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8.あいつ
新月近い夜だった。
呼ばれた夜会に向かうアグネッサに、俺はピッタリ従う。
ひと族であるアグネッサは俺の主 ではない。けど与えられた仕事をきちんとやるのは当たり前のこと。それでカネをくれるんだから、これは対等な取引と同じだ。
歌姫をやるとき用の煌びやかなドレスを纏ったアグネッサは、普段とちょっと違う。気配が強くなって、周りのひと族はみんな目を奪われる。
会場に入った瞬間から注目されてもまったく気に掛けず、アグネッサは少し顎を上げてまっすぐ、楽士たちが座って待つステージへ向かう。そこは少し高くて、小さいアグネッサが誰よりも高みからひと族たちを見下ろす。
ざわつく会場を見渡し、ニッコリ手を広げると、ざわざわが静まった。
歌い出すと声は広がり、会場の空気を不思議な波長で振動させた。
アグネッサが、この場を支配してしまう。
アグネッサの歌には不思議な力がある。ひと族はみんなぼうっとしてしまい、ずっとアグネッサの背後に立ってる俺なんか誰も見ない。普段はすぐ発情する雌たちも。
俺にはまったく効かないけれど、やっぱりひと族にだけ効く力なのかな。声にひと族を魅了する力が宿っているのではないかと思う。
人狼もこんな風になることがある。アルファの遠吠えを聞くと俺たちは魅了され、なんでもできる気分になる。
アグネッサは雌なのに、ひと族に対してアルファのような力を使えるんだろうか。弱い種族だと思ってたけど、ひと族にもこういうのがいるんだなと認めるしかない。
与えられた仕事をきちんとこなすべく、俺は会場を注意深く見ていた。こういうときに誰が来ているか確認しておくと後が楽だ。特にゲイルは注意しなければならない。どこにいる?
いつも一番目立つところにいるのに、今日は来てないんだろうか。
会場を見渡しながら、ふと違和感を感じ取る。
────なんだこの気配……
アグネッサに魅了されてるひと族の中に、俺と同じく冷静に見てる奴がいる。ひと族が集まる場所ではいつも閉ざしている感覚を解放した。新月近いからあまり鋭くないけど──────
瞬間、感じ取った薄い気配に背筋がゾクッと泡だつ。
────まさか
“あいつ ”……なのか?
解放した五感は、ゾクゾクするような、悪寒に似たなにかを伝え続ける。
ひと族で埋め尽くされた広間の中、頭ひとつ抜きん出た銅色。
その眼はアグネッサではなく俺を見ている。
────……あれは
毛の色は確かに“あいつ ”と同じ。けれどあの眼は? 暗く沈んだ茶色に見える。
“あいつ ”の眼は、深く輝く金色のはず。幼い頃、『金の銅色』と呼ばれていたんだから間違いない。階位が決まるまで、俺たちは眼と毛の色で個体を判別するのだ。
気付くと身体が細かく震え、膝が折れそうになっていた。慌てて目を逸らし感覚を閉じる。
全身を苛んでいた感覚から解放され、ほっと息をついた。知らず滲んでいた汗を指先で拭い、チラリと目を向ける。銅色の毛の男は、まだこちらを真っ直ぐ見たままだ。すぐに視線を動かす。見てたらマズイ気がする。でも……あれは“あいつ ”なんだろうか。
あんな顔だったか? あんな髭だったか?
郷では匂いだけでもゾクゾクするから嗅がないように見ないようにしてたし、顔とか分からない。気配くらいしか覚えてない。
分からない。
分からないけど、確かめなければ。
額やこめかみに滲み続ける汗を、指先では足りず手の甲も使って拭いながらチラリと見て、そいつの近くにゲイルがいるのに気付いた。
そういえば前に馬鹿が言っていた。ゲイルが新しく用心棒を雇ったと、俺よりデカくて強いやつだと。そうだ、言っていた。
デカかろうがひと族に負けるわけないから聞き流して、すっかり忘れてた。
けどあれは……“あいつ ”ではないにしても、ひと族では無い。絶対に、違う。じゃあ似た毛の色をした違う人狼……?
ギリッとくちびるを噛む。
まさかあの下町を抜けられる人狼が居たなんて。
追っ手だろうか。そうとしか思えない。目的無しにあの下町を抜ける人狼が居るとは思えない。
おそらくアルファが命じたのだ。俺を逃がすなと、連れ戻せと。敢えて俺が苦手にしている“あいつ ”に命じたのかも。
“あいつ ”なのか違うのか。追っ手なのか違うのか。
確かめるべきか? そうするべきか?
────そうするべきだ。
確かめて追っ手なら追えないようにしなければ。そうしなければ捕まって連れ戻されてしまう。それはあのアルファと番うということだ。
それは嫌だ。
絶対に嫌だ。
アグネッサが歌い終え、歓談が始まる。さまざまな雄や雌がアグネッサに話しかけてくる。けれどなぜか、ゲイルは近寄ってこず、あの用心棒を連れて、すぐ帰ってしまった。
歌姫をやった後、アグネッサは疲れやすくなる。夜会が終わる前に帰ると言ったので、付き添って屋敷へ戻り、寝室まで送り届けた。
夜会では何も食べていないけれど、夕食を断って借りてる部屋へ帰る。
それどころじゃない。
────確かめるべきか?
“あいつ ”なのか別の追っ手なのか。もしかしたら別の郷の人狼かも知れない。
けれど気配は“あいつ ”に思えた。郷では少しでも気配を感じたら避けるようにしていたから、気配だけは分かる。それとも他郷には似た気配の奴がいるんだろうか。
追っ手なら、ただ逃げてもすぐ追いつかれてしまうだろう。追うことが得意な者が命じられているに違いないから、俺程度だとすぐ捕まってしまう。
追わせない方法はいくつかある。
相手の鼻を潰す、足を潰す。今は新月だから傷の治りも遅い。
体格はあれの方がデカいけど、俺の方が敏捷だったら勝機はある。ぶち倒して、その隙にこっちの気配を抑えて逃げれば……
────くそ……っ
俺は努力したんだ。やっと町 でやっていけると思えるようになったんだ。
鼻を抑えて臭いに耐え、耳を殺しても聞こえてくる誰かの秘密や噂話も知らないフリをした。発情するひと族の匂いにも無理矢理慣れたフリをした。ひと族はそういうもんなんだと考えるようにして、ひと族のようにふるまい、ひと族と酒を飲んで笑って。
俺は“自由”なんだから、楽しく過ごそうって────だんだん感覚を失っていくんじゃないかという恐怖と戦いながら。
そうだ、俺は怖かった。人狼としての力を失うんじゃないか。それでも、感覚が鈍っていっても、ひと族と相容れないという事実は残る。そうなってから、郷に戻れるのか?
胃の奥から迫り上がるような怖さを感じると、俺は下町へ行って酒を飲んだ。月が満ちてれば人狼の本能だけで屋根を飛んだ。でも大丈夫だって実感なんて無かった。感覚を全解放はしなかったから。
ひと族の町でそんなことをしたら、とっても辛いと分かってたから。
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