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3.ひと族
「おいあんた、どうしたんだ」
身体を揺すられた。
「ちょっと、あんた大丈夫なのかい? 追いはぎじゃないの」
「ちゃんと見ろよ。小川に突っ伏すみてえに倒れてるじゃねえか」
声。……雄と雌の気配。知らない匂い。
身体を揺する手は止まり、背に置かれた。
「汚れてるけどこの人は若い。あいつらはもっと老けてるだろ。いつも酒臭いし、奪ったもんを着てるからな、妙にイイもん身につけてる」
「たしかにねえ」
「この人は服もブーツもボロボロだし、……変な格好だな。とにかく、疲れ切って倒れちまったんだろうよ。可哀想に、獣に追われたのか、それこそ追いはぎにやられたか。怪我してるかもしらねえな」
耳が受け止めた音を、言葉として理解するのに少し時間がかかる。
「分からんが、……お、気付いたか?」
目を開くと、初老の雄が顔を覗き込んでいた。
「…………けほっ」
誰だと問おうとして声が出ず、咳き込んでしまう。雄が押しのけられ、今度は雌が顔を覗き込んでくる。
「ああ無理しなさんな。あんた、荷台の場所を空けておくれよ」
「なんだい、追いはぎじゃ無いかって言ってたくせに」
「だって綺麗な顔してるじゃないの」
「なに言ってんだ、ちくしょうめ」
長閑な調子の声を聞きながらホッとする。これは違う、ひと族だ。
身体に手がかかって二人がかりでそっと運ばれ、何か柔らかいものの上に横たえられた。手つきは優しくて、敵意は感じない。
追っ手じゃない。大丈夫だ。
安心したからか、また意識が薄れていく。
もう少し、……寝ていても、大丈夫────
気付いたら横になっていた。寝台の上だ。
新しい藁の匂いがする。
「目が覚めたの?」
すぐ横から声がした。目を向けると若い雌がいる。
「良かった、ずいぶんうなされてたから」
鼻が勝手にヒクヒクした。ほんのりと良い匂いがする。牛の乳を暖めた匂いだ。
「お腹すいてるよね。ちょっと待って」
雌が出て行ってすぐ戻るのと合わせるように、乳の匂いが濃くなる。無意識にゴクッと喉が鳴った。雌がクスクス笑う。
「オートミールだよ。食べる?」
匙がくちもとに寄る。ひくりと鼻を使ったが危険な匂いはしない。とびつくみたいにかぶりつく。
暖かい。甘い。うまい。一気に唾液が出て、じわっと目が潤んだ。
雌は少しずつ掬ってくちに運ぶ。ジリジリしてきた。
「少しずつよ? 慌てないで」
もっともっと食べたい。その碗を取って自分でかきこみたい。
「何日も食べてないんでしょ? だから少しずつ。ね?」
宥めるみたいに言われて、しぶしぶ頷いた。
幼い頃、こんなことがあったような気がする。病になったときに、慌てるなと宥められたことが。
「すっかり食べたね。今はこれで終わりだよ」
もっと食べたい。けれどこの雌から漂う匂いに、少し警戒が湧いた。
「ねえ、あんたどこから来たの? なにがあったの?」
「…………」
どう答えるのが良いだろう。分からなくて黙っていたら、雌はニコッと笑った。
「いいの、無理に喋らなくても。まだ疲れてるでしょ? 眠った方が良いわ」
ホッとしながら頷いて目を閉じた。雌が出て行く。
目覚めたときから、いくつか気配を感じ取っていた。この建物にいるのは、あの雌だけではない。
とにかく何が起こっているか知らないといけない。目を閉じたまま耳を澄ませる。
扉の向こうで、ひと族が話してる。
声を潜めたって、人狼の耳には丸聞こえだ。
『あの兄ちゃん気がついたのか。なんか喋ったか』
『なにも。また眠っちゃった』
『まあ、あのざまじゃあねえ。可哀想にねえ』
どうやらあの時の二人がいるようだ。
『どこのひとなのかな。ねえ、お父さん分かる?』
『いや、分からねえ。財布も何も持ってなかったからな。追いはぎに身ぐるみ剥がされたんだろうよ』
『でも本当に綺麗な男だねえ。二十四か五くらいだろうかねえ』
俺はまだ十七才だけれど、成長がひと族と違うというのは学んで知っている。人狼は十になる頃には精通する。雄雌問わず十五になる前に身体はできあがるけれど、成長すると子狼の頃ほど変化が簡単ではなくなるのだ。
『本当だよねお母さん、寝てるだけなのに見とれちゃった』
『背も高いしイイ体してたし、商人じゃあ無いねえ。農夫かも知れないねえ』
『きっとお金持ちの農夫か牧夫だよ。髪とまつげが同じ銀色でさ、ツヤツヤだったの。肌も真っ白だったし、お金持ちって髪や肌がツヤツヤじゃない』
身体は汗と泥にまみれていたはずだが、サッパリしているから拭いてくれたんだろう。そしてあの二人は番 、確かひと族は夫婦というのだったか。
『ポーッとしてんじゃねえぞ。出て行く男なんだからな』
『そうだよ、どこの誰だか分からない男なんだから、大切な娘をやるわけにはいかないよ』
『とにかく、目が覚めたんなら今日はもうあの部屋に行くんじゃねえぞ』
『なに言ってるの。あのベッドはあたしのなんだから、あたしの部屋に行くのは勝手でしょ』
『あほう、嫁入り前の娘が男一人のとこに行くもんじゃあねえ』
『おまえこそなに言ってんだい』
そうか、あの雌は二人の娘か。そしてここは雌の部屋か。
『昼からでも教会の手伝いに行っておいで』
『えー、でもぉ』
『目が覚めたんだから気が済んだだろ』
『子供たちが待ってるよ。ちゃんとお行き』
『分かったよー、もう』
出て行く気配がした。もう雌が来ないのだと知って目を開く。
身を起こし、部屋と自分に目をやる。なにか着ているが自分の服では無い。変化中は咥えていたブーツは牙の穴が空いていただろう、あれはどこに。
まだ月は四日目。体力はすぐに回復する。さっきの食事では足りないけれど肉を食えばいい。俺は狩り だ。ウサギでもキツネでも狩って食えば、すぐに走り出せるだろう。
もっと遠くに、もっとたくさんのひと族のいるところに。
紛れ込んでしまえば誰も俺を探せない。そうなれば安心できる。早くしなければ。
あの服が欲しい。あれは変化しても脱がずに済むつくりになっているのだ。早く走るには、やっぱりあれが一番だ。
俺の匂いがついているはず。洗ったとしても消えないはず。目を閉じて鼻に集中する。……あった。家の中じゃない、外だ。
寝台から降りて窓を開いた。
あっちにある、と分かる。窓を乗り越え、服を持って行こうとして迷った。
太陽の位置から、昼頃だと分かる。今すぐ出て行くか?
……そう考えたが、この家には世話になった。ならば恩を返さなければならない。恩を受けたら返す。これは郷の大切な掟だ。けれど留まれば面倒なことになるような気もする。どうしよう。
ハッと振り返る。ドアが開いた。
「もう起き上がれるのか。大丈夫かい」
最初に俺を揺すった雄がいた。ぼんやりとした顔で敵対する雰囲気は無いが、何をしに来たと睨む。
「音がしたから様子見に来ただけだ。怖い目にあったんだろうが、ビクビクしなさんな」
窓を開いた時の音か。しまった、ひと族でも耳が良いのがいるのか。
「取って食いやしねえよ。まあ座んな、ちょいっと話しようや」
寝台に座るよう促され、従うと雄も隣に座った。
「あんた、どこから来たんだい?」
「…………」
問われて答えに詰まる。
どうしよう。ひと族に人狼の郷があることなど知らせてはいけない。本当のことを言うわけには……。
「名前は?」
俺たちに名は無い。幼い頃は毛の色や眼の色で判別されるけれど、仮の階位 を得てからは階位で呼ばれる。けれど階位を言うわけにはいかない。
困って首を振ると、雄は眉を寄せた。
「もしかして、覚えてないのかい」
覚えてないってなにを。こっちも眉が寄る。
「物忘れの病ってのがあるって聞いたことがあるよ。もしかしてそれかい?」
「…………分からない」
言ってる意味が分からない。
「そうかい。そりゃあ難儀だな」
どうしよう。
何もかも分からなくて、俺は首を振った。
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