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15.声

 郷にいた頃着ていた服とウサギのベスト、すっかり膠が落ちていたブーツは、館の職人が綺麗に直してくれたから、それも。  そしてアグネッサから貰った服をいくつか持って、俺は鉱山へ向かった。  そこにはたくさんのひと族がいる。しかも男が多いと聞いていた。その方が紛れ込みやすいと考えたのだ。馬車で一週間と二日かかると聞いたけれど、満月が近いし問題無い。  夜走り、ひと族の眼がある昼は歩く。この時期なら、あまり疲れは感じないはず。なのにいつもとはぜんぜん違う。  疲れはしない。けど怠い。なにもかもうまくできない。  全身が熱を持ってる。汗がダラダラ流れ続ける。この月齢なら飲まず食わずでもある程度行けるはずなのに全然無理。ひどく腹が減ったけれど、狩りなどできそうも無い。  感覚が抑えられないんだ。  その状態で今の月齢で、ひと族の傍はきつかった。けれど村に立ち寄り食料を求めた。そのとき鉱山から帰ってきたという男に話を聞いて驚いた。鉱山(そこ)は、ひと族ですら臭いと思うのだという。  なんてことだ。そんなとこで暮らせるわけが無い。絶対に無理だ。  俺は行く先を変えた。  もっと遠いけれど、王都と呼ばれるところがある。とても美しい所だと聞いた。そこなら臭くない場所があるはず。それに鉱山よりもっとたくさんの人がいるという。  そこでこれから暮らすんだ。  だってもう、郷には戻れない。  ベータの言う通りなら、郷に戻ったら俺はオメガになってしまう。それはアルファと番うって事だ。それだけはダメだ。絶対に嫌だ。  そうとしか思えないのに、ずっと胸がモヤモヤしてる。だって郷に戻らないってことは、もうベータと逢えないってことだ。  ベータの気配は感じない。追ってきてはいない。なのに…… 『蒼の雪灰』  あの声がずっと俺を呼んでる、ような気がする。  耳に響くんじゃ無い。身体の奥から滲み上がるみたいに声が響いてくる感じで、心臓がドキドキして汗が噴き出す。  声に応えたい。怠いこの身体を、ベータが抱き締めてくれたら、きっと楽になるのにって思う。なぜかは分からないけど、きっとそうなる。  けどベータがどこにいるか分からない。  ……逢いたい。  あんなに怖かった。近寄らないように気を付けていた。  なのに今は逢いたい。逢いたくてたまらない。  これってやっぱり、俺の番がベータ、そういうことなんじゃないか。  そんな気がする。すごくする。  けど番がそばにいるなら、存在を感じないなんてありえないはず。なのに声だけ聞こえて、気配も匂いも感じないなんて変だ。  ゲイルの屋敷に行ったときだって、あれがベータだって確信は無かった。どっちにしろ戦うしか無いと思ったから行ったんだ。  ……ということは、やっぱり俺の番はベータじゃないんだろうか。  でも────  ベータの部屋で、ふくれあがる存在感を感じ取ったあのときから、俺はおかしい。おかしくなってる。  あの時は……わけ分からないまま、よく分からないことになって……あれは、ベータがいたからじゃないのか? ベータが番だから、あんなことになったんじゃないのか?  それとも俺がオメガだから? そうなんだろうか。  ────分からない。  俺はまだ成人前で、成人の儀もまだで、郷のことを学んでない。  シグマは色々教えてくれたけど、オメガについてはアルファの番で雄なのに仔を産めるってことしか知らない。  俺はやっぱり、ベータが言う通りオメガなのか?  オメガってことは、仔を産めるってことだ。今の俺は違うよな。……郷に戻ると、変わるんだろうか。  どこが変わる? どう変わる? 身体が熱くなる? この間みたいに?  それとも、成人の儀を超えたみんなみたいになるのか?  冬になると行われる、子狼の頃から憧れていた、あの儀式。  ついこの間まで転げて遊んでいたやつらが、儀式から戻ると途端に見違えた。成獣としての気配と匂いを身につけ、とても立派になってるんだ。  序列が決まるとそうなるんだなぁって、なんとなく思ってた。けど……それだけじゃないんだ、きっと。  なにかを学ぶんだ。だからあんなに違うんだ。成獣(おとな)に……変わるんだ。  ────俺は郷に戻れない。  ────成獣になるのに必要なことを、知ることができない。  胸の中がモヤモヤする。  そうでなくても身体は熱を持って、ひどく怠い。  一日中走るなんて無理。夜の間は休めばいい。  ……でも、夜じっとしてると、しつこく響くんだ。 『蒼の雪灰』  少し掠れた、低い声。  耳に響くんじゃない、身体の奥から滲み上がるみたいに響いてくる。  銅色の(こわ)い髪の感触、熱かった肌や、匂いや、……色々思い出しそうになる、あの時みたいに身体が────だから夜は歩いた。  俺は変だ。  慣れてるはずなのに、うまく感覚を閉じられない。  身体の自由が効かないなんて、あの時あいつに呪いでも掛けられたのか。精霊師(ガンマ)でもないのに、そんなことができるのか。  それとも人狼の本能が、能力が、衰え始めてるのか。 『蒼の雪灰』  ────聞こえる。聞こえ続ける。  こんなの、普通じゃ無いよな? これで番じゃない? 『蒼の雪灰』  もう全然分からない。それとも俺は、狂ってるのかな。身体だけじゃなく心も、頭も、おかしくなったのかな。 『蒼の雪灰』  こんなんで郷に戻るなんて、絶対無理。  ────ああ。  ……ちゃんと成獣(おとな)になりたかったなあ……  王都は遠い。  一気に走り抜けるような距離じゃ無い。それでも、もっと早く着けると思っていた。そのはずだった。  けれどできなかった。  身体は怠いまま。すぐ疲れるし喉がひどく渇く。腹も減る。満月になっても変化(へんげ)しない。  胸の奥のモヤモヤのせいか。それとも…… 『蒼の雪灰』  あの声がずっと追ってきている、からなのか。  ベータから逃れてからずっと、気配は感じないのに、声だけが追ってくる。  閉じられないからひと族のいるところは辛い。なのに王都に近づけば近づくほど畑や家が増える。どこにでもひと族がいる。  ひと族が集まるとすぐ臭くなる。畑のあるところはそんなに臭くないけれど、街道にはひと族がたくさん。 『蒼の雪灰』  聞こえ続ける。  気配も無いのに、追ってきてるわけないのに、すぐ後ろで言われてるみたいに。  耳に聞こえるんじゃない。  身体の一番深いところに刻印されて、そこから湧いてくるみたい。いや背中から追ってくるみたいでもある、けど……分からない。どういうことか分からない。  けど嫌じゃない。 『蒼の雪灰』  ベータの響きが湧いてくるたびに、身体の自由が奪われていくような気もするのに、思うようにできない身体には焦れるのに、嫌じゃない。  また聞きたいと思ってしまう。 『蒼の雪灰』  近くに来てくれないかと思ってしまう。  触れたいと、匂いたいと思ってしまう。  そう思うと身体が熱くなる。気づいたら発情してる。 『蒼の雪灰』  ひと族のいない畑の脇の森で、小さな村で一晩だけ借りた小屋で 『蒼の雪灰』  俺はあの夜みたいに────── 「あっ、……ああ……」  あの夜ベータの手がしたみたいに、熱を持って昂ぶるものを擦った。  でもうまくできない。 『蒼の雪灰』  自分の手で擦っても、ベータの手の真似をしても、あの時みたいにはならない。 『蒼の雪灰』  なんとか精を吐き出しても、身体の熱は収まらない。  俺はずっと、おかしい。  新月になって、声があまり聞こえなくなってきた。感覚を閉じることもできるようになった。  すっかり疲れ果ててた。  狩りは無理だし食欲は無い。カネはあったから、少し大きな町で宿を取った。  食事をもらったけど殆ど残し、貰った湯で久しぶりに身体を拭き、寝台に転がって。  ────すぐに寝てしまった。  ベータが笑んでいる。  金色の瞳を細め、優しい笑みで俺を見てる。  胸が熱いもので満たされる。走り寄って抱きしめたい、あの匂いに包まれたい、けどできない。  苦しそうに声を軋ませ、ベータが言うから。 『次のオメガはおまえだ』  熱が一気に下がる。駆け寄ろうとしていた足が止まる。  鼻も耳も、拒絶するみたいに閉じる。ベータを感じなくなる。悲しくて悲しくて──────  目が覚めた。  グスグスと鼻が鳴る。涙も止まらない。俺は寝台の上でボロボロ泣いてた。  夢を見たんだ。悲しい夢を。 「……もう、なんなんだよ……」  夢なのに、ただの夢なのに、胸が押し潰されるみたい。苦しい。苦しい。苦しい…… 「……逢いたい……」  もう自分が分からない。  前は逃げるんだと、それだけ思ってた。アルファが死ぬまで身を隠して、いずれ郷に戻ろうって。許されないんじゃって思っただけで、ものすごく不安になった。俺だってアルファに逆らいたくなんてないよ、とか……けど、今は違う。  逃げたいのかどうか分からない。  アルファと番うのは絶対に嫌だ。けどベータに逢いたい。ベータの声を聞きたい。ベータに触って欲しい、ベータに触りたい。群れに戻れなくてもいい。どこでもいい。ベータがいたら、それだけでいい。ただベータのそばにいたい、ベータの所に行きたい、……それしか無くなってる。  なのに俺、なんで逃げてるんだろう。  ベータが追ってくるなら、おとなしくつかまれば良いんじゃないか? そうしたら一緒にいられるんじゃないか? なんで逃げてるんだ?  でもベータの気配はしない。もう追ってくれない。  でもベータはアルファの命に従う。絶対に掟を守る。  敷布でぐしぐし涙を拭いたけど止まらない。  わけが分からない。俺もベータも、みんなおかしいだろ?  ぐしぐし泣いてたらノックの音がした。  鍵は掛けてない。 「どうぞ」  敷布で顔を覆ったまま、情けない震えた声だけ出した。  ドアが開いて、誰か入ってくる。 「なんだ? おまえ、泣いてんのか」  聞き覚えのある声に、顔を上げる。  そこに立ってたのは、郷の語り部(シグマ)だった。

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