そんなに見ないで! 本物の奏くんに見詰められたら、僕壊れてしまう!」
「あんたは充分壊れてると思うけど!」
「ヒドイっ。 奏くんが僕の心を掴んで離さないんだよ! 僕のせいじゃない!」
重厚なソファに並んで腰掛けたはいいが、専務の腕が自然と奏の肩を抱いた。
近くで喚かれて目を細めた奏の耳に、紛れもない告白染みた言葉が聞こえて苦笑を消す。
「…心を掴んで、……離さない?」
「そうだよ! 入社式で僕と目が合ったの覚えてる? 僕は役員席に居て、奏くんがニコッて笑いかけてくれたんだ!」
駅で奏を待ち伏せしていた理由だけは知っておきたいと思っていたけれど、まさか好意を持たれていたとは。
しかも、ガチガチに緊張していた入社式での数時間中、笑顔を誰かに向けた記憶など無かった。
これだけいい男であれば奏は確実に覚えているはずだが、右脳にこの顔は残っていない。
「な、何の話だよ……そんな覚えねぇよ…」
「……………!!!」
「うわ、ちょっ、泣くなよ、泣くな!」
至近距離でくしゃっと顔を歪めた専務は、奏の肩を抱いていたはずの腕をも利用して両手で顔を覆った。
──ほんとの事言っただけじゃん! めんどくせぇぇ!
「そんな……僕はあの日からずっと奏くんだけを見詰めてきたのに…! 僕がこんな立場だから、簡単に近付いたらダメかなって思って……見てるだけで我慢してたのに!」
「おい、専務さん、……ヤバイって! ちょっと待っ……!」
勢いに任せて専務から押し倒された奏は、完全に悪い流れがやって来たと慌てて肩を押し戻す。
だが専務はかなり筋肉質のようで、奏が力を込めたくらいではビクともしなかった。
専務室のソファにて、専務が新入社員を押し倒すという、何とも卑猥で淫靡な状況にほんの少しだけ心が揺らいだ。
自身の面食いが仇となり、幽霊男に震え上がっていた事さえも都合良く忘れて、切なく眉を顰める専務の顔をまじまじと見上げる。
「奏くんは、素敵な子だなって思ってるんだよ。 慣れない仕事も一生懸命取り組もうとするし、毎晩遅くまで文句一つ言わないで頑張ってるし、お茶汲みは女性だけの仕事じゃないって言って率先してみんなのコーヒーとか配ってるし、コピーとかデータ入力とか雑用も進んでやってるし…」
「待て待て待て待て! そんなの誰が…! 部内にスパイか何かが居るのか!?」
「え? 誰かに聞いたわけじゃないよ。 奏くんのデスクのパソコンのインカメをちょこっと細工しただけ」
「何っ!?」
「毎日、奏くんの頑張りを見ながら僕も頑張ってたよ…君の笑顔は最高だからね!」
「怖えって、マジで怖え! 俺辞める! こんな会社辞めてや……んぐっ」
見てくれに騙されて、一瞬でも心が揺れて見惚れてしまった自分を心底恨んだ。
これは紛れも無いストーカーの手口と、奏へのねじ曲がった愛情を独りよがりにぶつけてこようとしている。
そんな専務が居る会社になどもう居られない。
辞めてやる、と言いかけると、専務は左手で躊躇なく奏の口を塞いだ。
「僕は奏くんの事が好きなだけ! 奏くんは面食いなんでしょ? …あ、そんなに見詰めないで、僕のネクタイ見てて。 …で、男性を好きになる人だって知ってるんだよ? 僕にも可能性あるよね?」
「んむむむっ!」
「奏くんの事が欲しいよ。 権力使ってでも繋ぎ止めておきたい。 …この気持ちを知られてしまったからには、もう見てるだけは嫌だ!」
「むむっ、むむむ!」
「奏くんは頷くだけでいい。 それで何もかも丸く収まる。 気持ちは後からいくらでも付いてくるものだよ、奏くん」
柔和で男臭くない外見からは想像も出来ないほど、専務は馬鹿力である。
奏の口を塞いで返事が出来ないのをいい事に、やはり独りよがりな想いをぶつけてきた専務にはきちんとキレてやらなければならない。
もはや役職なんか関係あるかと、奏は寝転んだ状態ではあるが捲し立ててやった。
「ぷはっ……! それであんたは満足なのか!? 俺があんたに惚れてもないうちから頷かせて、気持ちがないまま付き合ったとして、それで満足するのか!?」
「うん! 付き合ってくれるの!?」
──おいおい、思ってた返事と違うよ。
キラキラ専務は、笑顔もキラキラだった。
そんなに素晴らしい笑顔を返してもらえるような事は言っていない。
むしろ今のは説教の部類に入るのではなかろうか。
「…………………話聞いてた? 専務さん」
「もちろん聞いてたよ! 奏くんは絶対僕の事好きになってくれる! だってもう、奏くんの脳には僕の印象が刻まれてるもん!」
「!!!」
確かに。 それは否定出来ない。
ただしそれは完全に悪い印象として奏の脳に刻まれている。
「毎晩僕が奏くんの夢を見てるように、奏くんもあの日から僕のこと忘れられなかったでしょ?」
「な、なんでそれを…!」
「やっぱりそうなんだ! 嬉しい!」
「もう…あんた何なのマジで…。 怖え。 怖えよ…」
──忘れられなかったっていうか、お前で毎晩悪夢を見てたんだよ俺は…。
何を言ってもキラキラされてしまい、奏は見るからに脱力した。
目を見詰めるなと言われるので専務のさらに上方、つまり天井を見上げて深い溜め息を吐く。
「奏くん、頷いて? 僕のものになるって。 奏くんは僕の気持ちを知ってるのに、もし他の男と付き合ったりしたら、その時こそ奏くんを傷つけちゃうかもしれない…だからね、頷いた方がいいよ?」
「………選択肢無いのかよ……」
「ないかな。 見てるだけで良かったのに、奏くんが話し掛けてくれたんだから、責任持って僕と恋してほしい」
「話し掛けてないって何回言ったら…!」
「奏くん」
危ない独りよがり男には何をどう言っても通用しない。
奏の返事は「YES」しか聞かないとばかりに真剣な瞳を向けられて、押し黙るしかなかった。
なぜなら、あれほど奏に「見ないで」と言っていたのに、現在専務は子どものように無垢な瞳で奏を見詰めている。
この男から逃げても、どこまでも追ってきそうだ。
出会いがアレだったので気味が悪いと思うのは仕方がないにしろ、奏の事が好きだという純粋な想いは充分伝わった。
このまま拒否しても自身の身が危険に晒されそうである。
ならば、ここは甘んじて頷き、ストーカー行為をやめさせる方向へ持っていくのが賢明かもしれない。
「…………インカメ直してくれたら考える」
「直す直す! そんなのお安い御用だよ! いいんだね、本当に! 奏くんが…僕の恋、人…! どうしよう! 嬉しくて仕事なんてしてられないよ!」
「仕事しろよ! 専務さんなんだろ!」
──早まったかもしれない! すげぇ喜んでる! 俺は「考える」って言っただけだぞ!
賢明に思えた奏の判断は、専務を完璧に舞い上がらせた。
押し倒した奏の体を抱き上げて膝に乗せると、頭から顔、首、肩、腰、太ももまでペタペタと触ってきて喜びを爆発させている。
「僕の奏くんだ!」と無邪気にはしゃいでいる専務に、取り消したいんだけど…とは言えなかった。
「あー! 恋人の名前はちゃんと呼んでよー。 静流 ♡って」
「静流っていうのか」
「知らなかったの!? 僕この会社の専務だよ!」
「それはごめん…!」
さすが、大会社の社長の息子なだけあって名前も古風だなと感心したが、勤める会社役員の名前を知らなかったのは奏の落ち度だ。
知っている人間などごく一部だろと思ったけれどそれは言わなかった。
(言うとまた面倒臭そうだからだ。)
「いいよ、奏くんなら許してあげる。 今日から僕の家にお引っ越ししてね」
「えぇ!? 展開早過ぎだろ!」
「何言ってるの。 僕の恋人である奏くんは、常に僕の目の届くところに居なきゃダメなんだよ。 奏くんのお家に僕が行くのもアリだけど、キングサイズのベッドが入らないもんね」
静流はそう言うとスマホをポケットから取り出し、サクサクと何やら操作をして胸ポケットの方にしまい直した。
まるで奏の一人住まいの自宅アパートを見た事があるような口振りだ。
幽霊男と話した際の背中の震えが、またもや奏を襲う。
「なぁ、ちょっとなんか…嫌な予感すんだけど」
「いやいや、そんな…嫌な予感だなんて照れるなぁ。 僕にはほんのちょっとだけ不思議な力がある、…って事だけ伝えておこうかな? プラス、アナログな方法もいくつか取り入れてはいるよ。 力使うと眠くなっちゃうし…」
──何!? どういう事だよ! いつから見張られてたんだよ、俺! てかこいつは何者なんだ!
「やめろよ! やっぱ俺やだよ、ストーカーと付き合うみたいで! 犯罪犯してねぇだろうな!」
「僕の奏くんへの愛をストーカーと一緒にしないでほしいな。 僕は奏くんの事が大好きなだけ。 涙をのんで、裸の姿はまだ見てないから許して? …やっぱりそれは……生で見たい…し…」
言いながらポッと頬を染めて照れている専務は、さながらいたいけな少女のようである。
会社(インカメ)で見張られるのは、上司が部下の仕事ぶりを見ていたと言い訳が出来る。
駅で待ち伏せされていた事(幽霊で)も、気持ちは悪いが実害は無かったので百歩譲っていいとしよう。
しかし奏に対するプライバシーの侵害と、得体の知れないスピリチュアルな力を使うのは駄目だろう。
そんなもの防ぎようがない。 完全にアウトだ。
「許せるかよ! やっぱやめ! あんたとどうこうなるなんて考えらんな……んっっっ!」
膝から下りようとした奏の細腰を掴み、逃がさないとばかりに強く抱き寄せられた瞬間───さらりと唇を奪われた。
それはほんの一瞬だけだったが、奏は驚きよりもよく分からない胸の動悸に襲われて激しく戸惑った。
気持ち悪いと背筋を悪寒が走るかと思いきや、それも無い。
下唇に指先を這わせ、また目を見てくれなくなった静流の整った容姿を黙って見詰めた。
「言わせないよ。 男なら腹括ろうよ、奏くん。 あ、あ、あ、ど、どうしよう…ちゅーしちゃった…!!!」
狼狽が遅かった静流は、今さら恥ずかしがって両手で顔を覆った。
この所作を見るのは二度目だ。
唇を奪われたのは奏の方なのに、耳まで真っ赤にしている静流を見ると何だか可愛く見えてきた。
奏の事を見ているだけで良かったというのもきっと、彼の本音だろう。
あの幽霊のような佇まいで奏にバレないよう演技をしていたのかもしれないと思うと、イジらしくもある。
静流の愛情はかなり行き過ぎていて恐ろしいけれど、触れるだけのキスに少なからずときめいてしまったのは奏の過ちだ。
不覚にも「あ、いいかも」と思ってしまった、この胸の動悸の正体はまだ、……知りたくない。
「奏くん……好きなんだよ、奏くん…! お願い、僕と一緒に歳を取っていこうよ!」
「重い……! まだ静流とは何にも始まってもねぇよ!」
「それは分かってるけど…! だ、だからそんなに見詰めないで! 心の準備が…!」
「キスしといてよく言うわ」
「それも言わないで〜! まだドキドキしてるんだから…! ね、触ってみて」
静流はそう言うと、奏の手のひらを取って自身の胸元に置く。
心臓の鼓動を、彼の想いの深さごと手のひらに直に感じた。
トク、トク、トク、とよく知る心音よりも早く脈打つそこは、静流の真っ赤な顔と比例し、緊張と動揺を如実に伝えてきた。
「こんなにドキドキしてるんだよ…僕。 奏くん、僕は奏くんと恋をしてみたい。 僕の事を好きになってほしい。 ………一緒に住んでも色々設置はするけど…」
「おい」
せっかく、流されてやってもいいかなというほど甘い空気だったのに。
アナログがどうとか言っていたのは忘れてくれよと喉まで出かかって、言わないでおいた。
静流は少し、おかしいのだ。
妙な力があるらしい事もそうだが、好きな人が、今どこでどんな行動をしているのかまで知っておかないと気が済まない、いわゆる超束縛男──。
「なぁ、俺のこと好きだって言うなら、まず静流の事教えてよ。 ……前向きに考えるから」
束縛するのは苦手だけれど、束縛されるのは嫌いじゃない。
すべてを知ってもここから出て行かないという事は、奏は、縛られれば縛られるだけ愛を感じる質なのだと思う。
それを表立ってこんなにもオープンにぶつけられてしまうと、当初の不気味さも許容範囲内になってくるから不思議だった。
「もちろんだよ! 嬉しい……奏くんの背中のホクロの位置と数を、照らし合わせられる日がくるなんて……」
「…ゾクッとするわ」
「やだなー! 奏くんのエッチ!」
「そのゾクッじゃない」
「じゃあどんなゾクッ?」
「さぁ……それはキスしてくれたら分かるかも」
二度目のキスを、大胆にも奏の方から誘ってみた。
気味が悪い、が先行するのか、はたまた謎の動悸が再びやって来るのか、奏にはまだいまいち自分の気持ちが分からない。
一つだけ分かっている事といえば、どれだけ知らない間に見張られ、プライバシーを侵害されていたとしても、静流をぶん殴って警察に突き出そうとは思わない奏の異常さも相当だという事である。
静流の首に腕を絡ませて顔を寄せて行くと、彼の瞳はウロウロと彷徨い、頬を赤らめる。
「…っ! い、いいいいの!?」
「うるさいな、いちいち聞かなくていいから早くしろよ」
「奏くん…!」
ゆっくりと互いの唇が重なると、静流からの抱擁が強くなって苦しかった。
舌を誘い出すと、今の今まで無防備な童貞のようだった静流が突然獣と化し、ソファに再度押し倒される。
スーツは剥かれなかったが、相変わらず抱擁は痛い。
このまま絞め殺されるのではないかと思った。
少々危険な香りのする静流とたっぷり舌で遊んだ奏の背中は、この時、震えもしなければ冷や汗も流れる事は無かった。
● ● ●
恵まれた容姿を持ち、男なら誰もが憧れるであろうスタイル、高学歴に加えて大会社の専務という立派な肩書き。
天は二物も与えずと言うが、静流は三物も四物も与えられ過ぎている。
しかし、静流と付き合い始めて一年が経った奏は、当初からそれは間違っていると思っていた。
天才とナントカは紙一重という言葉通り、静流はネジが一本外れている…どころか五、六本は外れていて、空いた穴に別のネジが強引に埋め込まれていそうなほど、狂っている。
真夏の夜に出会った不気味な幽霊男が、実はキラッキラなイケメン専務でした…のオチで穏やかに付き合いを続行していきたい奏だが、二人は少しばかり様相が違った。
──痛えっつーの…。
デスクでパソコンに向かう奏は、耳朶に刺さったピアス式小型カメラを触る。
昨夜、静流には伝えずにコンビニに寄って帰宅が数分遅れただけで、玄関先には怖いほどに笑顔だった静流が待ち構えていた。
狂った恋人は、奏が「ソレは俺のピアスホールには入り切らない!」と半泣きで抵抗したにも関わらず、無理やりコレを装着して流血しても、キラキラな笑顔で奏にこう言った。
『奏くんの事が大好きだから、僕にも、奏くんが見てる世界を共有させてよ。 僕の中の映像だと録画が出来ないから証拠が残せないでしょ?』
当然の事を言っておりますが何か不都合がございまして?…と言わんばかりの満面の笑みと、反論は許さないといった物言いだった。
それはつまり、奏の事を四六時中見張っていたいし、余計な行動を取ると証拠を突き付けて問い詰めるよ♡とモロに言われているのだ。
こんなに束縛が厳しいと窮屈かと思いきや、静流は奏に関してのみネジが外れているだけで、それ以外はおかしなところが見受けられない。
仕事ぶり、外面は非の打ち所がないのだ。
この人に一生付いていきたいと思わせるほどデキる男「静流」は、家に帰ると前髪を垂らし、猫背になり、奏にベッタリとくっついて離れない恋に狂ったただの一人の男性となる。
「静流ー今見てんだろー。 ここの処理分かんねぇから後で教えてー」
静流が細工したピアス型の小型カメラにはマイクも内蔵されている。
専務室で、仕事を片手間に奏を見張っている静流へ、奏は小声で語り掛けた。
強引に拡張されて、痛みの残るそれに触れて笑みを零す奏もまた、静流の愛の重さに縛られて狂い咲き始めていた。
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