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10.反撃

 そうだ、そうだよ、俺がアルファになればいいんじゃないか?  アルファになれば、誰にも従わなくていい。オメガにならないで済むんだ。  そうだよ、どうして気付かなかったんだろ。“あいつ(ベータ)”に近づくなと命令することだってできるんだ。  ……けれどアルファは群れで一番強い雄だ。  俺はそれほど力が強くない。  けど、動きは敏捷だから相手の手を躱せる。それに気配の変化を感じ取って隙を見つけるのが得意で、子狼の頃は年上も交えての相撲で一番になったことだってある。  足を引っかけたり、腕を逆に決めたり、そういう関節技も得意だ。それはいつも褒められたし、その後も長所を伸ばすよう鍛えてた。それに狩り(ルー)として必要な能力は戦いにも使えるって学んだ。  けど……  “あいつ(ベータ)”に勝てるだろうか。  次のアルファが誰かという話になると、みんなが“あいつ(ベータ)”なんじゃないかと言っていた。  なるべく見ないように近づかないようにしてたから戦うところなんて見たこと無いし、俺はよく分からないけど、同世代(みんな)、“あいつ(ベータ)”は強いって思ってるんだ。  でも、だからって俺が絶対勝てない、なんてことも無いような気がする。そうだ、逃げる必要は無いんじゃないか?  もしあれ(・・)が“あいつ(ベータ)”なら。  雄同士が諍いを起こすと、アルファの前で戦ってもめ事を治める。負けた方は無条件で従うのだ。つまりいずれ戦う相手ってことだ。  あれが他郷のやつだったなら、発情してないアグネッサと子作りするために俺を潰そうとしてるやつ。こっちが潰してやるしかない。  どっちにしろやり合うなら、今やったって同じこと────いや、もうすぐ新月だ。この時期に怪我なんてしたら、下手すると死んでしまう。  喰わない相手を殺すことはしたくない。もっと月が太るまで待った方が良い。  “あいつ(ベータ)”を倒せたなら、アルファだって倒せる。そんな気がする。  なら、やるしかないだろ。アルファと番わず、郷に戻るためには、そうするしかない。  人狼として衰える前に、ベータを倒し、郷に戻ってアルファを倒すのだ。  その日から、俺は鍛え始めた。  郷を出てから半年。ひと族に負けるわけ無いし、匂いや気配や音や、そういうのを紛らせる方が重要だったから、なにもしていなかったのだ。  けれど人狼同士で戦うなら話は別だ。鈍っているに違いないさまざまを、急いで取り戻さなければならないと必死になった。  アグネッサに命じられない限り訓練した。町をうろついたりしないで、鍛えたいからと頼んで、重いものを運ぶ仕事をやらせて貰い、あいてる時間は屋敷の庭で走り込む。いつも以上に肉を食い、酒は断った。  夜は屋根伝いに走り飛んで、人目の無い場所を見つけ、郷に居た頃よくやってた訓練を再開した。壁を伝う訓練、高い所に飛びついて飛び降りる、木に登り、枝や葉をうまく使って飛ぶ、などなど。  郷と同じというわけにはいかないけれど、少しでも不安を解消したかった。  気配を追う感覚も取り戻そうと感覚を一瞬、解放したけれど、ぐわっと襲ってきたもろもろに目眩がして、焦って抑えた。  けど、いざとなったらなんでも使わなければならない。目眩とか言ってる場合じゃない。ちょっとはマシな川縁に行って、少しずつ、短時間だけ、感覚を解放してみたりもした。  カネを全然使ってなかったから、ひと族の使う武器も手に入れた。剣や弓矢なども考えたけど、簡単に使いこなせないと諦め、斧や棍棒を入手する。  そんな風に過ごしながら月が満ちるのを待ち、満月まで五日となった深夜。  人型(ひとがた)のまま部屋の窓から出て屋根に昇り、俺は走った。  おそらく相手は、満月まで戦うことは無いだろうと予測しているだろう。  その虚を突くのだ。  やるなら、勝たなければならない。  ゲイルの屋敷には広い庭があり、水場や花壇、四阿なんかがある。アグネッサの屋敷より大きいし、周囲は高い塀で囲まれていた。  庭には犬が何匹か放たれていたけれど、俺が庭に降り立っただけで股ぐらに尻尾を挟んで後ずさりし、巣へと帰っていった。  当たり前だ。犬ごとき、狼に刃向かうわけが無い。  満月まであと五日。抑えてたって狼の気配は隠しきれない。  ひと族は鈍いから何も気付かないけれど、犬や馬には分かる。だからアグネッサの共として馬車で移動するときは、限界まで感覚を抑えていた。  色々試したんだ。眼を耳を鼻を、肌で感じ取ってしまう気配を遮断するやり方を。そうして抑えると、相手にも気配が伝わりにくくなるということも知った。  この町に来たばかりの頃、まず匂いに耐えられなかった。雑多な気配や音や、さまざまなものに神経を苛まれ、ひどく疲れた。川縁が少しだけマシだったので、しばらく河原で寝起きしていた。  少しずつやり方を見つけ、身につけていった。アグネッサのところに行く頃には、だいぶ抑えることができるようになっていた。  もちろん完璧に閉ざすなんて無理だけど、なんとかそれでやってきた。  ふう、と息を吐いて眼を閉じる。  感覚を、全解放し────肌がそそけた。  奥歯を噛みしめ、必死に耐える。  耳が、鼻が、肌が、一気に情報を連れてくる。  あらゆる匂い、多くの者の気配、様々聞こえる音。久しぶりに味わう感覚の奔流。まるで爆縮の中心に置かれているかのように、雑多なものを浴びせかけられる。  目眩がする。それでも衝動を必死に抑え、感覚を閉ざさずにひたすら受け止める。ずっと抑えてたから、久しぶりの感じは、ものすごい圧だ。  ────しっかりしろ、少しの間だけ耐えろ。  呼吸を整える。必要なものだけに意識を向ける。  歯を食いしばって以前の感覚を思い出そうとした。  どこにいる? ひと族じゃ無い気配、あの気配はどこだ?  微かな違和感を感じた。そこに意識を向ける。  匂い……は、分からない。でも、これだ。  新月近かったあの時でさえゾクッとした。今は感覚のるつぼにいるけど、アレと同じだ。  奥歯を噛みしめて伝わる怖気に耐えながら、掴んだ気配へと向かう。  こっち……上だ。  手頃な木に昇り、枝の反動を利用して壁に張り付いた。爪を立て壁を昇る。  ここだ。  感じ取った気配は薄い、けれど絶対にひと族とは違うもの。  窓に明かりは無いが人狼には関係ない。それは相手も同じだ。用心しながら窓を覗き込んだ。  シャツ一枚羽織った、逞しい背中がある。短く刈り込んだ髪。色は分からない。  彫像のように動かない────が……  ふくれあがる。微かだった気配が…… 「蒼の雪灰」  低い声が耳に響き、急激にふくれあがった。  全身の毛が逆立ち、汗が滝のように吹き出す。  動けない。 「蒼の雪灰」  彫像のように動かなかった背中が振り返る。  髭に覆われた頬。そして……  金の瞳。  ────“あいつ(ベータ)”だ。  そして悟った。  ──────こいつには勝てっこない。

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