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38.要たる者
ガンマは白いストンとした薄手の服だけを纏い、背を丸め頭を地につけて蹲っている。
これは服従の印。
すぐ近くまで足を進め、見下ろした。
「「「 目覚めに、お歓びを 」」」
「うん、ありがとう」
声を掛けると、ふわりと顔が上がる。歓びに満ちて輝いた笑み。
ガンマは、ずっと重いつとめを背負ってきた。
長くそうしていたと、今は分かっている。
「おつかれさま」
思わずねぎらいの言葉がくちをついた。
ガンマはまた背を丸め、地に額を擦りつける。
近寄って軽く背を叩いた。
「これからは俺がやる。だから楽をしてね」
「「「 ありがたく 」」」
歓喜に震えながら、ガンマは顔を上げる。
目には涙が滲んでいた。
誰も正しいことを、俺に教えることができなかった。
だからあのアルファと番うのだと誤解していた。それに強い嫌悪を感じて、どんどん不安になった。当たり前だ。番でない者と子作りなど、人狼なら本能が忌避する。
だがそれも仕方ないことだった。
誰も分かっていないのだから。
オメガとはなにか。ガンマが何のために存在するのか。
アルファも、シグマも、あの黄金の雄や、物知りそうなあの郷のシグマでさえ、なにも分かっていない。
なぜガンマは、ほとんど食べないのか。声も小さく、力も弱く、これほど疲れやすいのか。
生気を犠牲にしているからだ。
ガンマは生きることより、精霊を安んじ郷を守ることを選んだ者だ。生き物の生気と同化できない精霊と対話するために、ガンマは生き物としての存在を薄め、受け容れている。つまり半分、生き物では無い。
苔に宿る精霊たちから伝わった想い。
「「「 あれは長く働いた 」」」
「「「 休ませてやりたい 」」」
「「「 ここに入れてやりたい 」」」
前のオメガも、その前のオメガも、さらにその前のオメガも精霊に認められなかった。ゆえにガンマはずいぶん長い間、この森の精霊を安んじる役目を負っていた。
さらに衰えた俺が来たことで、常以上に体力気力を浪費していた。
だから立ったり喋ったりがやっと、なにも知らぬ俺にいちから伝える気力など残っていなかっただろう。
まして、このときを経れば全てが理解できると分かっていた。
あえて薄い命を削ってまで説明などする必要は無い。ときを待てば良かったのだから。
生気を薄めて精霊に細かい指示を与え、文句を受け流して機嫌を取り……そうした役目を負うのがガンマである。従うのは精霊とオメガであり、アルファには従わない。
そしてオメガとは本来、精霊の《要 》たる者を指すものなのだ。
俺はガンマにねぎらいの言葉を掛けながら、洞穴へ入って行く。
「でもごめんね。もう少し休ませて」
ガンマは嬉しそうに頷いて、あの不思議な飲み物を差し出した。
ひとくち飲むと、身体の内から精霊が力をくれるのが分かる。
けれど気が向かなければ、精霊たちはきっと悪戯を仕掛けてくるのだろう。これは精霊に好かれていない者には毒かも知れない。
そう考えていると、周りの精霊がキラキラと瞬いた。合ってるみたいだ。
俺は寝床に潜り込む。精霊たちも付いて来る。心地良い匂いに包まれ、丸くなる。
精霊たちが、内からの力を助けてる。
あと少し、身体が安定するまで、力を貸してくれてる。
暖かい闇、母狼の胎内 に揺蕩うような感覚を覚えると同時、苔に宿る精霊からもたらされたものが脳裏に流れていく。
忘れるなと
戒めとして
二度と同じ轍を踏むなと────
精霊は命の息吹そのもの。
この世のあらゆるものに宿っている。
精霊というやつは、それぞれ自由に漂ってるだけだ。
好きなことをして、好きなところに行く。気が乗らなければ宿っていた者から離れるし、悪戯もする。
統一した意思など持たず、自由奔放、決まりも掟もない。それが精霊である。
だからしばしば、大変なことが起きる。
例えば風が暴れれば木々は倒される。水が好きに動けば洪水が起こる。焔の気が向けば火事になる。木々や草などおとなしい精霊も居るけれど、こいつらだって森に留まらず好きなところに飛び出していけば、木や草は生命力が弱まり、森が荒れる。
好き勝手するのが精霊だが、好きなようにさせていては森が荒れてしまう。
けれど命じたって言うことなど聞かない。だから気持ち良く働かせなければならない。
精霊たちと交流し、森を保つ働きをさせる。それができるのが、要たる者 。
生きていながら精霊と共に在ることのできる、唯一の存在である。
オメガの階位 を得ても《要》たり得ない者が精霊と交流しようとすれば、ガンマのように生気を薄めなければならない。それは生き物としての本能も、人狼としての感覚も、犠牲にすることになり、身を削ることになる。そうせねば成せぬ役目であり、ゆえにオメガは短命に終わりがちだ。
けれど。
「「「 面白い 」」」
俺は精霊たちに、そう思われている。それが《要》となる条件なのかは、分からない。
ともかく、覚醒した今も感覚は失われていない。気を薄める必要がないから、金の銅色の匂いも、気配も、今まで通り分かる。
そして、郷の全員それぞれ、今どこでどうしているか、なにを感じているか。それも伝わってくる。
人狼の気配感知とはまったく異質の感覚によって、感知の範囲は以前より広く詳細だ。
すべからく、命は喰らわれ他者の糧となる。
より強きものが弱きものを喰らい、さらに強きものに喰らわれる。最も強きものであっても、やがて魂は失われる。大地の精霊たちは亡骸を喰らって大地に還元させる。
けれど、どんな小さな命でも、自ら命を差し出したりはしない。抗い逃れようとするけれど、強き者はそこに哀れなど感じず、喰らい尽くそうとする。
森は、すべての生き物がいることで健やかに保たれるもの。だから誰かがバランスを取らなければならない。
強いものは喰らいすぎないよう。
弱きものも己のつとめを忘れぬよう。
風や水や光、それらも森を健やかに保つためのつとめをおろそかにせぬよう。
けれど頭ごなしに命じて従う精霊など居ない。
だから気持ち良くさせて、良い結果を得られるよう促すのだ。
風の精霊、水の精霊、光の精霊や焔の精霊、そして大地の精霊。道ばたに茂る草のひとつひとつにも、どんなに小さな虫にだって、精霊は宿っている。小さな獣にも大きな獣にも人狼にも、それぞれを好いた精霊が常にまとわりついている。
精霊たちは見たもの聞いたものを、仲の良い精霊に伝える。
好き勝手に噂話をするだけだけれど、それは瞬時に際限なく広がっていく。そして要たる者 に瞬時に伝わる。
《要》とは、世界中のあらゆるものの中で、もっとも精霊に好かれる者なのだ。
精霊に好かれているだけ。お願いすることも、機嫌を取ることもしない。《要》を喜ばせよう、役に立ちたいと、常に思っている精霊たちは、その意を勝手に汲み、我先にと伝えてくれる。
伝わるのは知りたいことだけではない、どうでも良いこと、例えば精霊が喜んだり楽しいというのも、怒ったり不機嫌だったりも伝わる。逆に《要》が胸の内に抱えている悲しみや喜びも全て、精霊たちにはすっかり分かってしまう。
ただ共に在り、同じ歓びを、同じ悲しみを、同じ苦しみを分かち合う。それが要たる者 。
だからこそ、《要》の『お願い』は特別。
滅多に無いお願いをされると、精霊たちは常より強い歓びを感じ、聞き入れようとする。
だから《要》がいたなら、郷は、森は、安泰と言われる。
なぜそうなるのかは分からないまま、皆はオメガがいれば郷が落ち着くと知っている。
けれど《要》は、常に現れるわけではない。
前のオメガも、その前のオメガも、《要》たり得なかった。
オメガと任じられた者は生気を薄めることで精霊と交流できる。勝手をさせないように抑えることはできる。けれど思うままに働かせることはできない。
だからガンマが存在する。《要》に従う者であり、《要》に次いで精霊に好かれている者。
ガンマが《要》に従うと知っている精霊は、その意を汲み喜ばせようとする。けれどすべての精霊がそれと知っているわけではない。だからガンマは生気を薄め、精霊に同化して意志を伝える。そのため生き物として生きることを放棄している。
そして人狼は、精霊たちの営みを助け、森を保つ存在だ。
繁りすぎた枝を落とし、繁茂の過ぎる下生えを間引きして、風通し良く保つ。水の道を遮る倒木があれば排除し、毒があれば除き、増えすぎた獣を狩って森の秩序を保つ。
それぞれの役目を全うすることで、人狼同士ぶつかり合うこともある。郷の掟に従わず、森の秩序を破る者もいる。
だからアルファが存在する。
人狼を従わせる力を宿し、秩序を保つ者。
森を治める者としてのつとめを果たす為に人狼たちを動かす。オメガはアルファへ必要なことを教え、人狼たちが森を健全に保つよう促す。
俺は選んだ者を、素晴らしいアルファに導かねばならない────
────眼を開いた。
身体の内に、周りに、無数の精霊が群がって歓び瞬いている。
寝床から抜け出し、見回した。
ここは精霊に満ちている。
だから、ここでこそガンマは長らえることができている。
隣の寝床に、ガンマの白い毛が見えた。
深い眠りに落ちている。
生気を削り、常に精霊を意識して、シグマに意を伝え……二百に近い冬を越えるほどのとき、ガンマであり続けた。
おそらく長い間、真の眠りなど無かったに違いない。今は俺がいるから、張り続けていた感覚を閉じることができたのだろう。
「ゆっくりお休み」
指先でガンマの白い毛を撫でて声を掛け、洞穴を出た。
愛しい気配を感じる。
俺を案じている。
そうか、再び眠ってから、何日も経っていたんだね。
待たせてゴメンね、俺のアルファ。
風の精霊と音の精霊がフワリと寄ってきて、楽しそうに瞬いた。こいつらは森に居るのと、だいぶ違うやつだ。
おそらくアグネッサのところからついてきたやつ。アグネッサは、とてもこいつらに好かれていたのだろう。だからあの歌声が、ひと族を魅了したのだ。人狼の系譜なのかも知れない。
ひと族は命の息吹を感じ取る力が弱い。人狼はその上の存在だ。
だから俺が、ひと族の里や町で好かれたのも当たり前の事だったんだ。
逆に俺に反発した者もいた。
あれはおそらく、精霊から、世界の理 から、遠ざかってしまった哀れな者たち────なのだろう。
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