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20.精霊師
木立の合間から光の落ちてくる小さな草むらで、荷車は止まった。
不思議な匂いがする。
土の匂い、草の匂い、木の匂い、そして水の匂い。キノコや木の実のおいしそうな匂い、蜜の多い花、お日様に照らされて乾いた草、虫、鳥、そんな小さな生き物たちの匂いも、いろんなものが強く香ってる。
それぞれが強く主張してるような、ぜんぶ混じってるような、初めて嗅ぐ、不思議な……だけど、ぜんぜん嫌な匂いじゃない。むしろホッとするような気配に包まれていく。少しだけ、身体が楽になっていくような感じもする。
草むらの片面はまっすぐに切り立った岩壁で、一面に蔦が垂れ下がってる。今通ってきた道の他に、もう一つ別の方向に道があるだけで、深い森に囲まれている。
岩壁に進んだシグマ・セカンドが蔦に手をかけて少し動かすと、蔦の合間から、ぽっかりとくちをあけてる洞穴が見えた。
「連れてきましたよ」
奥に向かって声を掛ける。
いらえは無く物音も聞こえないけれど、セカンドは片手で蔦をかき分けたまま。なにか待っているようだ。
少し経って音もなく出てきたのは、濃い灰色のローブを纏い、フードを深くおろした精霊師 。
身体は雌より小さい。少し見える肌は白く、毛も真っ白。でも頭頂から右耳にかけて一房だけが淡い青灰色だ。毛が伸ばしっぱなしで鼻から下しか見えないし、いつもこのローブを着ていて、祭事の時以外フードも脱がない。
ガンマは顔をこっちに向けた。長すぎる毛のせいで眼は見えないけど、確かに俺を見てると感じた。上げた手でふわっと招かれる。
誘われるように荷車から降りた拍子に身体がぶれた。自分で立ったのは久しぶりで、うまくいかない。
けど倒れなかった。セカンドが支えてくれたんだ。
「ありがとう」
礼を言って目を向けたけど、見えたのはニコリともしない横顔だけ。あれっきり、チラとも俺を見ようとしない。それでも手は背を支えてくれてた。
ガンマの前まで行くと、「……入って」微かな呟きが聞こえ、頷いて足を進める。
「えっ」
意外そうな声に目を向けると、ガンマが腕を伸ばし、セカンドを遮っていた。
「俺も行きますよ。こいつふらふらだし」
にっこりと言ったセカンドに、ガンマは黙って首を振る。セカンドは苦笑した。
「あ~、はいはい。ほら行けよ」
パッと手を離したついでに、ちょっと押すようにされてフラッとした。
脚に力を込めて、なんとか踏みとどまり、よし、と自分に小さく頷くと、ガンマがまた手招きしたので蔦の間を通る。
すると蔦が元通り洞穴を閉ざし、外からセカンドの溜息が聞こえた。
中は蔦越しの光だけの暗さになり、足音や衣擦れの微かな音も響く。岩壁に手を突きながら少し進むと、洞穴が広く開けた。
岩だ。
ひと族の教会みたいに天井が高く、手の届かない場所に明かり取りのようなものがいくつかあって、ほんのり明るい。
いびつな五角形のような形で、俺が借りてた部屋の三倍くらいの広さ。壁は磨かれたみたいに滑らかで、三面は書物や箱がぎっしり並んだ棚で覆われている。別面には水瓶や箱や簡単な竈。けど、竈にも水瓶の上にも物が積んである。あまり使われていないようだ。
中央には作業台のような大きめのテーブルと椅子が三脚。台の上にもさまざまなものが乱雑に積み上げられていて、端っこにカップがひとつ、置いてあった。
棚のない壁際に乾いた草を盛った寝床が二つある。人狼の寝床はひと族の寝台と違う。乾いた良い香りの草を盛って、草が散らない為の枠を置く。眠るときはその中に潜り込んだり、上に寝っ転がったりする。
ガンマは台の端にあったカップを取って、ひとくち飲み、「は」と息を吐きながら、ローブのフードを落とし、煩わしそうに毛をかき上げる。
初めてガンマの顔を見た。
子狼はみんな、ガンマがどんな顔してるのか知りたくて、色々聞いたけど、見たことがあるって者はいなくて、みんなで想像していた。
小さいから、子供みたいな顔なんじゃないか。雌みたいな顔なんじゃないか。鼻と口はキレイに見えるけど、隠れてるトコはすごく怖い顔なんじゃないか。
でも実際は───
───生きてるものじゃないみたいに綺麗だった。
だけど雌みたいじゃない。
小作りの鼻と唇。すごく若い。子狼と言われてもおかしくないくらい、
毛の一房と同じ色の淡い青灰色のまつげが、上等な玻璃みたいな薄い灰色の瞳に濃く影を落として、明かり取りから落ちた光を受けてキラキラと俺を見つめてる。肌も透きとおるように白くて、すごくよくできた作り物みたいだ。
ガンマは面倒くさそうに寝床を示し「横になって」と囁いた。
「寝て」
「あ……はい」
囁くような声で言われ、よろよろしながら寝床にのっかって、はあっと息を吐いた。
ここに入ってから、なぜだがベータの声が遠くなってる。少し楽になってる気がする。
手を下ろし、ばさっとガンマの毛が落ちる。
「気に、するな」
「えっ?」
顔が見えなくなり、目の前にカップが突き出された。
「ああいうの、は、……いる」
受け取ったカップは、さっきガンマが飲んでたやつだ。飲みかけ? と見上げながら聞いた。
「ああいうの?」
「シグマ、……イプシロン。……小賢しいやつ」
ふうっと息を吐いて、「飲んで」言いながらガンマは椅子を一脚引きずってくる。
「ああ、はい」
言われた通り、カップにくちをつける。冷えた液体は少し甘い。喉を通ると、胸がスッとした。
「うわ……これ、なに?」
マジマジとカップの中を見る。水じゃないけど透きとおってて、スッキリするような不思議な匂いもする。
「精霊に貰った、……寝て」
「精霊に?」
ガンマはコクンと頷いて、ふうっと息を吐く。
「起きたら、……シグマが」
「シグマってあの? 表にいる、セカンド?」
あのひとはなんか嫌だなあと思いながら聞くと、ふるふると首を振り、「トップ」と言って俺からカップを奪い、ひとくち飲んだ。
「説明」
カップをこっちに寄越す。受け取って俺もひとくち飲む。
「……するから、……それまで、寝て」
「えーと、ガンマって喋るの苦手なの?」
「……大きい声……疲れ……」
「いや、じゅうぶん小さいけど?」
ふうっと息を吐いたガンマは、殆どくちを動かさずに「…………」なにか言った。
「え? 聞こえない」
ガンマは腰を上げ、ぐいっと近づいた。「うわ」思わずのけぞってカップの中身を零しながら寝床に倒れる。覆い被さってきたガンマは耳元にくちを近づけた。
「オメガは精霊の器」
呟くような声も、この位置で話されると聞こえた。
けどそんなことより──────
「え。アルファの番なんじゃないの?」
「そう。……けど、だけじゃない」
ククッと笑い、ペロリと耳を舐められた。
「うひゃ」
「今おまえの周りに精霊が集まってる。みんな面白がってる」
「面白がって?」
「おまえは面白い」
「おれ……?」
「ほら。面白がってる。分からない?」
確かにここの空気はちょっと違う。匂いが強くなったし、ほんの少し風が起こってるような感じもする。
「オメガは特別。精霊が認めないとダメ。おまえは認められた」
呟くような声が耳に響く。
「え、でも俺なにも……」
してない、と言おうとして言えなかった。ガンマが耳をぺろぺろ舐めるからだ。息を呑んで声が途切れる。
「おまえじゃない。精霊の話」
精霊って郷を守るものだろ? 俺は郷を逃げ出したわけだし、精霊は怒ってるんじゃないのか?
「おまえが面白いんだと」
耳にフフッと息がかかり、ビクビクッとしてしまう。
でもさっき飲んだ、あの飲み物のせいか、頭がハッキリしてきた。
そして、おかしい、と考える。
アルファが決まった時、その番がオメガになる。そうすると、なぜか仔を産めるようになる。
オメガの産む仔は強い。あくまでアルファの番で、強い仔を残すための存在。
俺たちはそう教わってる。
「アルファなんて誰がやっても良い。オメガは違う」
「いやそれは逆だろ。……だってアルファは群れで一番強い……」
「ケンカ強いだけ」
いやいや違う、違うだろ。強く賢いアルファには、なにか不思議な力があって、だからみんな従うんだろ?
でもあのときベータ言ってなかったか?
『精霊の祝福を受ける』
とか……でもあのときは『郷の宝』とか言われた方がショックで色々分かんなくなってて、あんまり考えられなかったけど、それって……教わってたことと違う……よな?
「バカでも誰でも、アルファになれる」
え、そういうこと?
混乱していたら、また耳を舐められ、ビクッとした。
「うまい。おまえ、うまい」
呟きながら時々笑い、ガンマは耳をピチャピチャ舐めた。まずい。
「ちょ、やめて」
ベータの声が遠くなって少し楽になってるのに、こんなされたら俺また──────
「やめって……」
「発情しない」
フフッと息がかかる。
「俺で発情しない」
「そ、んな、分かんないじゃ……だって俺今変だし……」
「……試す?」
「なに」
ガンマの手が俺の股間に伸びる。「ちょっ」声あげてもお構いなしにそこを撫でる。
「……あれ」
なにも感じない。
ガンマの手は股間を撫でた後グリグリしてギュッとしてさわさわしてるのに、なにもまったく反応しない。ベータが触ったら背筋がビリビリして、色々止まんなくなったのに……
「番以外に発情しない。俺たちはそうできてる」
え。
じゃあ俺がオメガになっても、アルファと番うのってできないってこと? でもオメガは強い子を産む。そのために必要だって……じゃ、じゃあオメガになったらアルファと子作りできるようになるってこと? そういうことなのか?
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