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『アンビバレンス珈琲』ハチワレ

「すいません、店長呼べってお客様が……」  休憩時間をのんびりスタッフルームで過ごしていると、バイトの女の子が今にも泣きそうな顔で駆け込んできた。大丈夫だよと声をかけて立ち上がる。店長呼べってドラマみたいなこと、本当にあるんだ。  手に持っていた食べかけのドーナツをお皿に置いてざっと手を洗う。口の周りに砂糖がついてないか確認してからホールへ向かうと、いつもはのどかな店内が少しばかりぴりついていた。  俺が働いてるのは都内に数店舗ある有名なカフェの、その中の比較的郊外にある店舗だ。一等地にある店舗には売り上げも客数も敵わないけれど、郊外ならではの良さをテレビや雑誌に取り上げられることも多く、家族連れやママ友会なんかでかなり繁盛してると思う。勿論、俺はしがない雇われ店長である。それでも、大学生のころからずっとここでバイトをしてそのまま就職するくらいにはここが大好きだった。 「こいつが俺の大事な大事な仕事の資料濡らしたんだよ! どうしてくれんだ、ああ?」  びっしょりと濡れた紙の束を揺らしながら怒るのは少し頭の寂しい年配の男性だった。くたびれたスーツとテーブルの上にたくさんの資料だろう紙が広げられている。だけど濡れたって言ってもコップは倒れてもいないし、ちょっと話が見えない。乾いたタオルを手渡して一旦は頭を下げる。それからバイトの女の子へとそっと確認を取る。 「あれ、本当? 何があったのか、あなたの口から聞いてもいい?」 「実は……私何もしてないんです。その、テーブルについてもいなかったし、あっちの方にいたんですがお客様が急に濡れたって騒ぎだして……」 「俺が言いがかり付けてるって言いたいのか!」  端からバイトの子を叱るつもりはなかった。ただ、冷静に話しを聞きたいだけなのに男性客は怒鳴って俺を呼んだ手前ひっこみがつかないんだろう、バイトの女の子の言葉にまで過剰に反応し続ける。 「そんなつもりは……」 「お客様からも聞かせてもらえませんか? ここにいなかったと言っているので……」  たくさんいるバイトの中でも本当にミスの少ない子だからこそ、俺もちょっとばかり強気に出る。それに大事な仕事の資料なら、こんなカフェで広げないでほしい。仕事をするのは構わないけど社会人として、本当に大切なものはここで広げちゃだめだと思う。  俺が頭を下げず話を聞きたいと言ったことでサラリーマンはぷちんと切れたらしい。バンっと大きな音を立ててテーブルを叩いて立ち上がった。 「とにかくこいつが濡らしたんだ、大事な会議の資料をな! これがなかったら仕事になんないんだよ」 「とは言いましても、このテーブルにいなかったと言ってるので、その濡れた経緯をお聞きしたいんです……」  ぐつぐつと腹の中が煮えるのを感じながらも、冷静に言葉を返す。俺の何もかもが気に入らないサラリーマンが、ぐいっと脂の乗った顔を近づけた。濁った眼に睨みつけれて思わず顔を顰める。近い近い……ってか、なんでこんな怒ってんだこの人。殴られるのを覚悟して顔を背けた。痛くありませんように……! ぐっと歯を食いしばったその時、後ろからまた違う男の声が聞こえた。 「ちょっとちょっと、一旦落ち着きませんか、全部見てたので私でよければお話しますよ」 「何だお前……!」  隣のテーブルの男性が立ち上がった。新たな登場人物のおかげでにヒートアップしていた熱が下がる。まあまあ落ち着いてくださいと諭す男性は、見たところサラリーマンより年下、俺より年上ってところか。ただ、そこら辺のサラリーマンとは大きな違いがあった。  すらりと高い身長、長い脚。整い過ぎってくらいに整った顔。テレビでしか見たことないようなきれいな顔は、その場の空気を一瞬で変えてしまえる容姿だ。  イケメンなんてちゃちな言葉では表せられない整った顔からは、低く透きとおった声が流れる。俺と同じ人間とは思えないその人は俺と男性客の間に割って入った。  俺の肩をそっと掴んでさり気なく男性客から引きはがしてくれる。流れるような動作に誰も何も言えないでいる。俺を背中に庇うようにして、今度はテーブルの上を指さした。表情は怒ってるのか呆れてるのかわからない。ただ恐ろしいほど整っていて、有無を言わさない何かがあった。 「あなたはスマートフォンに夢中でコップの水を飲み損ねてこぼした……違いますか? コップは倒れてないし、あの子はこのテーブルの近くにはいなかった。あの子のせいというのなら、汗だくで来店したあなたに気を使ってたくさんお水が入ったコップを用意したことでしょうか」 「……ぐっ、おまえ……もういいっ、これも、もう乾いたからいらん! 帰る、会計だ会計っ!」  見たことを話しただけなんだろうけど、ドラマで見るような推理ショーを見ている気分だった。サラリーマンの顔色を見ればわかる。この人が話したことは全部本当なんだろう。  バタバタと書類を片づけるサラリーマンに呆れて言葉が出ない。そんなぐしゃぐしゃのままカバンにつっこんでいいのかよ、大事だったんじゃないのかよ。初めての迷惑客にどっと疲れたけど、そこまで事が大きくならなくてよかった。助けてくれた男性にもう一度お礼を言い、店内のお客様にも頭を下げて回って、帰り際まで騒がしいサラリーマンを見送る。もう一度お礼をと男性を探すとレジを済ませて店の外へと出るところだった。 「あの……っ! お礼を!」 「ああ、大丈夫だったんならいいんだよ。ああいう人は本当どうしようもないから、周りの人に助けを求めた方がいいよ、意外と誰かしらが見てるから」  あんなにもかっこよく助けてくれたのに、なんてことないって顔でそのまま帰ってしまおうとする。こちらとしては感謝してもしきれない。どうにか引き止めたくて店を出て追いかけた。いいのにって笑う顔までドラマみたいにかっこいい。太陽の光まで演出みたいだ。 「あ、その……本当に助かりました。お礼、これしか出来なくて、申し訳ないんですが……っ」 「あなたが無事でよかった。これは……?」  忙しそうな人をいつまでも引き留める訳にはいかない。もう一度食事は流石に入らないだろうし。咄嗟にレジ横にあったコーヒーチケットを手渡した。四百五十円のコーヒーが四千円で十二杯飲めるお得なチケット。俺の自腹を切ることになるけど、さっき助けてもらったことを考えるとちっとも痛くない。 「ありがとう、じゃあこれ使ってたくさん通わせてもらうよ」  ひらひらとチケットを揺らして男性は帰っていった。他店にはない、郊外だからこそ取り扱っているコーヒーチケットが思わぬところで役立った。  それからその男性は本当にうちへと通ってくれるようになった。元々かなりハイペースで来店してくれていたのに、あれ以来二日に一度は訪れてくれる。早々にチケットはなくなったはずなのに、なくなったあとも同じようなペースで来店してくれあっという間に一番の常連客になった。提供の時、帰りのレジ、いろんな場面で気さくに話しかけてくれるその人は完璧な容姿から住む世界の違う人間だと思っていたのに、全く以てそんなことはなく至って普通のサラリーマンだった。  彼は映画が好きで、俺は野球観戦が好き。辛いものが苦手な俺と酸っぱい物が苦手な彼。  好みの違いを話すのは楽しかったけど、それよりも同じものを好きなことに盛り上がった。夜は出歩くよりも家でゆっくりしたいし、甘いものはアイスクリーム一択。食べ物は和食が好きで、おすすめの定食屋を紹介し合う。カフェの店内で他の飲食店の話で盛り上がってちょっとだけ周りに笑われた。  忙しい日は気遣って話しかけないでいてくれるところも好印象だった。俺に経験はないけど、スタッフの中でお客さんにストーカーされた子も過去にいたのだ。優しくて可愛い子が多いから好きになっちゃう気持ちはわかるけど、犯罪は勘弁してもらいたい。  バタバタと忙しい時間が過ぎて漸く一息付けると思ったら、一言も話すことなくレジを済ませて店を出て行く後姿を見つけた。 ──俺の唯一の楽しみが!  外で花に水をやるからとバイトの子に言いつけて追いかける。カランとベルを大きく鳴らして飛び出た俺に「やあ」と小さく手を振って足を止めてくれた。なんだかドラマのワンシーンのようで追いかけたくせに見惚れてしまう。せっかく足を止めてくれたのに、一瞬でも見惚れた罰は小さく落とされる。 「いってぇ!」  壁に手をかけたままだったのをすっかり忘れていた。ゆっくりと閉じてきたドアに手を挟んだ。勢いがなかったのが救いだけど、地味に痛い。痛みより、恥ずかしくてじわりと涙がにじんだ。 「大丈夫かい!?」  慌てて戻ってきた彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。帰るところだったのにこんなしょうもないところを見せるだなんて。少しだけ赤くなった手がひらりと宙を舞う。手に取られたことに気が付くよりも先に、大事そうに握られて擦られた優しさが衝撃になって俺を襲った。 「あっ、えっ、そんな、えっ!」 「本当? 赤いよ?」 「だだだ、大丈夫です。すいません、情けないとこ見せて……あの、挟んだだけなので」 「大丈夫ならいいけど、無理はしないようにね」  おっちょこちょいなんだからって頭を撫でられて嬉しいと感じるのにそれと同時に羞恥で死にたくなった。顔が真っ赤になってる自覚はある。熱くてお湯が沸きそうなくらい、頭の中が沸騰してる。さらりと髪が撫でつけらる感覚は不思議だ。仕事中で、相手はお客さんで男。それなのに、ちっとも不快じゃない。 「ごめんつい、可愛くて」 「いえ……」  ゆっくりと手が離れていく。それを残念だと思った。兄貴がいたらこんな感じなのかな、鬼のような姉しかいない俺にはわからないけど。小さく手を振って彼が車に乗り込むのを見送る。黒くてぴかぴかに光る車は、俺の知らない高級車だった。 「旦那の転勤が決まって……」 「そうなんだ、引っ越しとか大変だよね」  一番のベテランさんが辞めることになった。旦那さんの転勤じゃしょうがないよね。俺よりも長く働いてる人で、一番頼りにしてたんだけど残念だ。ごめんなさいねと頭を下げるベテランさんに、送別会しましょうねと明るく返す。  困ったな、ちょっと人手不足かもしれない。ぽつりぽつりと人が辞めていく。それは進学や家庭の事情さまざまで、俺にはどうしようもなく祝うべきようなものばかりでそれが余計に頭を悩ませる。  それに加えて店は繁盛し続ける。有り難いことだ。そんな中でもあの席は一番最後まで埋めない。俺の中の、俺の中だけのルールだった。暑い日にホットを頼んだ日は息を飲んだ。ドラマを通り越して映画のようなかっこよさじゃないか。違いが何か聞かれたらうまく答えられないけれど、でも、本当に何から何までかっこよくて驚く。一度憧れが降り切れて真似をしてみた。散々働いた後、休憩時間に飲んでみた。勿論結果は惨敗、汗だくになって半分も飲まないうちにギブアップだった。  よし、その話を今日はしよう、笑った顔はかっこいいのに可愛くて、それが見たくて俺はいつも何を話そうかネタを探すようになった俺はすっかりその人に惚れこんでいた。  男が惚れる男、雑誌のキャッチコピーみたいじゃん? 「いい加減フリーター辞めて実家帰って来いって……」 「そうか、実家の業やってるって言ってたもんね」  先月に続いてまただ。わかってる、どうしようもないって。でも、こうも立て続けに辞められてしまうと、ちょっと……いや、大分困る。新しいバイトが入らないことも、本当大問題だ。 「最近いつもいない? 休みはあるの?」 「ちょっとバイトの子が立て続けに辞めることになって」 「そうなんだね、あまり無理しちゃいけないよ。可愛い店長さんに何かあったら心配でどうにかなりそうだ」 「またまた……」  優しいあの人は俺の心配までしてくれる。可愛いだなんて言葉を俺に使っちゃう感覚はわからないけど、この人にもちょっと残念な部分があるんだって思ったら親近感が湧いてそれはそれで嬉しかった。  心配してくれるその一言で俺は頑張れるけど、俺だけに皺寄せが来てる今のうちにどうにかしないとまずいのも事実だ。バイトの時からこの会社は白過ぎるくらいにホワイト企業だった。当時の店長はしっかり休みをとっていたし、バイトへの待遇もかなりよかった。パートさんはちゃんと有給もあったし、突然の休みはバイトたちで穴埋めしていた。それも自主的に。それくらい、働く側も皆ここが好きだった。  そんな店だから安心して就職したんだけど……ここ最近の人手不足は異常だと思う。本社にヘルプを要請したのはもう二週間も前だけど、何も言ってこない。今まではすぐに何かしらのレスポンスがあったってのに。おかしい。その割には有給なんかはあっさり取れる。俺を信じて任せてくれてるのは嬉しいけれど、人手不足を解消しない限りはどうにもならない。  求人サイトにだって載せて、店頭に張り紙だってしてみた。まあ想像通り、全然だめ。やばい、これじゃテレビで見るようなブラックっぷりだ。俺、最近いつ休んだかな? 二十四時間営業じゃなくてよかったと心の底から思う。だけど朝七時から夜十一時までずっと休みなしで休日もなしは、さすがに二十代の体にもきつい。  好きだから続けられてる。きっとこれも一時的なものだ。なんとかそう自分に言い聞かせて毎日出社する。  彼に会えることだけが今の楽しみだった。容姿や優しさだけじゃない。声だって低く、心地いいから話しているだけで癒される。なんかの音波? α波? が出てんじゃないかってくらい。  珍しくレジのあとにも声をかけられる。手を引かれるまま店の外に出ると、大変そうだねって手を差し出された。何がなんだかわからないまま同じように手を出すと、手のひらにころんと飴玉が転がり落ちた。 「疲れてる時には甘いものだよ」  そう言って俺の頭をぽんぽんと叩いて、今度はあっさりと背中を向けて帰っていった。その背中を俺は一生忘れないと思う。呆気に取られた俺を置き去りにしていったけど正解だ。驚きと、体の中をぼぼぼっと熱に犯されて動けなかったから。 ──な、んだ今の! 俺、ドラマにでも出てる? 夢、夢なのか?!  かっこよすぎて惚れるかと思った。いや、惚れてるんだけど! あんなカッコイイ人惚れない方がおかしいけど! もう、それくらいの衝撃だった。暫く固まって動けなくて、店内から呼び戻されて漸く我に返る。それから閉店まで、浮ついてたと思う。小さいミスをしてキッチンスタッフに小言を食らったのは一度じゃない。  頭から離れない、あの声と手のひらの温かさ、心地よい重み。飴をくれた手は、俺の荒れた指先とは全然違った。触れたのは一瞬だったけど、女の人の手みたいに、すべすべしてた。ケアとか、ちゃんとしてんだろうな。俺も、なんかしようかな。貰った飴は勿論もったいなくて食べられなかった。大事に置いてある、自分でも気持ち悪いなって思うけど、バレなきゃ大丈夫だし、ただの飴だし。  そんな俺の憧れの人は今日もいつもと同じ席に座って仕事をしている。  予約されたわけでもないのに、あそこの席に他のお客さんを通すのは他が全部満席になってからだ。幸いホールに立ってるのは俺だけだから、そんなことも出来ちゃうことが後ろめたいけど嬉しい。  そしてあの人も薄々それに気づいているみたいで、俺が案内する前に「いい?」といつもの席を指さしている。たったそれだけの仕草すらかっこいいと思う。勿論ですと告げておしぼりとお冷を持って追いかける。笑顔を向けてもらうだけで元気になれる俺ってやばいやつかもしれない。男が男に憧れて、しかも若干ストーカーめいてるなんて申し訳ないなと思うけれど、止められそうにない。いや、ストーカーじゃない。ただ見てるだけだ。そのふたつの違いなんてわからないけど、少なくとも犯罪に手を染めてはいないからセーフなはずだ。  今この忙しさを乗り切るためだからと誰にするわけでもない言い訳を何度も繰り返して、あの人が時折くれる優しい笑顔を有難く受け取る。そしてこっそりあの席の前を通る度に、渋い顔してパソコンに向かうその人焼き付ける。それだけで頑張れるのなら安いものだと思う。忙しいのは俺の所為じゃないし、店だって繁盛してる。うん、きっと神様も許してくれるよな。  子供のころ大好きだったヒーローに憧れる感情から、少しばかり逸脱してる自覚はある。それでも、こんなすごい人が俺の店の常連だなんて夢みたいだから少しでもその夢に浸っていたかった。  いつもよりちょっとだけ遅くなったある日。閉店作業を済ませてベテランのキッチンスタッフと店を出た。このベテランくんは俺と同じくらいこの店で働いていて、大人になってからできた親友の一人だ。  駅までの道を二人で歩く。繁華街は怪しいキャッチがいるけれど、薄暗い夜道を歩くよりは安全だ。くたくたの体を引きずって次の休みはいつだよって愚痴をこぼし合う。二十四時間営業ではないけれど、決まった定休日がないので、このままじゃ大型連休まで本当に休みがなくなってしまう。  雇われとはいえ一応店長だし、定休日作ってもいいのかもしれない。このまま俺たちのどっちかが倒れたら本当に営業出来ないし。前は閉店後二人で飲みに行ったりしたけど、ここ最近はとにかく早く寝たいの一心だった。親友に至っては彼女を放置し過ぎて振られそうだって嘆いてる。おお、それは飲みに行ってる場合じゃない。  駅までもう少し……そんな時、俺の大好きな背中を見つけた。  ただいつもと違ったのは一人じゃなく、隣には細くきれいな服を来た女性がいて、逞しい腕はその腰を抱き寄せていた。 「だよな」  ぽつりとこぼした言葉は親友には聞こえなかったらしく、止まることなく駅へと向かう。すぐに視線は逸らしたのに、一瞬見たあの光景が離れてくれない。 ──胸が痛い。  なんだろう、憧れてた相手が女連れてたからって俺、どうしちゃったんだ。惚れたって、そういう意味でだったっけ?  足から力が抜けてへなへなとその場に蹲る。急に小さくなった俺に、親友も驚いて足を止め同じようにしゃがみこんだ。 「お前が一番疲れてるよな」 「おう……っ、つかれた」  しょーがねぇなって笑いながらしゃがみこんだままがばりと抱きしめられる。男くさいスキンシップが、今は心を締め付ける。自分の中にある感情に嫌悪してる今、友人のそれすら苦しい。  ただ確かに疲れてるから、この勘違いが有難かった。本心なんて言えやしない。ただ心配してくれている親友に、今俺が落ち込んだのはそれだけじゃないなんて言えるわけがなかった。  申し訳ないと思いながらも、背中を擦って甘やかしてくれる手のひらに少しだけ甘えさせてもらう。お前だって同じくらい疲れてるくせに……本当いいやつ。心配をかけて悪いなと思うけど、ゆっくりと上下する手の平のあたたかさが今は有り難い。有り難いのに、あの人の手じゃないなって思う自分は最低だ。  なんとか心を落ち着かせて立ち上がる。「ごめんな」の言葉に背中をばしんと叩いて返されたことはちょっとばかり不満だけど、俺とお前の仲だってことで不問にしてやる。  駅に着いて電光掲示板を見ると電車は出てしまったあとだった。ただでさえ今日は遅かったのに申し訳ないなと思っていると、わかってるから口にするなと手で制された。 「まあ今日はさっさと寝ろよ、無理はよくない。ぐるぐる考えたって人手不足はすぐには解消しねえよ。あっ、俺がいくらいい男だからって惚れんなよ。俺にはかわいい可愛い彼女が……」 「ばか、わかってるわ! っつか惚れねーし。でも、うん、ありがとう」  駅の構内は人であふれていたけれど、優しい言葉はちゃんと俺の耳まで届いた。やっと言えたお礼に親友はにかっと笑う。改札通ってそれぞれ反対の電車に乗り込むために手を振り合って別れた。  夜遅い電車でも、それなりに混んでいる。座れないのはわかっていても、一日中立っていた体を少しでも休めたくてつり革に何とか掴まった。背が平均よりちょっと、ほんのちょっと低いせいで若干腕がしんどいけれど、掴まると少しだけ楽だった。  電車の窓をじっと見る。キラキラとした世界がすごい速さで流れていくのをただぼうっと眺めるとだんだん眠気が襲ってくる。うとうとしているとガラスに映った自分に目が留まる。  本当に平凡でどこにでもいるようなちんちくりんだ。とても、あの人の隣には並べないだろう普通の男。  憧れだった。本当に、憧れてただけ。……惚れた惚れたって冗談めいていたけど、いつからか少しずつ、本当に好きになってたみたいだ。飴をもらった時、ちょっと指先が触れただけでドキドキしたし。来ない日は落ち込んだし。もしかしたら、恋……だったのかもしれないなぁ。そう思ったらすとんと、何かが腹の中に落ちた。  恋なら、こんなに夢中になったのも納得だ。驚きは少なかった、それほどまでにあの人は完璧過ぎた。  男が惚れる男だもんな……仕方ないよ。  好きだって気付いたのと同時に失恋って笑える。恋すんの、下手くそ過ぎだろ俺。好きだって自覚したところで何も変わらない。俺には何も出来ないし、ちょうどよかったのかもしれない。ちょびっとだけ視界がじわりと濡れただけで、全部納得出来てしまった。 ──なんだ、そんなもんか。  きっと、それだけだったんだ。憧れが行き過ぎただけ、惚れたけどそれ以上を望むことのない小さな気持ちだったんだ。失恋して恋を自覚して、それから諦めるまでほんの数時間ですべて終わった。納得してしまえばそれが次第に面白く思えてきて、電車を降りてアパートまでの道のりは一人でくすくすと笑いながら帰った。  翌朝俺を起こしたのはアラームでもなく電話だった。何度も繰り返される着信に起きるにはまだ早い頭が強引に揺さぶられる。相手を確認しないまま電話に出ると、相手は昨日男前っぷりを発揮した親友のキッチンスタッフだった。 「ごめん、今日行けない。ってか暫く行けそうにない。昨日の帰りひったくりにあって全部持ってかれた、あとそん時転んで折れては無いけど結構重めに手首捻挫した」 「え、大丈夫なのかよ!」 「折れてないのが救いって感じか。しばらくフライパンも包丁もだめかも」 「店はいいよ、休みにする。なんか困ったことあんなら、俺行こうか?」  目の前が真っ暗になった。ひったくり 捻挫?  突然の情報過多に寝起きの頭が追い付かない。店の心配なんてこれっぽっちも頭を掠めなかった。思わずベッドを飛び降りて立ち上がる。電話の向こうで俺の慌てっぷりに親友が笑った、多分全部見透かされてる。いやいや、笑いごとじゃないだろ、大丈夫なのかよ! 「いや、落ち着けって。彼女いるから俺。お前もいい機会だしちょっと休めよ、会社も許してくれんだろ」 「うん……そうだな、彼女いるもんな、くそリア充め。こっちのことは心配いらないよ。困ったことがあったらいつでも電話して」 「ありがとな」  電話を切って息を吐く。心配だけど、声の感じからするとそこまで悲観してないみたいだし俺が慌てたところで迷惑なだけだろう。ふとあの人がくれた飴が目に入った。失恋してまで飾るのはさすがに痛い気がして、手に取って悩んで悩んでゴミ箱へと放り込んだ。たったそれだけで、少しだけ気が楽になった。  なんだ、簡単だな。疲れた体を叱咤して冷蔵庫までのそのそ歩く。牛乳を流し込んで時計を見ると、いつも通りの朝がやってきていた。今日の今日でいきなり休み……って訳にはいかない。本社への連絡もあるし、店先に張り紙だってしなきゃいけない。トーストを二杯目の牛乳で流し込んで家を出る。外は鬱陶しい雨だった。  バイト時代はホールもキッチンもどっちも経験していたことが役に立ちそうだ。  今日から暫く夕方までの営業になった。ドリンクとモーニングと、ランチはなしでサンドイッチなんかの軽食だけ。勿論ディナータイムの営業はなし、カフェというより家族経営の喫茶店みたいだ。今日から暫く俺は喫茶店のマスターだな、貫禄がちょっと足りない気もするけど前向きに考えてないと色んなことを考えて気分が沈みそうだった。  今度本社に行って直接話をしなければ。電話で営業時間の変更について許可をもらったとはいえ、急なことだし甘えっぱなしもどうかと思ったからだ。一応挨拶くらいしておかないと。  ここ最近の人手不足のことも、もうちょっとなんとかしてもらわないといけない。今から新しいバイトを雇っても、使えるようになるまでは余計に人手がいる。他店からヘルプを借りるのが一番助かるから、その要請もしなくちゃ。やることはたくさんある。人手不足な上に大事な戦力まで休みだけど、ぎりぎりのところでなんとかなりそうだ。  今日は有り難いことに午前のバイトの子が入っているのでその子にホールは任せて俺はキッチンへと入った。冷蔵庫を開け材料の確認をする。ランチがなくなったから材料には余裕でとりあえず一安心だ。  オープン前に久しぶりのキッチンで緊張する心を落ち着けようと自分とバイトくんの為にカフェオレを作った。砂糖を多目にした甘いカフェオレで気持ちは落ち着いたけれどどこかあの人を想像させて失敗だったなと一人で小さく笑った。まあ、今日は一日ここだ。来ても会えないんだって思ってすぐ、ぶんぶんと頭を振って考えるのを止めキッチンをばたばたと見回って気持ちを切り替えた。  慣れない一日は嵐のように過ぎ去った。有り難いことに何事もなく短縮営業初日は終わってほっと息を吐いた。  帰り支度を済ませたバイトくんに声をかけられて驚いた。さっきまで彼は店内を掃除していたはずなのにいつの間に掃除機を片づけたんだろう。俺がちょっとばかり呆けていた間に全て終わらせてくれたらしい。急にバイトが短くなったことに文句も言わないで「デートだからラッキーです」って笑ってくれた彼には感謝しかない。俺も、こんな明るいうちに店を出るなんて久しぶりだ。店に鍵をかけ、定期を探すために鞄を漁っていると、丸まった俺の背中に声がかかった。 「こんにちは。今日から早く閉まるって前通った時張り紙は見たんだけど、間に合わなかったか……」 「あっ、……どうも。そうなんです……すいません」  俺に声をかけてくれたのは今日は店で会えなかったその人だった。間に合わなかったってことは、今日は来てなかったらしい。目の前にいるのはいつものスーツでパソコンの入ったカバンを持ったその人なのに、昨日のあの光景がちらついて少しだけ視線を合わせ辛い。  そんなこと知りもしないその人はおかまいなしに近づいてきて、距離を縮める。もしかして、一緒に駅まで歩くつもりなんだろうか、それはちょっと嬉しいかもしれない。でも、それじゃまた苦しくもなる。 「もう帰るところだよね? 私も今日はこのまま直帰なんだけど、よかったら飲みに行かない?」 「え、あ……」 「無理にとは言わないけどよかったら。ここ最近忙しそうだし、息抜きにでも」 「嬉しいです、ぜひ」  突然のお誘いに、昨日感じた悲しみ吹き飛んだ。失恋はしたけれど、こうやってお近づきになれるのなら、それでいいじゃないか。そもそも、隣に並んで歩こうだなんて。俺は女じゃないし。  友人に、なれたら……それって結構いいことじゃん。  おすすめの店があるから行こうって肩を抱かれる。まだ酔ってもないのに、スキンシップが過多じゃないだろうか。誘われるがままに歩き出す、肩に回った手は店に入るまでずっとそこにあった。  目が覚めて、まず俺を襲ったのは強烈な眩暈だった。目を覚ました途端の眩暈だなんて、俺は昨日どれだけ飲んだんだろう。どう見ても高そうな飲み屋に尻込んだのは覚えている。個室に通されたことも、女将さんが着物でものすごい美人だったことも。  ところでここはどこだ? グルグル回る視界じゃ情報が少な過ぎる。それでも、自分の部屋じゃないことはわかった。それから感覚的に、自分が今裸なことも。  目を開けていると戻してしまいそうで、視覚からの情報は諦めた。もしかすると酔っぱらった俺をあの人が介抱してくれたのかもしれない。裸なのも、汚したからかも。そう思ったら、少しでも早くお礼と謝罪をしなきゃならない。好きな人に醜態を晒した反省と自己嫌悪は今は後回しだ。  起き上がろうと体を動かす。驚く位に重たかった。それほど強くはないけれど、バカみたいに飲んで次の日に引きずったことはない。高い酒のせいか? いや、高い酒って逆に残らないんじゃねえの?  とにかく、謝らないと。重たい体に鞭打って腕を突き足を動かす。どこからかじゃらりと金属音が聞こえた。聞こえた先は一番重たく感じる足からだった。 「どう、いう……ことだ」  足の重みとは正反対の、軽い軽いふかふかの布団をまくり上げる。見慣れた自分の足首には革のベルト、そこからは鎖がじゃらりと垂れていた。その先はわからない、わからないけどきっとどこかに繋がっている。 ──なんだ。なんだなんだこれ!  昨日、あそこで飲んでそこからどうなった? 楽しくて嬉しくて、高い酒が美味くてはしゃいだ記憶はある。あの人もすごく楽しそうで、それが嬉しくて酒が進んだ。出てくる飯も、うまかった。俺たちの好きな和食……あれ、でもあの人食ってたか? それどころか、俺ばっかりに酌して自分はほとんど飲んでなかった……?  楽しかったこと、嬉しかったことは覚えてる。記憶はぶつぶつと途切れ途切れで、くっつきそうにない。  がちゃりとドアが開く。回る視界の中薄目で見たのは、昨晩の答えを持ってるだろうその人だった。 「おはよう。眩暈はどう?」 「だめで、きもちわるい……す。きのう、あの、ごめんなさ……い、あの、おぼえてなくて……」 「それは残念。でも今日からここが君の部屋だよ、それだけ知っててくれればいい」 「……え?」  腰掛けた弾みでベッドが揺れる。するりと伸びた手は俺の頬を撫でてそのまま顎を上げた。訳が分からない、驚き過ぎて言葉を失ってる間に口を塞がれた。にゅるりと入り込んだ舌が口腔を荒らす。奥へと逃げた舌はすぐに捕まって嬲られる。優しく甘噛みされ吐息まで奪われる。苦しくて離して欲しいのに、酸素の足りない頭ではされるがままだ。唾液を流し込まれて反射的に飲み込むと、それを褒めるように指先が顎の下をくすぐった。 「……んっ、はぁっ」 「可愛い。そんな顔他の誰にも見せてはいけないよ」 「み……せない、……ってここはどこ、ですか? おれ、店が……」 「他の男に抱きしめられている君を見た時の、私の気持ちがわかるかい? 君の可愛い笑顔は私にだけ向けられてればいい。違うかい?」 「なに、いっ……て……」 「働いてる君も好きだけど、私は古風な人間でね。自分の奥さんには家にいてほしいタイプなんだ」 「……おく、さん?」 「ほらこれ、君が書いたんだよ、ちゃんと君の字だろう」  ぎゅうぎゅうと抱きしめていた腕が解かれ、枕元に置かれた一枚の紙がひらりと目の前で揺れる。  視界の回転は少しずつ収まっていた。それでも揺れる、なんとか目を凝らして見えたのは茶色の枠線、茶色の文字。実物を見るのは初めてだけどわかる、書いてある文字は「婚姻届」だ。そしてその名前の欄に、俺の名前がある。左手、いや足で書いたのかってくらい、ぐにゃぐにゃとミミズが張ったような汚い字は間違いなく俺の字だった。  妙にくせのある、あまりメジャーじゃない漢字は間違いなく俺の字で俺の名前だった。 「結婚したからには家に入ってほしい。昨日きちんと話したはずだけどもしかして忘れちゃった? だめじゃないか、二人の大事なことなのに。まあ、ちょっと抜けてるそんなところも可愛いけどね。  大丈夫、お店の方はちゃんと回っていくように手配しておいたよ。君を悲しませたくない」 「け、けっこん? てはい……?」 「あのお店は私の会社のものだよ。知らなかったかい? だから本社に挨拶に行くのなら寿退社の報告かな。その時は私も一緒に行くよ。可愛い君に変な虫がつくといけないからね。  幼い言葉使いも可愛いけど、ちょっと薬が効き過ぎたかな。ごめんね」  俺の惚れたきれいな顔が、俺の理解出来ない言葉を紡ぎ出す。薬も結婚も、知ってる言葉なのにわからない。会社は、誰のものだって? 「さあもう少し休んだ方がいい。私も少し横になろうかな、自然な人手不足を作りだすのはなかなか骨が折れたんだ」  問い質したいことが山のようにあるはずなのに、言葉にならない。逃げ出そうにも腕はぎっちりと俺を抱きしめて離しそうにない。腕から逃れたとしても、足首には鎖がついている。 「昨晩も素敵な初夜だったけど、まだまだ抱き足りないんだ。夜に備えて、寝ようか。ね?」  額にキスが落ちる。眠るのが怖いのに、暗示にかかったように瞼が落ちた。

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