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35.顧みる
────あの当時、働ける成獣はいないに等しかった。
雌たちは衰え無気力になって働かず、儀式を超えられず荒れていた若い雄どもは自分たちも儀式を超えるとゴリ押ししてくるのみで準備はしない。
アルファとシグマと老いた者たちで、なんとか準備をしてくれて、俺たちは無事に成人の儀を超えることができたのだ。
成人の儀は、儀式の森にて行われる。
冬になる前に成獣はそこに庵 を設え、若狼が安心して儀式を終えられるよう、準備をしておく。
ガンマに従って儀式の森に入った若狼は、階位 を与えられると庵に潜り込む。すると引きずり込まれるように眠くなって、そこで丸くなり────そして……それからのことは何も覚えていない。
おそらく一週間ほどの間、何も感じず、なにも考えず、何か心地よいものに包まれ、たゆたうのみ。
やがて目覚めたとき、庵の中で丸まっていた身体に漲るものを感じ取っていた。
精強で堅牢な何か。それが体内に満ち、あふれ出さんばかりになっていることに驚きつつも、これがあるべき姿なのだという確信が、身の内に湧いていた。
おのずと産まれている揺るぎない己。
郷の一員であり、森を治める者だという自覚。
歓びに満たされながら、ゆっくりと身を伸ばし、庵を出る。
中央、苔の辺りに落ちている光があった。
どこから入っているものか分からない柔らかな光は、俺を受け容れてくれている。そう分かると同時、更なる歓びに満たされて苔のある場所へ歩み寄ったが、それを踏むことは躊躇われた。
一匹、二匹、三匹、仲間たちも出てきて、同じように苔の周りに立ち、互いを驚きで見つめ合う。
それまでとまったく違う匂いを発し、まったく違った表情で、例外なく確信に満ち輝いている。おそらく自分も同じなのだ。これが成獣、儀式を超えるということ。
感覚が共有されているよう。共に在れる歓びに満たされる。
それぞれがそれぞれの仕事を全うすることで成り立つ。それこそが人狼の郷。これこそが真の仲間。
その時既に、己にはなにができるかを、おのおの考え始めていた。
誰もくちには出さなかったが分かっていた。誰からとも無く展望をくちにし始め、語り合い、協力を約束し合いながら郷へ戻った。
森を出ると、アルファが、オメガが、老いた者たちが、数少ない成獣全員が待っていた。そこでまた共有される感覚に、感じ取れた一体感に、心が震えた。
我々は群れでひとつの生き物なのだ。
アルファが頭。オメガが心臓。脳、手、足、目、鼻、そして牙。……それぞれがそれぞれの役割を全うし、一体となってこの森を治める。
ハッキリと分かった。
ああ、これが、群れ 。
人狼という生き物────
翌年からは、俺たちが儀式を滞りなく進められるよう準備した。
そのとき儀式に向かったのは、カッパやベータ次席 。雌で初めて精霊に迎えられたフィーもいた。
精霊に迎えられないにも係わらず儀式に乱入しようとした若い雄たちを、俺たちは遺漏無く補足し、威嚇して森へ入らせなかった。腰砕けになりつつ向かってきた雄たちを阻止する内、ふつふつと怒りが燃え上がっていた。
郷の神聖な儀式の邪魔をするなど、人狼として誤った行為だ。儀式を超えていない若狼など、たとえ年上だろうが敵では無い。思い知らせてやる。
気づくと半殺しにしていた。
カッパやルウに止められても、怒りが、こぶしが、足が、牙が、止まらなかった。
「静まれ! 同族殺しになるつもりか!!」
アルファが吼え、ようやく動きを止めた俺は、神聖な儀式を妨害するなど、郷の一員としてあり得ないことだと主張し、やつらの追放を宣言した。
ルウなど同世代も同意し、アルファは苦渋の表情で俺たちの選択を受け容れた。
若い雄たちが郷から離れるまで、おれたちは気を緩めなかった。その道行きで、アルファは彼らに何事か言い含めていた。
ルウと共に思い返していると、賢いくせに雰囲気や気配の読めないシグマが、ようやく笑い終えて声を掛けてくる。
「なーに考えてんだよ? あいつなら大丈夫だって」
そうだ。あの頃とは違う。
儀式を邪魔するような者など、郷には居ない。
まして初めてのオメガを迎えるのだ。誰も経験していないことだから慎重になるし、みなガンマの言を無条件で受け容れていた。
だが、分かる。
蒼の雪灰の気配は、薄まっているけれど森の奥から俺を誘い続けている。
今すぐ立ち上がってあの、儀式の場へ行きたい。
ルウの手が、俺の手首を力強く掴んだ。
「落ち着け。今動くべきではない」
「ちょ、マジぃ? おまえ儀式の森に行くつもりなんかよぉ」
イプシロンが驚いたように声を上げ、シグマもヘラッと笑いながら緑の目にキツイ光を乗せた。
「おいおい、勘弁してくれ、オメガになにかあったらどうするつもりだよ」
まったくシグマの言う通り。
神聖な成人の儀の最中に、邪魔になるようなことをするべきでは無い。
行ったところで、なにができるわけでもないのだ。
ただでさえガンマのねぐら周りの森は閉ざされている。気配も匂いも隠され、そこに誰がいるか、何が行われているか、感じ取れなくなる。
そこへひとり入ったとて、できることは無い。
分かってはいる。
けれど俺には分かるのだ。
蒼の雪灰が居ることが分かるのだ。
とても穏やかな気配を感じ取っているのだ。
そばに行きたい。
蒼の雪灰が眠って居るであろう庵のそばに侍りたい。
そんな衝動はひっきりなしに起こって俺を苛んでいる。
そばへ行きたいという衝動と闘い続けている俺は、心ここにあらずであった。
郷の仕事も何も手につかず、まともに眠ることもできない。
何日目のことだろう。
────ある夜。
本能に抗えず、俺はフラフラと歩き出してしまっていた。
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