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23.やるべきこと
「まず。おまえが辛くなったのは、ベータと接触したからだ」
やっぱり。
そう、なんだろうな。それは分かってた。だって……
おかしくなったのはベータに触れてから。
あの匂いを間近で嗅いでから。
「おまえとベータの運命は繋がってる」
……そうか。
やっぱりそれで間違いないんだ。うん。
ベータ……俺の運命。
心臓がドキンと一打ちした。
俺の、────番。
手が無意識に胸を抑える。ドキドキが止まらない。
こんなのって、子狼の頃抱き締められた、あの時以来……ああ、あれもベータだった。……うん、そうか。
あのときから、運命は繋がっていた────
「ただ、まだ少し早いんだってさ。なにがってのは俺も分からん。ガンマがそう言ったんだ。オメガのことはガンマが一番詳しい、ていうか他の奴はなんも知らないってくらいで。ともかく、そのせいで辛くなっちまってるわけだからベータは今、他郷に行かせてる。おまえの体調のために」
「えっ」
嫌な汗が背にドッと噴き出す。
「そんな、俺のせいでベータが……」
郷にいられなくなる……なんて、そんなのダメだ。
誰より強い、誰もが次のアルファだと噂する、そんなベータが、俺のせいで……
「心配すんな、暫くしたら戻ってくるよ」
「……そ、……うなんだ……」
だよな、ベータは郷に必要だ。追い出すなんて、ないよな。ものすごくホッとした。
「おまえはいきなりで戸惑うよな。けどベータの方は、ずいぶん前から分かってたんだよ」
「分かってたって……」
「おまえが番だって、分かってたんだ」
「は? …………い、……いつから……」
だって俺のこと嫌ってただろ?
他の子狼はかまうのに、俺のことは見ようともしなかったし、近づきもしなかったし……なのに気づくと睨まれてた。
俺のことは嫌って、避けてたんだろ?
「十五のとき、ベータはおまえを強く意識した。突然だった上に強烈で、あいつは衝動に負けた。まだ八才だったおまえを抱き上げて、ほおずりして噛みついて、泣きわめこうが離そうとしなかった。俺たちで引っぺがしたけどね」
真剣な目で見上げてくるシグマに、首を縦に動かした。そのときのことは良く覚えてる。俺だってすごくゾクゾクして、ものすごく怖かった。
「あん時あいつ、おまえを食ってしまいたいと思っちまったんだと。全ての欲が集約しちまったんだろうな。けどさ、おまえにしたらひたすらおっかないよな。けどまあ、勘弁してやってくれないか。まだ十五だったんだ。あいつも少し落ち着いたら後悔してた」
あれが、番だっていうビビッと来る感じだなんて知らなかったし、ものすごく怖くて、ベータに近づくのが嫌になった。ずっと避けてたけれど。
十五だったベータが、あの夜の俺みたいになったんだとしたら……。それなら普通じゃ無かったのかもって、今ならそう思える。
「あのとき、俺たちは師、オメガに、おまえの親に相談したんだ。郷で唯一の元シグマだったし、あいつになにが起こったのか、みんな分からなかったからね」
「え、でも俺も……」
「うん、おまえも来たって聞いたよ。あの頃の師は子狼の癒し担当だったからな。俺たちはおまえが帰ってからベータを引きずってったんだ」
そうだったんだ。知らなかった。
なんとなく、実ってるのを新たにもいで落としてやる。
「おっ」
受け取ったシグマは、いつもの顔でヘラッと笑う。
「師は怒ってたよ。ものすごく怖い顔してさ、ガンマに伝えたら、ガンマはもっと怒って、なんか言われたらしい。あいつすっかりしょげて、しばらく狩りごっこにも走りっこにも来なかった」
シグマは懐かしい顔になってる。もっと楽しそうな、子狼たちに悪戯する時みたいな顔に。
「それからベータはなるべく近づかないようにしてた。ぜんぜん納得してない、奥歯噛みしめてる顔でね。そしておまえのことを遠くから見てた。なのにおまえの方はベータに近づこうとしなくなっただろ? あいつ落ちてたよ。嫌われたんだろうか、なんてさ、めちゃくちゃ泣き言こぼして。面白かった」
「泣き言?」
「そう! いやハッキリ言おう、あれはほんとに泣いてた! いやそりゃ気持ちは分かるよ? 経験無いけど俺だって、番に嫌われたら泣きそうになるのはまあ、そうなんだろうなって思うよ? けどさ、考えてみろ、あのベータがだよ?」
シグマは腹を抱えてゲラゲラ笑ってる。俺も想像して顔がニマニマと緩む。
この間初めて間近で見たベータ。金に輝く瞳、浅黒い肌、太い鼻柱、しっかりとした顎には髭が……見てるだけでドキドキするくらい男らしく……いやそうじゃなく泣きそう、いや泣いてたって……
「なのに物凄い早さでまばたきして誤魔化そうとしてるんだよ! 誤魔化されるわけねえだろ!? もう笑うしかないって!!」
プッと吹き出す。
なにそれ、必死にまばたきってすっごい可愛いよな!! うわ見たい!
でももう十五じゃないし、そんなのやんないかな? でも見てみたいなあ!!
「おい、もう一個くれよ」
「くくっ、ねえ、他には無いの」
「ベータの笑える話ならいっぱいあるぞー」
「ほんとに? 聞きたい聞きたい」
ワクワクしながら良く実っている実を選んで両手に持ち、枝から飛び降りて、一個渡す。
「はい」
「お、良く実ってるな」
シグマは嬉しそうに笑ってかぶりつく。
「甘い。こっちはちょっと若かったけど、若い実の歯触りも好きだよ」
さっきの実とかわりばんこにかぶりついてウンウンと頷いてる。
「ねえ、もっと話してよ、教えてよ、ベータのこと」
「おう、いいとも」
若い方の実を食べて種を捨てたシグマは、まだ汁のついてる手を俺の頭にポンと乗せた。そのままグシャグシャと撫でられ、「ちょっと」手を払う。毛がちょっとベタッとしていた。
「手を舐めてからにしろよ」
「いいじゃないか。毛艶が良くなるかも」
「そんなの聞いたことない、あ、やめろって」
シグマがまた毛をグシャグシャにするので、手を掴んで止める。
「やっと笑ったな」
え、と顔を見る。俺より少し背の低いシグマは、妙に優しい顔をしていた。
「わけ分からず混乱してたのに、すぐ来れなくてごめんな? 一応ガンマに頼んだけど」
「……ガンマは、あんたが来たら説明するって、それだけ。あとは精霊のこと」
「ま、そうなるよな。ガンマだし」
頭グシャグシャされ続けてるけど、嫌ではない。
ニヤニヤしてるシグマの後ろには、たくさんの恵みを纏わせた森がある。赤や黄に色づいた葉が地に落ち、香しい匂いに満ちた森。
郷を出たのは雪解けしてすぐくらい、緑が芽吹き始めた頃だった。郷には土の匂いがして、若葉と花の匂いもし始めていた。
今は実りの季節も終わりに近い。
こんなに季節が変わる間、郷を離れていたんだ。
木の実や果実を味わう度に思ってしまう。この半年ほどで、俺は変わってしまった。ひと族の“自由”を知り、人狼には合わないと分かった。ひと族とは相容れないっていう意味も、なんとなく分かった。
それにあれから、ベータの手で……ああなってから、ずっとモヤモヤしてる。
ここでガンマと二人、身体は落ち着いたけど、分からないことは分からないまんま。ガンマは精霊のことしか話さない。
「ガンマは発情の話が嫌いなんだ。神聖なことなのにな」
肩をすくめ、シグマが言った。
「だから発情についてだけでも早く教えた方がイイと思ってはいたんだけどさ、あのときはおまえがすごく辛そうだったからな。説明もなにも後だと思って、狩り たちに任せた」
「うん……先輩たち と一緒にいて、少し落ち着いた。薬のおかげかも、だけど」
「あいつらはお気楽で、つとめ以外のことは考えないからな。それにおまえが仕事を教わってた連中だから、気が楽だっただろ」
そうか。
なにも説明無く放り出されたように思ってたけど……そういうことか。
考えてくれたんだ、俺のこと。
「それで、ベータの笑える話だっけ? それともオメガのこと聞きたいか?」
「え……」
どうしよう、どっちも聞きたい。
分からないことだらけで、でもベータのことも聞きたい。
ああ、ベータに逢いたいなあ……
「ああ、そういう顔するんだよなあ、番持ちって」
ヘラッと笑うシグマを見返す。そうだ、シグマに番はいないんだった。
「……あんたは番を探さないのか」
俺たちは真剣に番を探す。成人して序列を受けてから番探しの旅に出る者も多い。他郷では独り身で過ごす方が多いらしいけど、うちの郷では、番探しの旅ならすぐ許可される。子狼を増やしたいのもあるんだと思う。
「う~ん、それより先にやることが多くてな」
「先にやること?」
「この郷を、ちゃんとした郷に戻す」
にっこりとシグマは言う。
「ベータも、イプシロンも、ルウもカッパも、フィーや雌たちだって、みんな自分の役目をしっかりとこなしてる。俺もやらなきゃだろ? そのためにやることはたくさんある。ありすぎてぜんぜん終わらない」
笑み細めた緑の目が熟れた実に落ちる。シグマはかぷっと実にかぶりついて、もぐもぐとくちを動かしながら続けた。
「シグマのつとめは知恵と知識を郷のために役立てること。俺はシグマになってまず、郷に残っていた書物を全て読んだ。オメガにシグマとしての知識を教わった。他郷へ行って教えを請うこともした。ひと里に行ってひと族の神や王や貴族と呼ばれるやつらのことも学んだ。やれることはぜんぶやらなきゃだろ? 今の郷が正しい状態じゃないなら正しい郷に戻す。俺たちの世代で足りなければ、次の世代に託す。託せるように整えておく。それが終わらないうちは、番探しに出るなんてできないよ」
「でもそれじゃ……あんたはいつまでも番に逢えない……」
「かもしれないね。まあ、それはしょうがないだろうな」
自分のことより郷のこと。
そうか、俺だけじゃないんだ。
……郷のために。やるべきことを、やる。
…………そうか。
「俺……オメガなんだよな? 精霊に好かれるから……それはもう、動かないんだよな?」
ぽろっと言葉が零れた。
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