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第4話
「私ね、今付き合ってる人がいるんだ」
「……」
「まぁ付き合ってるって言うには不自然な関係なんだけど…」
途端に曇る声に灯唯は頭を上げた。
「……不自然…?」
ようやく開けた視界に寂しげな笑顔が映る。
香名は自然に溢れた小さな溜息を飲み込むようにお茶を一口啜って話し出した。
「その人はね、会社の上司なの。歳は十も上なんだけど結構格好良いんだ。仕事には厳しいんだけど頼れるし普段は優しくて、職場じゃみんな彼が好き」
ふふっと笑った瞬間、長い睫毛が儚げに揺れる。
「だからね、彼から声を掛けてくれた時は…本当に嬉しかった」
「……香名さん綺麗だもん」
「ありがと。……でも最初はすごくすごく迷ったの、彼と付き合うことに対して」
ふと、表情に影が差す。
……彼女がこれから告白することはきっとこの不安と一致するに違いない。
それでも違う答えが欲しくて、それを希望して、灯唯は言葉を続ける。
「何で…?」
「……だってその人、奥さんも子供もいるんだもん…」
聞いた途端どっと襲ってきた後悔。
「………そう」
小さく頷くことしか出来なかった。
普段の快活な姿とは似合いもしない、彼女のもう一つの顔。
「悪いことだって分かった上で結局付き合い始めちゃったんだけど。…まぁよくある話だよね……不倫、なんてさぁ…」
半ば開き直ったように放たれたその声には重く苦いものが含まれている。
絞り出すように出した二文字があまりに痛々しい。
灯唯は思わず──衝動的にと言ってもいい、彼女に腕を伸ばして抱き寄せていた。
驚きでいっぱいに開かれた瞳を隠すように柔らかい髪に指を絡めて胸に押し付ける。
「トモ君…?」
「…ごめん、言わせちゃって…。なんか今の香名さんの顔、俺つらい…」
色々な感情がごちゃ混ぜになった頭で、ただ強く抱き締めた。
「まだ何にも知らないけど、俺香名さんのこと好きだよ。信用しちゃってる。…なんでなのか不思議だけど、それでも…俺香名さんのこと好きだから…」
「…ッ、…」
「香名さんが辛そうなの、嫌だよ…っ」
「……う、ん…ッ」
絞り出すように答えた彼女の身体が小刻みに震え出す。
虚しく響くテレビの音に紛れてくぐもった嗚咽が部屋に漂う。
灯唯がそっと背中を撫でると、服を掴んでいた指に力が入った。
「もう辛いの…、ずっと…!あの人のために、煙草とか、お酒とか、用意しても…来ない日の方が多いのに…」
「うん…」
「でも…っ、自分からは、どうしても言えなくて…っ、別れたい…って、言えなくて…っ」
「…うん…」
「…ッ、こんな関係じゃなく、普通に…好きな時に会いたい…ッて、思うばっかりなのが…自分だけなんて…」
「香名さん…」
「……ッ、一番になれないの分かってるに…馬鹿だよね…っ」
そう強く言い捨てて、彼女は額をぐっと灯唯の胸に押し付ける。
そこにじんわりと冷たさが広がった分だけ香名の気持ちが楽になれればと、灯唯は震える背中を撫で続けた。
――――――――――
一体どれ程経ったのだろうか。
ようやく胸の中の嗚咽が治まり、涸れた声が発される。
「……ごめんね…服、汚しちゃった…」
ぎりぎり聞き取れるほどの小さな声。
「泣いちゃったし…。私が相談聞くって言ってたのに」
ゆっくり上げられた彼女の顔は涙のせいで化粧が取れてグチャグチャになってしまっていた。目の下が黒い。
「……ふ、ッ…」
「やだ、そんなに酷い顔してる…っ?」
思わず笑ってしまってマズイと思ったけれど、彼女が恥ずかしそうに鏡を手に取った姿にほっとする。
こんな時でも美を求める女性の、一種のたくましさを見た気がした。
「うわぁ…酷い…」
「大丈夫大丈夫、全然可愛いよ」
「やだっ、そんなわけないじゃん!」
後ろから鏡越しに覗いてやれば、手で覆うようにして顔を隠す。
その様子が可笑しくて灯唯はさらに笑ってしまった。
一生懸命コットンと格闘する背中が楽しい。
「…うーん…まぁいいか、スッピンでも…」
「どれ?」
ようやく正面から向き直した顔は少し幼くなって、化粧なんかしていなくても充分可愛らしかった。
「こっちのがイイじゃん」
本気で言ったつもりだがそうは捉えられなかったようだ。
「やめてよ、もうアラサーなのに。あー恥ずかしい」
「そうかなー?」
「でも、……ありがとね」
目はまだ少し赤いけれど、にっこり笑ったその顔に先ほどまでの翳りは無い。
嬉しくなって、灯唯はもう一度しっかりと香名を抱き締める。
彼女は抵抗する素振りも見せず、むしろ背中に腕を回して抱き返してきた。
「…不思議…トモ君には甘えちゃう…」
「いいよ、いっぱい甘えて。俺も甘えるから」
じゃれるように柔らかい髪に鼻を埋めると、くすぐったいと背中を叩かれる。
お返しにと髪を掻き回されて、乱れた頭に二人して笑った。
「香名さんってホントいい女」
「トモ君もなかなかのもんだよ」
お互い乱れた髪を直しながら、ふと視線を絡める。
どちらからともなく自然に距離が縮まっていった。
啄ばむように触れ合った唇がしっとりと馴染む。
ほんの一瞬重ね合わさったたそれは、ごくごく小さな音を立てて離れた。
「………恋愛感情無いって言われたのに、キスしちゃった」
「ごめん…。…でも、さ…」
「気持ち良かったね」
「……うん」
これが一体どういう感情なのかは分からない。
それでも互いの熱を求め合っている。
慰め合うようにもう一度、そしてより深く、重なり合った。
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