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11.無理だ
「なにをしている。蒼の雪灰」
子狼の頃、俺はそう呼ばれていた。青い目と薄い青灰色の毛だからだ。
俺たちには固有の名が無く、階位で呼ばれるけれど、それまでは眼と毛の色で呼ばれる。
でも、聞いたことがあった。
番だけが、睦言の中でその呼び名を使うのだと。
運命の繋がった番にそう呼ばれると、とても幸せなのだと。なのに……
────なんで、ベータ が
そう呼ぶんだ、と聞きたかった。が、できなかった。
全身が細かく震え、喉は潰れたように凍り付いて、声なんて出ない。
窓は閉まっている。部屋の明かりも点いてない。
けれど窓越しだろうが、呻くように低い声は耳のすぐそばで囁かれているかのようだった。じっとこちらを見て、微動だにしていないベータの臭いもハッキリ分かる。背筋がゾクゾクして、逆立った体毛がふるふる震える。
月齢の満ちた人狼の耳や鼻にとって、壁や窓の硝子などなんの障害にもならない。だけどこれは異常だ。圧倒的な力の差。怖れが身の奥から湧きあがる。
全身から汗が滲んでいる。ゾクゾクが、震えが、止まらない。
ここまで近寄ったことなんて無かった。だからこいつ の匂いが、こんなに濃密だったなんて知らなかった。
「入ってこい」
絶対に無理だ。窓越しでこんな状態なのに、これ以上近づいたら自分がどうなるか分からない。無理だ、絶対に────無理。無理。
怖い。怖い。怖い。無理。怖い。無理。無理。無理!
「入ってこい、蒼の雪灰」
幼い頃から怖かったけど、ここまでじゃなかった。ここまで怖くなかった。これ以上近づいたら狂ってしまいそう。
自分が自分じゃ無くなって、本能だけに……ダメだここは郷じゃない本能って───ひと族に紛れようと頑張ってそれが一瞬で無駄に───いや、じゃない、じゃなく──────
窓が破れ、鋭い爪もそのままの手が俺に伸びる。
本能で躱していた。
爪で窓枠につかまっていた俺の身体は壁から離れ、四つ足で地面に着地して、間を置かず走る。二階だったけど、その程度の高さ、なんでもない。
建物から離れ、別の建物へ飛びついて壁を伝い、木に足を掛け、屋根に上がった。そして走る。別の屋根に飛び、走り続ける。止まるなどできない。
さっき“あいつ ”、一瞬で窓まで移動した。早さも勝てそうにない。
屋根の上を飛ぶように走り抜けても、“あいつ ”の気配が追ってくる。
逃げろ! 捕まったら勝てっこない!!
逃げろ、怖い、逃げろ、怖い、逃げ切れ、怖い
あんな感覚はじめてだ。
身体が根底からひっくり返りそうな気がした。自分が自分じゃ無くなるような、根源的な恐怖で身が竦んで喉まで固まった。
走り続けていても、毛は逆立ったままだし汗も引かない。心臓は異常な程早く打ち、内蔵全部が溶けそうなほど熱くて足がもつれそう。けど必死に手足を動かす。
身体が熱くなって、気づいたら変化 していた。
満月でなければ変化できないはずなのに変わっていた。でもひと形よりこの方が早い。全身を使って走れる。
逃げなければという本能が身体を変えた?
それくらい、今は危険な状態ということ?
きっとそうなんだ。逃げなきゃいけないんだ。本能がそう言ってるんだ。あいつ は危険なんだ。俺にとって、とてつもなく危険なやつなんだ。なのに気配はどんどん近づいてくる。
必死で走っていたのに、いきなり倒れた。
追ってきていた気配は今、俺の上にある。
首の後ろを牙でガッシリつかまれ、屋根の上で倒されたのだ。
牙は甘噛みだったから首を振って逃げようとしたけど、爪を立てた前足が身体を押さえつけている。
つかまった。つかまってしまった。こいつ も変化したのだ。そうなったら群れでアルファの次に強い雄から逃れられるわけが無い。
でも嫌だ。いやだいやだ離せ!
俺のなにもかもを苛むゾクゾクする感覚が止まらない。変化したのに止まらないってどういうことだ。怖い、怖い怖い。牙から逃れようとジタバタと動くけれどまったく敵わない。どうなる? どうなってしまう?
ぐるる、と喉奥から響いた唸り。
甘噛みしたまま発された、威嚇するようなそれに身体の力が抜けた。それだけじゃない。身体全て、ピクリとも動かせなくなった。
なんだ、どうした? こいつ がなんかしたのか? やっぱりこいつは危ない奴なのか?
首元の甘噛みが無くなり、押さえつける前足から爪が無くなる。ひと形に戻った……?
「蒼の雪灰」
すぐ近くで、はあっと息を吐いたのが分かる。
「無茶をするな」
低い声は呆れたような響きを伴っていたけれど、変わらず俺をゾクゾクさせる。
「今の月齢で変化など、おまえにはまだ無理だ。力が入らんだろう」
そういえば。
成人してからも頑張れと、語り部 に言われたことがある。成人して訓練を積めば、満月じゃ無くても変化できるようになると教えられたときだ。
まだ成人前の俺は、もちろんまだそんな訓練はしてない、だからこの変化は無茶だったのか。というか、どうして変化したんだろう。必死で逃げていたから、なにが起こったのか覚えてない。
ともかくひげ一本動かせない。それに変化を解こうとしてもできない。狼の姿のまま、半端に開いた口からだらりと舌を出して、ぜえぜえ言ってる情けない状態で、こいつ のせいかゾクゾクする怖い感じもある。
今すぐ逃げたいのに身動き取れない、最悪だ。
「おとなしくしていろ」
身体が浮いた。こいつ に抱えられたのだ。
ちっ、と舌打ちの音が聞こえた。
「急に逃げるから、服が破れちまっただろうが。仕方ない、屋根の上を行くか」
動き始めた。ひと形なのに飛んで走る動きは滑らかで、俺を抱える逞しい腕は微動だにしない安定感。ゾクゾクは止まらないのに、妙に安心するような感じもする。これがベータの力なのか。アルファの意を受け、郷を、森を、治める者の力。
一瞬でもこいつに勝てるかもと思ったなんて、俺は馬鹿だ。
力が抜け、妙な安心を感じたからか、意識が遠のいていく。
まだゾクゾクしてるのに、もういいや、と思っている自分に呆れながら、意識は闇に落ちた。
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