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4.ひと里

 俺を助けたあの雄は、この村の村長(むらおさ)だった。その娘はリリと言って十六歳。ひとつ下なだけなのに、なんていうか、すごく幼い。 「ルーカス!」  今もブンブン手を振って走り寄って来てる。  まるでじゃれ合う子狼(ガキ)だな、と思いながらニッコリと笑いかける。 「やあ」  リリはニコニコしたまま下を向いた。  俺が笑いかけると、たいていの雌は少し黙る。そして匂う。ぷんぷん匂う。 「どう? 何か思い出した?」 「いや……」  俺は物忘れの病だということになっているのだが、正直困ってる。どうすれば良いか分からない。だから深く考えない。とりあえず、恩を返す間だけ、流されていようと思ってる。 「ああ、頭が痛くなっちゃうんだもんね。無理しない方がいいよ」  勝手に納得するリリに声を返すことなく、ただちょっと笑んで肩をすくめる。  リリは赤くなって、ふふ、と笑った。発情しかけてる匂いをぷんぷん漂わせながら。  ひと族は匂いに無頓着だ。何でもないフリして話しかけてくるけれど.匂うから丸わかり。バカみたい。  けれど利用はできる。俺は知りたいことをいくつか、雌たちから聞いた。  この村は農夫と牧夫がほとんどの小さな村である。小さいからみんな家族のように仲良し。半日ほど歩く範囲の中に同じような村がいくつかあって、その中でこの村は一番大きい。教会もあるから、みんなここにやってくる。  もっと大きな町が馬車で三日ほどの所にあり、この村の十倍以上のひと族がいる。町にはこのあたりの領主様や貴族様がいて、おいしいものを出す店や綺麗な服を売る店なんかがたくさんあると、この村の娘たちは発情の匂いをぷんぷんさせながらきゃいきゃい喋ってた。  別の方向に一週間ほど行くと鉱山があると教えてくれたのは村長だ。遠くからたくさんの男たちが集まって働いているらしい。  どちらに行くのが良いか考えていたら、その日のうちに村長の家から教会へ移された。  村長は俺のことを物忘れの病だと思い込んで、教会のおっさんにそう伝えたようだった。  村の教会は学びの場で、集会所で、病を癒すところでもあった。  肉を喰ったので身体はすっかり復調していたのだけれど、教会のおっさんは 「ここでゆっくり身体を休めなさい」  と言って俺を寝台に押し込み、すぐ傍に椅子を置いて色々聞いてきた。  名前、住んでいたところ、仕事、年……どれもどう答えたら良いものか分からなくて、眉を寄せたりため息ついたりしてたら深刻そうに言った。 「頭が痛いのか」  俺は首を振ったのに、おっさんは優しい笑みで俺を見て、胸の辺りをポンポン叩く。 「我慢しなくて良い、思い出そうとすると頭が痛むというのは知っている」  とか言って酷い匂いの薬湯を飲まされた。  郷でも癒し(イプシロン)がこういうのを作ってて、病のときは飲ませられたから、匂いを我慢して飲んだ。郷のよりまずかった。 「名前で無くても良い、なんて呼ばれてた」  聞かれた時、思わず「狩り(ルウ)……」と答えて、しまったとくちを噤んだら、 「ルー……で始まるのか」  そう納得してしまった。  おっさんは他にも色々聞いてきて、そういう色々が全部、村長には伝わっていた。娘のリリにも。  リリは勝手に『ルーカス』と呼んだので、俺はいつのまにか『ルーカス』になった。  村で目覚めて二日目。  もう元気になったと言うと、村の中をあちこち連れ回された。  家や家具が壊れたのを直してみろとか、畑を耕してみろとか言われてやった。山に入って木を切ってみたり、牛を育てる手伝いをしたり、言われるままに色々とやったけれど、うまくできるわけがない。狩り(ルウ)の仕事ではないから。  郷では十五歳を過ぎると、さまざまな仕事を手伝わされる。それぞれが、どんな階位に向いているか見極めるんだ。  鼻が効くことと身の軽さを認められて、俺は狩り(ルウ)になった。他のことが得意なら階位は違った。  ひと族にも狩人(ハンター)という仕事があったけれど、弓矢を使ったことがないのでこれもうまくできなかった。俺たち狩り(ルウ)は弓も矢も使わない。自分の爪と牙で仕留めるから。  ただ血抜きをしたり皮を剥いだりでナイフは使ったから、それはうまくできた。  そんな風に色々やっていると、ひと族たちはしきりに首を捻った。 「なんの仕事をしていたのかなあ」 「物忘れの病で仕事ができなくなることもあるというから」 「仕事のやり方も忘れちまうのかい?」 「そうらしいよ」 「難儀だなあ」 「どうやって生きていくんだ」 「良い青年なんだがなあ」  村長や教会のおっさんや他のおっさんおばさんたち、みんなでそんな風に話していたけれど、かまわずに手伝いも色々やった。世話になった恩を返さなければならないからだ。  高いところの作業、重いものを運んだり、牧羊犬に指示を出したり。牧羊犬は俺の指示に完璧に従ったから、牧夫が向いているんじゃないかとか言われたけれど、犬が人狼の言うことを聞くのは当たり前のことだ。  すると次の日、ひと族たちは俺を村はずれの小屋に連れて行き、ニコニコ言った。 「ここに住んでいいぞ。思い出さなくてもいいから、心配せずにゆっくりしなさい」  村の一員として認めようということらしい。けれどそれは困る。  ここはまだ郷に近すぎる。本当なら目覚めたその日のうちに村を出た方が良かったくらいなのだ。  俺に宛がわれた小屋には、村の若い雌たちが仕事の合間にやって来る。中でまとわりつかれると匂いが残るので、小屋の前で話すようにしてたら、身持ちが固いと褒められた。 「それでねルーカス、聞いて!」 「教会で子供たちに字や計算を教えるのも、一度やってみちゃどうかって、あたしたち思って」 「牧師様は、物忘れの病では難しいだろうって仰ったけど」 「そんなのやってみないと……」  なんか話してるけど、どうしたもんかなあ、なんて考えてたら、唐突にゾクッとした。  ────────……!  背筋に走るなにか。思わず警戒姿勢を取る。耳を立て、鼻に意識を集中する。 「分からないじゃないって……」 「ルーカス?」  雌の誰かが話しかけてくるけれど、それどころじゃない。  五感を研ぎ澄ませ。探れ、なにがいる?  ────────だめだ……風下にいるのか匂いはしない。どこにいるか掴めない。けれど人狼だ。近くに人狼がいる。それも…… 「……ああ」  気配が消えた。背中に、脇腹に、冷たい汗が流れている。  一瞬だった。  けれどいた。近くにいた。だめだ、もうここにはいられない。  こんなくらい、動揺などしない。狩り(ルウ)は冷静でいなければならないと言われている。俺はいつも、そこは褒められた。けれど…… 「どうしたの? 怖い顔してる」 「いや……」 「あ、頭が痛いの? ごめんなさい、変なこと言ったかな」  けれどダメだ。全身の毛が逆立つような、これは────  あいつ(ベータ)、だ。  間違いない。こんな感じ、あいつだけだ。  他の奴から受けたことない。あいつだけ、俺を根っこから怯えさせる。 「ごめんなさいルーカス、あたしそんなつもりじゃなくて」 「そうよ、ただ早く村に馴染めばって」 「……いや、ごめん、みんな……」  なんとか言いながら、目は注意深く周りに巡らせる。 「大丈夫? すごい汗だよ」 「……ちょっと……横になる」 「うん、その方がいいよ」  足早に小屋へ入る。  扉を閉じ、感覚を拡げる。やはりなにも感じない。  ────なんであいつが追ってくるんだ? 俺のことは嫌いだろう? 俺がいなくなって、一番喜ぶのはあいつだろう?  ああでもアルファに命じられたなら、あいつは断らない。そうだ、あいつは群れの中で一番掟に厳しい。  歪んだ雄たちを『掟を破る』という理由で追い出したのもあいつ。  番でもない雌と子作りしようとしたやつらを、あいつは郷から追放した。(わか)いうちに番以外との子作りをした雄たちは成長しても変わらず、雌ならなんでもいいようだった。  そいつらは、それまで子作りの相手をしていた雌たちが醜く老いたからもう相手はしないと言い、俺たち世代の雌に子作りを迫るようになった。  けれどそいつらの相手をする雌なんていないから、厳しく突っぱねていた。するとそいつらは無理矢理ことに及ぼうとしたのだ。  雌は激しく抵抗した。既に番がいたんだから当たり前だけど、まだ番がいなくたってあんな連中の相手をする雌なんていないに決まってる。  いち早く駆けつけたベータ(あいつ)は、アルファよりも誰よりも激しく怒り、そいつらを次々ぶちのめした。このままでは殺してしまいそうだと、もう一人のベータやみんなが止めようとしたけど、あいつははね除け、攻撃を続けた。  それであいつが群れの誰より強いと証明されたわけだけど、『同族殺しをするつもりか』とアルファが吼えるまで止まらなかった。  ギラギラ光る金の目は、燃えたぎる怒りを抑えていなかった。逆立つ毛並みも、噛みしめた牙も、まだ怒っていた。それでもやめた。  同族殺しは最も重い掟破りだから。  アルファの命は絶対。これも絶対に守られなくてはならない掟。だから従った。  そういう奴だ。  ともかく。  あいつが来たなら、もう(ここ)にはいられない。

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