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第10話
高月先輩に連れられて、ぼくたちは人けのない大学の裏庭に足を踏み入れた。冬でも枯れることのない針葉樹に囲まれたなかにあるちいさな四阿で、ようやく息をつく。
高月先輩とぼくと悠深。そして、十八になったぼくと変わらない姿でいるミハル。
高月先輩は瞳をとじて眠ったふりをしている。ミハルとぼくの最後のやりとりを聞く気になれないのだろう。それが彼なりの優しさかもしれない。
悠深はぼくの手を此方に引き留めたまま、黙ってミハルの姿を睨みつけている。睨まれたミハルは気にすることなくぼくの頭上に透き通った手をかざして撫でる真似ごとに興じている。
「二年間、時間を止めていなくてもよかったのに」
「俺がお前に約束したことを忘れたくなかったからさ。治美 が二十歳になって、もう俺を必要ないと言ったときに、お前が天国に送り届けてくれればいい、そう言ったのは俺の我儘でしかないんだから」
「でも、ぼくはミハルに言われたとおり、ここに来たよ。無視していつまでも高月先輩に憑いたままにしておいてもよかったけど?」
そのまま高月先輩の一生を見守る守護霊になるという方法もあったはずだ。なのにミハルは首を振る。
「そしたら隣にいる彼が可哀想だろ? 彼は俺と違う、生身の人間だ」
ミハルが高月先輩の守護霊として一生をともにすると決めたなら、ぼくもまた、ミハルを想いつづけていたに違いない。悠深はそれでも構わないよって優しく応えてくれたけど、心の奥底から滲み出た思念が、それは嘘だと訴えていた。ミハルは知っているのだ。誰よりもぼくをしあわせにできるのは死んでしまった自分ではなくいまを生きる悠深だと。
「それに、治美だって恋人がいる。これからは俺じゃない、生身の人間が治美の傍にいるべきなんだよ」
もはや未練などないとせいせいとした様子のミハルは、ぼくの耳元まで近寄って、甘い囁きを落とす。
「でも、こうやって、成長したお前に逢えたのは、嬉しい」
ミハルは透き通った身体でどうにかしてぼくを抱きしめようとして、結局抱きしめることができなくて、哀しそうに微笑う。
「……ぼくも、すきだったんだよ。ほんとうに、ミハルのこと」
青春の一過性の気持ちだと、大人になったら納得してしまうのだろうか。そんなわけない。お互いに心を近づけ通わせる初めての恋は、この先の人生でもう、二度と巡り合えるものではないだろうから。
「知ってる」
ぎゅっ、と痛いくらいに握りしめられた悠深の手の温度を感じながら、ぼくは残酷な告白をする。
「だけど、いま、ぼくがすきなのは」
いつの間にか、自分にとってかけがえのない、頼りになる、人生をともにしていく人間になっていた、悠深。
悩んだり傷ついたり、慈しんだりする気持ちを隠さず、ミハルがいなくなってからも、自分が都会へ出てからも変わることなくぼくを強く想っていてくれた、悠深。
いままで感謝の気持ちを伝えたことは数知れずあったけれど、それを恋情というかたちで伝えたことはいちどもなかった。大切な家族だと思っていたから。
「いい。言霊にするな」
ぼくの言葉を遮るように、ミハルが押し殺した声で口を挟む。
「変わらないと信じていられるほど俺も愚かじゃない」
「ミハル」
「それに、この世に生まれ落ちることを拒まれた俺が、こうしてお前と出逢えたことだけでも、奇跡なんだから。な」
イチカ。泣くなよ?
ミハルの言葉の前で動きを止めているぼくは、悠深の低い声に言葉を噤む。
「観世音、南無佛、余佛有因、余佛有縁、仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、
念念従心起、念念不離心……」
十句観音経。日常的に使われるこのポピュラーな経典は浄霊にも効果がある。たしか、過去に囚われ苦しむようなことなく、無限に輝きて新生せよ、という意味もあったはずだ。
真っ青な冬の空に、ミハルの姿が浮かび上がる。
彼は、微笑って手を振っていた。
ぼくも、微笑みを返そうとして……できなかった。首を思いっきりあげて、涙がこぼれないように必死になりながら、歯を食いしばりながら、千切れんばかりに手を振り返した。
悠深によって短い経典が唱え終わると同時に、ミハルの姿は、音もたてずに、儚いしゃぼん玉のように、弾けて、消えた。
夢から醒めたように、高月先輩が涙に濡れた双眸を見開き、天空に向けて手を合わす。
――合掌。
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