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26.精霊
ガンマの洞窟に戻ると、果物や木の実が置いてあって、新しいパンも増えてた。水瓶には汲みたての水が満たされてる。
あの不思議な水も瓶に満たしてあるらしく、ガンマは早速コップに入れて飲んでた。
「なあ、これ、どうしたの」
「…………」
面倒くさそうに少しだけ顔を上げ、くちを小さく動かして、またカップに口を付ける。
そばまで行って、もう一度同じ事を聞くと「……シグマ」近くに来て耳を澄ませて初めて、ようやく聞こえるような声で答えた。
「シグマが持って来てくれたのか。今までもそうなの?」
コクンと頷くと、またひとくちコップから飲んで、ふう、と息を吐いてる。
ていうことは、ガンマの世話はシグマたちがしてるってことなのかな。
確かシグマはトップとセカンドの二人だけのはず。トップは俺と一緒にいたから、持って来たのはセカンドかな。
今まで寝たり起きたりだったし、気づいたらこんな風にパンや果実が増えてたけど、ガンマって食事はどうしてたんだろ。絶対自分で木の実を取りに行ったりしないよな。まして料理なんて絶対やらない。竈も使ってなかったし。
「じゃあ今日は新しいパン食べる? 果物と一緒に、あの飲み物も」
声を低めて語りかけると、頭が少し動く。半分寝ながらだけど、頷いてる。
俺はシグマの真っ白な髪をそっと撫でた。くちもとが少し笑みの形になってる。
可愛いな。ちっちゃな子狼みたい。
けど多分ずっと年上なんだ。
なぜって、俺の親が子狼だった頃のことを知ってたから。
すぐ疲れるのは、老いているから、なのかも知れない。
親が幼い頃、オメガの素質のある子狼は二匹いた。もう一匹は失われたアルファのオメガになり、親は番無しとして過ごしていたんだと教えてくれた。
今のアルファと番うって、親にとって辛いことばかりだと思ってたけど、番と共に過ごせたって事ならそうとばかりは言えないかも、と思った。
俺の体調が戻ってきて、ガンマは色々教えてくれるようになった。主に精霊のことだけど。
精霊とは。
風や水や火のように世界の理より生み出されたもの。
木や草や花といった大地の恵みを受けるもの。
虫や子供や小鳥のような小さな生き物とか、そんなあらゆるものに宿る意志。
……みたいなもの、らしい。
ガンマは『産まれたばかり、汚れない意志』と言った。
だから精霊は『こうしたい』と思ったらやるし、『ここにいたい』と思ったらいるし、『こいつ好き』と思ったらまとわりつく。やりたくないことは絶対にやらないけど、森を治める人狼 も森の一部だから大切に思ってて、大好きなんだ。
けど逆に、何かのきっかけで『嫌い』と思ったら絶対に近づかなくなる。
里が衰えたり森が枯れたりするのは、精霊がそこを嫌いになるからだと聞いた。
気に入ってる誰かにくっついたまま、郷や森の精霊が外に出ることはある。けど木や草や、産まれた元のものとかに元気が無いと消えちゃう。
だから、ひと里にはほとんどいないんだけど、全くいないわけじゃない。
森や山から吹く風には風の精霊が宿ってるし、水辺があれば水の精霊がいる。水は流れるし風も吹き抜けるから、ずっとその場に留まってはいないけど、気に入るとしばらく漂ってることもある。
町にいたとき、川縁にいたら少し楽になったと言ったら「きっと、いた」と頷いてた。
そしてひと族の中にも、たまに人狼っぽいのがいるらしい。
精霊がそういうのを気に入って、近くに居続けることもあるんだって。
それで思い出したのはアグネッサだ。
あの館は、ひと里の中でいちばん居心地が良かったし、アグネッサは他のひと族とちょっと違う感じがした。
それに、俺が借りてた部屋も楽に過ごせた。
あそこにも精霊がいたのかな。俺のこと気に入った奴が、ひと族の町にいたってことかな。
「珍しいの、連れて帰ってきてる。どっかの精霊がおまえにくっついてる」
ガンマはそう言って、嬉しそうに笑んでいた。もしかしたら町にいた精霊なのかな。珍しいって、どんな精霊なんだろ。
オメガになると郷から出られなくなるって、シグマは言ってた。
間違いでは無いけれど少し違うと、ガンマは言った。
オメガは精霊と離れると辛くなる。ただ、全てのオメガがそうだというわけじゃない。
「前にいた。身体、強いの」
強いってどういう事か聞いたけど、分からないらしい。
オメガは身体を保つのに精霊の助けが必要だから、精霊がいないと弱るはずなんだって。なのに前、何日も郷を離れても大丈夫だったのがいたとか。
ガンマは棚にあるたくさんの書物を読めと命じた。
シグマも全て読んだと言ってたそれは、どれも代々のガンマやオメガが書いたもので、前のオメガ、俺の親が書いたものもあった。ひと族の里についてのもので、親は王都まで行ったらしい。
起きてるときは片っ端から読んだんだけど、古いのは虫食いや滲みで読めないところがあったし、字にクセがあって読みにくいのもあって、ガンマに聞くと教えてくれた。
そうして知った事はたくさんあった。
変化は精霊が手伝って起こるもの。
成人の儀式を超え、アルファから番の印を受けると、オメガへの変化は完成し、少し経つと発情して孕めるようになる。けどその前から、ゆっくりと準備は始まってる。
ひと里でその準備が始まった俺があんなに苦しくて辛かったのは、精霊がひと里にはあまりいないからだろう、とガンマは言った。
精霊に好かれて得る力で独特の感覚が養われるけれど、汚 れに耐えられなくなる。
汚れって何なのか、どんな感覚なのか聞いたけど
「いずれ分かる」
と言って、教えてくれなかった。
でも、その他にも色々みんなとは違ってるところがあるってことは教えてくれた。
人狼の発情期は年に一回。だけどオメガは年に四回、発情期が来る。
オメガが発情すると、アルファは種付けできる。
精霊に嫌われると、オメガは力を失い、衰える。
オメガが衰えると、アルファも衰える。
「アルファが死んでもオメガはここに来て眠るだけ。オメガが失われたら、アルファはアルファでいられない」
だからアルファなんて誰でもいい、ってガンマは言ったんだ。
それから二週間くらい。
殆どガンマと二人きりで過ごした。
三日か四日に一度、シグマトップか次席 が洞穴の前まで食べ物や水瓶を持ってくる。トップは中まで運び入れるけど、セカンドが中に入るのをガンマが許さないから俺が運び入れた。
いつもはガンマがひとりでやってて、疲れ切ってすぐ眠っていたんだって。
言葉少ないし、殆ど表情変わらないし、そっけない。けどガンマはずっと優しくしてくれた。すぐ疲れて寝床に潜り込むくせに、俺のこと気遣ってくれてた。
不思議な水は、洞穴の真上にある大きな木の樹液だとシグマが教えてくれた。一日でカップひとつ半しか採れない貴重なもので、ガンマには必要なものだって……なのに分けてくれてた。半分は俺に飲ませてくれた。
ずっと二人でいたからかな。
ガンマの機嫌が良さそうとか悪そうとか、怒ってるのかなとか嬉しそうだなとか、なんとなく分かるようになってきてた。
だから分かった。俺があの水飲むと、ガンマは嬉しそうだった。
精霊の恵のカタマリだというあれを飲むと、身体の中がスッとして、薄く聞こえてたベータの声も聞こえなくなる。
身体はすごく楽になるけど、少し寂しい。
聞こえても聞こえなくても、ベータに逢いたいって気持ちはふっと湧いてくる。身体が熱くなることは無いけれど、時を選ばず、ふと思い出してボウッとしてしまう。
逢いたい。またあの気配に包まれたい。
聞こえなくなってしまった声が聞きたい。
また触れて欲しい。俺も触れたい。鼻を擦り合わせて、濃密なあの匂いに包まれて────
そんな風に考えるだけで、ひどくひどく寂しくなった。
郷に戻って、どれくらい経ったのだろう。
身体はすごく楽になった。
木にするする登れる。鼻が効くようになり、とびっきりおいしい果実を選ぶこともできる。気配とかはまだだし、長く走るのは試してないけど、だいたい元通りな感じじゃないかと思う。
もう元気だ、と感じると、いつまでここにいるのかなあ、と、考えてしまう。書物を読むとか、やることはあるんだけど……なんかウズウズする。
でも。
俺がオメガだって、みんな知ってるのかな。だとしたら戻ったとして、今までと同じに過ごせるのかな。
……きっと無理だ。そんな気がする。
ルウやシグマは前と同じに接してるけど、他のみんなはどうか分からない。それに自分でも分からない自分の変化が、みんなに分かってるっていうの、なんか嫌だし。今までと違う目で見られたら、きっと凄いショックだ。
そんな風に過ごしてて、何日目か。
全然そう思ってなかったのに、唐突に、ものすごく
肉が食いたくなった。
ガンマがなんで肉を食べないのか、それまでも不思議ではあった。
人狼 はみんな肉が大好きだ。
むしろ肉を食べないと力が出ない。なのにガンマはあの不思議な飲み物と木の実や果物ををちょっと食べるだけ。ここにあるパンも、手に取ろうとすらしない。俺が小さくちぎると子狼みたいにくち開けるから、入れてやれば食うけど。
まあ、あの飲み物を飲むと、なにも要らない気分になるからだろうなとは思う。俺もあんまり肉って思わなかったし。
だけど急に食いたくなった。ものすごく食いたい。
「……肉が食いたい」
ぼそっと言うと、ガンマは顔の前に落ちた毛をかき分け、驚いたような眼でこちらを見て、止まった。
食いたいけど。ガンマが食べないからシグマも肉は持ってこない。
狩ろうと思ったけど、なぜだかこの周りには子供の獣と小鳥しかいない。俺たちは幼体を狩らないので、ここで狩りはできない。
「…………そう」
「少し離れたところまで行けば狩れる獣もいるよね」
「…………」
この森から離れるなって言われてるから、聞いてるんだけどけど……あれ? いきなり不機嫌? さっきまで普通だったよね?
しばらく動かなかったガンマは、ひとつ溜息を吐き、ぱさ、と顔の前の毛を落とした。
あ、肉の匂いとかすると嫌なのかな。
「あの、狩り喰いしてくるよ。くちや手も川で洗ってくる」
「………………」
ガンマは興味を失ったようにクルッと背中を向けてトコトコ寝床に向かう。
「………………いいけど」
そのままぽすっと横たわり、囁くような、けど不満げな声で言った。
「しばらく、ここに来ないで」
「え、じゃあ俺、郷に戻って良いの?」
「いい」
「また戻ってくる方がいい?」
「…………」
寝床に潜り込んだ。声は返らない。
「えっと、戻った方が良いのかな? どれくらいで戻れば……」
「…………」
色々聞いたけど、なにを言っても返事は無い。
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