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14.アグネッサ

 風が、騒いでいる。  羊の毛を詰め込んだ柔らかな寝台で、レディ・アグネッサは、ぱちりと目を開いた。 「……賑やかだこと」  温みに埋めていた身を起こす。  幼い頃から風を感じていた。  今までずいぶん助けられた風の力だけれど、あの子が来てから賑やかになって、力が強まっていた。けれど今夜は特別に…… 「いったい何が……あら」  窓の向こう。気配が動いた。  寝台を降り、明かりもつけずに真っ直ぐ窓に向かい、開く。  バルコニーに、蹲る影。荒い息。  ふっと笑みが漏れる。 「おまえたちは本当に、この子が好きなのね」  月明かりの中、ゆっくりと顔が上がる。青みがかった銀色の髪。いつもより深い蒼の瞳。歯を食いしばるような表情。 「こんな時間に、窓から?」  息を荒げたまま小さく頷き、いつも従う時のようにスッと立った彼は、全裸だった。  裸を見るのは初めて。  白く滑らかな肌。手足が長い。腰の位置は高く、しなやかに筋肉の発達した体躯。銀髪が月光を受けて冷たい輝きを帯びている。  ──────美しい。  けれど……下腹にあるものが勃ち上がっている。先端は塗れているよう。 「夜這いってことかしら? 私を襲うつもり?」  まさかこの子が?  一瞬、ときめいてしまったけれど、彼は気怠そうに首を振った。 「発情、……してる。けど……」  荒い息の合間に声を漏らし、はあ、と深い息を吐き出す。 「あんたに、じゃない、から」 「……それはそれで、失礼な話ね」  アグネッサは笑んで、部屋へ戻る。 「お入り。私が風邪を引くわ。……窓を閉めて」  ついてきた全裸の彼は、しっかりと窓を閉じてこちらを見た。片手を上げてクローゼットを示す。 「ローブかなにかあるでしょう。見苦しいものを隠して」  辛そうに息を荒げつつも、命じた通り、素直に動く様子に、アグネッサは頬に満足の笑みを刻む。 「思い出したの?」 「……ああ、うん。……そう」  最初に逢った時、近いものを感じた。もしかして待っていた相手かと思い、少しときめいた。  孤独から導き、安息をくれる相手。  ずっと探していたそんな存在なのかと。  けれど、すぐに分かった。  この子は自分に興味が無い。愛を語らうことはできないだろう。  しかし風が囁いたのだ。そばに置くのは良いよ、と。  普通の子では無いと分かっていた。いずれ出て行くのだろうということも。それまでの間、(しもべ)として可愛がってやろうと、雇い入れることにした。  アグネッサは、あのとき風の囁きに従った自分を誇りに思う。彼はとても素直で可愛い、本当に良い子だった。  深い蒼のローブを裸身に纏った彼は、いつも通り、背筋の伸びた美しい姿勢で立ち、怠そうではありながら、正しい所作で礼をした。 「行くのね」 「……世話になった、から。挨拶……」  言葉を継ぎながら深呼吸をする様子に、アグネッサは鷹揚な笑みを返す。 「そう。本当に良い子」  どこの誰なのか思い出したなら、いるべき所へ戻るのだろうと分かっていた。 「ずっといて欲しかったけれど、思い出したら言うように命じたものね」  そのとき言いやすいように。  思いのほか早かったけれど、引き留めようとは思わない。  ゆえにベッド脇のチェストへと足を向け、その時にと用意しておいた錦織の小袋を引き出しから取り出して指先に下げ、腕を伸ばす。 「……持ってお行きなさい」  問う目を向けられ、アグネッサは艶然と笑む。 「お金よ。これくらいあれば、しばらくは何とでもなるでしょう」 「……でも、……」  荒い息を吐きながら戸惑う彼の、銀色のまつげが震え、いつもより輝きの深い蒼の瞳に影を落とす。  美しい子。素直な子。 「なにもしていないと言いたいのね?」  窺うような眼で、それでも問いには頷く。本当に愛らしい。アグネッサは笑みを深めた。 「そうね、あなたは私が命じたことをしていただけ。しっかりと仕事をしただけ」  人間は慣れる生き物。  最初は純粋に頑張ろうと働いていた者も、やがて環境に慣れると、いかに楽をして過ごせるか考え始める。この屋敷で働く者たちも、多かれ少なかれそんな慣れが出ていた。ここで働いているというだけで、自分が偉くなったと勘違いする者も。  けれど彼が来て、変わった。 「私はとても助かったの。受け取りなさい」  彼は目を伏せて顎を引くと、スッと近づき、小袋を受け取った。  彼は黙々と働いた。  言葉少なに、けれど愚直なほど誠実に、命じた通り。  これだけの容姿に驕ること無く、病や境遇に気を落とすことも無く。多くの人が抗えないだろう誘惑を受けても見向きもせずに。  風が教えてくれるのだ。  金を提示して、あるいは暴力を匂わせて、屋敷へ手引きするよう言われていたことも。目障りだ出て行けと脅しを受けていたことも。女性から幾度も甘い誘惑を受けていたことにも気づいている。  けれど彼はまったく動じず、たいていはするりと躱し、ときに暴力でねじ伏せて、淡々と働くことを選んだ。  なにも無かったような顔をして、きちんと仕事をこなした。それは期待した以上に。  アグネッサは、そんな彼に目をかけた。  食事も住まいも彼の望むように、彼が好きなようにできるるよう命じて手を回し、自由を許した。  今までそんな風に目を掛けた者などいなかった。ゆえに周囲がそれをどう見るか分かっていたけれど、あえてそうした。  初めは彼を煙たがっていた者たちが、やがて彼に倣うようになった。  真面目に仕事をする者が増えたのだ。変な勘違いをしていた子もおとなしくなった。気付くと屋敷の雰囲気はすっかり変わって、心地良い風が漂うようになっていた。  そしてなぜか、ゲイル卿もうるさくなくなった。 「思い出した名前を聞いても?」  彼はゆっくりと首を振る。 「そう。……ではルーカス。私がおまえに与えたものは、すべておまえのものよ。そのローブもね。どれでも好きなだけ持って行くことを許します」  小さく頷いたルーカスの美しい銀髪に手を伸ばし、撫でる。 「大好きだったわ。元気で」  ルーカスはローブを纏ったまま、きれいに礼をして寝室から出て行った。  ドアが閉じるまでそれを見送ったアグネッサは、目を細めて窓ごしの夜空へ視線を向ける。 「もの知らぬ幼子のよう。無垢で美しい子」  風に語りかけるように呟く。 「愛しい者と出会えると良いけれど」  名残惜しむように風が騒いだ。アグネッサは歌を口ずさむ。  寂しくはないと、宥めるように。

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