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29.名前
走る。走る。ひたすら奔る。
あそこは違う。あの場所はだめだ、あそこに入るのは違う。
あれは失われたオメガの場所。俺のところじゃない。
だから俺、俺は……
身体が軽い。
足は迷い無く進むべき方向を選ぶ。
道なんて関係ない。
鬱蒼とした下生えも、うねうねと横たわる木の根も構わず、倒木を飛び超え、遮る大木があれば蹴って昇り、枝を掴んで飛び……ひたすら真っ直ぐ。
ガンマの森ほどで無くとも、人狼の森に精霊はたくさんいる。
俺は好かれてるから、精霊が寄ってきて力をくれてる? そんなのどうでもいい。早く、早く、早く。────ベータ。
ベータがいる。こっちにいる、ベータはこの先にいる。
真っ直ぐ進めばベータがいる。逢いたい。逢いたい、逢いたい逢いたい逢いたいベータに────逢いたい────
俺はなにも聞いてない、他の奴らは、勝手なこと言ってるだけ。
ベータのことも、俺のことも、みんななにも分かってない、誰も分かってない。
だって
俺だってベータのこと分からない。
なんで触れたの? なんであそこにいたの? あんな目で俺見て、あんなに優しく触れて……
嬉しそうだったよね? あんなに熱い息だったのに、なんであれっきりなの? なんで来なかったの?
俺の身体がどうとか、引き金がどうとかいうのは聞いた。
けどなんで?
なんで俺をこんなにほっとくの?
こんなに逢いたいのに。逢いたいのに。逢いたくないのかな、俺に逢いたくないのかな。でも、ベータが俺に逢いたくなくても、俺は────逢いたい。
逢いたい。
逢いたい逢いたい。
逢いたい逢いたい逢いたいベータベータベータいや……金の銅色────
ドキン、と心臓が鳴った。
走り続けてた足が、ゆっくり止まる。
おそるおそる、もう一度。
────金の、銅色……
心の中で呼ぶだけで胸が騒がしい。でも、もっと呼びたい。
俺の、俺の、
「金の 、銅色 ……」
声に出してみる。
キュウッと胸が締め付けられるような、ヘンな感じ。
ものすごくドキドキして、汗が噴き出してる。
この程度走ったくらいで汗なんて出るわけない。だって今は身体が軽いし、なのに……なんだろ、これ。
あわてて頭を振り、額から滲む汗を払う。
でもあの時とは違う。
町から逃げた時みたいな怖い感じは無い。ただ────
「金の銅色……俺の……」
声に出しただけで、身体がおかしくなる。
けれどなんか、嬉しい。
そうか、呼ばれたときも嬉しかったけど、呼ぶのもこんなに嬉しいのか。
あのとき、何度も呼ばれた。
ベータも……嬉しかったのかな?
だから、あんなに何回も、呼んでくれた……のかな?
なんで今まで呼ばなかったんだろう。
知らなかった。
……声に出しただけ、それを耳が拾っただけ、なのにこんなに……
「────ああ」
両腕がそっと、胸を抱くように動く。
手が胸に触れる。
それだけで分かるくらい心臓がドキドキしてる。
「俺の、……金の銅色 」
キュウゥッと
胸から音がしたような気がした。
こんなに美しい音だったなんて。
なんで今まで気がつかなかったんだろう。
くちにするだけでこんなにも胸が高鳴る。どんな歌より心が躍る。
ああ、そうだ、そうなんだ。
金の銅色。そこが俺の場所。
……うん、きっとそう、そうだ。そうなんだ。
足が、また動く。
気配の元へ。
愛しい、愛しい……
アウルム・アイスの元へ────
行かなくちゃ。
俺の場所へ。
あの傍らに立つのは俺だ。
どんなに優れていても、他の誰も、あの隣に立ってはいけない。
金の銅色 の隣にいるべきなのは、俺だ。
ただ衝動の命じるまま、本能のまま。
走る速度はどんどん上がる。
さっきより、もっと身体は軽い。
風になったみたい。身体がとても軽い。気持ちもフワフワ。
わけの分からない衝動に操作されるよう。
足は自動的に地を蹴り、丘を乗り越える。川を飛び越え、木の肌を蹴る。
手も枝から下がる蔓を掴んで、進路を遮るあらゆるものを超えていく。
だってこの先にいるんだ。
俺の
「金の銅色」
俺の運命……!
夜になり、森を抜けた。
月の光を浴びて、草原を走る。
ただひたすら近づきたくて、走って走って走り続ける。
満月には三日ほど足りないけど、この月齢で月を浴びて走る人狼 は、一昼夜走ったって疲れなんて感じない。
遠かった気配に、どんどん近づいてる。そう感じる。近づいてる。
俺の金の銅色 に。
それだけで胸の高まりが止まらない。足の動きも止まらない。少しでも早く、少しでも近くに行きたい、近づいてるって感じ、まっすぐこの先、この先にいる。
どんどん強くなってく気配。間違いない、この先に……
「ぁ……」
匂い。うわあ、この匂い。
金の銅色の匂い。ああ、どんどん強くなってくる。
ドキドキが止まらない。
早く逢いたい。そして呼ぶんだ。名前を呼ぶんだ。俺のことも呼んでくれるかな。あの少し掠れた低い声で、また呼んでくれるかな。
それとも力強い声で?
俺は力いっぱいに声を出そう。全力で呼ぼう。ああたまらない、言いたい、名を呼びたい……!
「ア・ウ・ル・ム ・ アイーーース……ッ」
パアッとはじけ飛んだ。
胸につかえてたなにかが、飛んだ。
ああ、名前を呼ぶだけで、なんて歓び。
草を蹴る足も軽くなる。勢い余ってひときわ高く飛び上がる。
ほんのりと明るくなり始めた空で、まだ少し欠けてる月も白々と輝きを落とし、俺に力をくれる。これは光の精霊か。
足は雲を渡るように動き、この身をいるべき場所へと運び続ける。草の精霊がそうしてくれるのか。
切なくなるほど愛しい匂いを運んでくれているのは風の精霊たち────。
ああ、感じ取れる。今まで言われても分からなかった精霊たち。俺の周りで楽しそうに飛びはね、まとわりついて、進むのを助けてくれる。
嬉しくて両手を広げた。指は吹き渡る風を掴めそう。全ての精霊が、この歓びを確かなものにする手助けをしてくれてる。
胸一杯に息を吸い込み全身を使って、甲高い遠吠えのように思いっきり声を上げた。
「アウルーム・アイーッスゥー!!」
「青の雪灰っ!!」
……聞き間違い? いや、間違うわけない。
どんどん近づいてくる。物凄い速度で────この気配───
間違いない────!!
足が速まる。
匂いも……近づいてくる。どんどん、どんどん、
────見えた
ああ、ベータだ。……走って来る、俺に向かって。
「なにをしている!!」
咆吼のような声。
両腕を広げて。
あんな怖い顔して。
……来てくれた……!!
俺を迎えに来てくれた!!
「金の 銅色ー !!」
足が地を蹴った。
この世で唯一、そばにいるべき
俺の運命の、広げた腕に向かって
俺は、飛んだ。
「蒼の雪灰 っ!!」
愛しい声が俺を呼ぶ。
逞しい胸に飛び込む。
腕ががっしりと、俺を抱き取る。
勢いを殺しきれず、くるりと回った。
俺にくっついてた精霊がパアッと飛び散り、背中に回ってくっついてきながら、なんか文句言ってる。笑ってるのもいる。
もう一度回って止まった身体に、全力でしがみつく。
ずっと遠くから感じてた、懐かしくてドキドキしてあったかい、とても恋しい気配が、濃厚に俺を包む。
嘘みたい。
嬉しい。
胸元に顔を押し付け、深く息を吸う。
俺をたまらなくさせる匂いで胸が一杯になる。
「は……ぁ」
安堵のあまり溜息が零れた。
「蒼の雪灰……」
呼んで、くれた。
枯れた低い声が、少し震えて────ぱああっと
歓喜が、また湧きあがる。
精霊たちも周りを飛び跳ね、喜んでる。
みんな俺の気分が分かってる。嬉しい、嬉しい、嬉しい。
顔を上げると間近で見下ろす精悍な顔。焦りを帯びた金の瞳。
俺を見ている。
まっすぐに────それだけで────
湧きあがる歓喜。沸騰する想い。赤熱する脳。
「……金の銅色……ぁ」
また胸が、キュウンとする。
名をくちにしただけで……高鳴って壊れそうな胸に、さらに甘い痛みが加わって、唇が震えた。
身体の芯から温まるような、それなのに手足の先は痺れてるような、なのにいつまでも味わっていたいような。
「……金の銅色」
美しい金の瞳が見開かれる。なんてキレイなんだ。目が離せない。
ねえ、俺の声を聞いて? どんな気分になるの? 俺はすごく幸せな気分だよ? ねえ? ……でもくちから飛び出すのは
「金の銅色」
ああ呼ぶだけで幸せな気分になる。何度でも呼びたい。
「金の銅色」
「蒼の雪灰」
声が重なった。
背に回った逞しい腕が、けして離さぬといわんばかりに力を強める。また胸がキュウンとした。ここがいい。この腕の中がいい。この匂いに包まれ、この気配と共に。
こんなに安心したことも、こんなにドキドキしたことも、こんなに泣きたいような気分になったことも。
生まれて初めて。
確信する。やっぱりここが、この腕の中が俺の場所。この気配は、匂いは、俺のもの。
この瞳には俺だけを映して。
この唇は俺だけを呼んで。
「金の銅色」
「蒼の雪灰」
笑みが満面に広がる。金の瞳も笑み細まる。
なのにくちもとはなにかに耐えるように引き結ばれた。
どうして? もっと呼んでよ。
「金の銅色」
俺は呼ぶよ? だって呼びたい。だって嬉しい。
「金の銅色」
ねえ呼んでよ。俺を呼んで……
「なにしてやがんだ!」
グイッと肩を引かれた。
恋しい腕が離れる。離れてしまう。
「やだっ!」
身を振って肩を掴んだ手を離そうとした。知らないやつが三人がかりで、俺の金の銅色を羽交い締めにしてる。だめだ、離せ、おれの金の銅色を離せ、俺のことも────
違う腕が胴に周り、肩の手は下へと力を込め、俺は地べたに尻をつく。
「離してっ!」
「正気に戻れ!」
怒鳴った声にハッとして振り返る。
大工 だ。
郷一番の力持ち。だけど動きは俺の方が速い。振り切る。
愛しい腕の中に戻るんだ!
なのに動けない。
何本もの手や足が、よってたかって俺を押さえつけようとしてる。
「いや、いやだ! 離せっ!」
喚きながら手足目一杯バタバタして暴れたけど、俺は地べたに頬を押し付けるように押さえつけられた。うちの郷の連中だ。カッパ、イプシロン、ルウの先輩、ベータ次席 。
救いを求めるように向けた目の先、金の銅色は――――
「お客人、これはどういうことです」
羽交い締めされ、前に立つ雄を睨んでた。
「無断で館を出ることは禁じたはず」
初老の雄を睨む金の瞳が、燃え立つように輝いている。
「まして郷を飛び出すなど、何を疑われても仕方が無いと思いますが、いかが」
けど……落ち着いた声で言われると、身体から力が抜け、カクッと頭を落とす。
「……言葉もありません」
そんな、なんで? なんで助けてくれないの?
じわっと涙がにじんで来る。悔しい、悲しい、金の銅色に抱きつきたいのに、すぐそこにいるのに。
至福から強制的に引き離されたショックで、あたまがマトモに働かない。血が出そうなほどギリギリと噛むくちびるには土が混じってザリザリしている。
「自覚が足りないと言わざるを得ませんな。そんなことで、これから……」
初老の雄の声を遮るように、凜と通る声がその場に響いた。
「そう虐めてやるな、シグマ」
その瞬間、空気が変わった。
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