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39.待つ

 森から出る途上、辻で俺の姿を認めたルウが声を掛けてきた。 「おいベータ……じゃない、ええと……、とにかくおまえ、どうした」  心配そうな顔と声だ。 「……どうした、とは?」 「なんか顔がぼんやりしてるぞ」 「ぼんやり?」  首を傾げると、はあっと息を吐き、庵から出てきた番に声を掛けた。 「シグマたちに知らせてくれ」 「なんて?」 「こいつがなんかおかしいって」  頷いて駈け出した後ろ姿を見送り、ルウは俺の背に手を回し、軽く叩きながら共に歩く。 「大丈夫だったか」 「なにが」 「オメガだよ。なにかあったのか」 「なにか……」  信じがたいほど美しく輝く蒼の雪灰──── 「おいっ!」  強く背を叩かれ、眼をルウに向ける。 「まあいいや、俺の仕事じゃねえし。行くぞ、ゆっくりでいいから」 「ああ」  ともに歩く間、ルウが説明したことによると、森の奥へと向かってから、五日ほど経過していたらしい。  俺がいないと知ったシグマは、まっすぐガンマの所へ行って確認し、 「あいつ、儀式の森にいるらしい」  そう皆に伝えた。 「え、儀式の?」 「それって大丈夫なのか?」 「わっからん! ガンマは心配要らないって、そんだけで追い返されたけど。いつ戻ってくるんだか……」  とか言いながらアタマをかきむしり、いつもに増して毛をボサボサにしてから、ルウに言ったんだそうだ。 「おまえさ、ご苦労だけど、またあそこで見張ってくんない?」 「つーわけでさ! あいつと(あそこ)で二人っきり生活再び!! つうわけよ! いやマジでありがとうな!!」  などと言い出し、いつも通り惚気始めた。  いつもなら辟易するけれど、今は────触発されたように思い起こされる。あの姿、声、甘い匂いと暖かな気配に包まれた、あのときが思い出されるばかり。 蒼の雪灰……。  美しさが、さらに増していた。内から輝く光を纏っているようにすら見えた。あの神々しいばかりの美しさ。  しかし……  身体が整うまで、ということは、本当はまだ儀式が終わっていなかったのだろうか。やはり儀式の場へ行くなど、やめておくべきだったのか。……そんな今さらな迷いもある。  蒼の雪灰が整えた棲まいに着き、中に入って炉の火を入れていると、シグマがやって来て怒鳴った。 「オメガは!」 「……オメガ……美しかった」 「はあ?」  顎が外れるほど大口を開けたかと思うと、シグマはアタマをかきむしり、「じゃ、ねえよっ!」また怒鳴った。 「大丈夫かって聞いてんの!」 「……ああ……」  大丈夫……なんだろうか。ガンマのところへ行かなくちゃと言っていた。身体のことだと思っていたけれど、違うのだろうか。なにか……悪いことではないか……本当に大丈夫だろうか…… 「ああ~~、うああダメだ、マジでダメだ、……くそ、ちょい落ち着こうぜ。……ったくもう」  おまえが落ち着け、と思いながら、蒼の雪灰が造ったという器に水を入れて差し出した。 「あ? ちょい、いつ汲んだ水だよこれ。……あれ? 匂いは大丈夫だな」  蒼の雪灰を待っている間、ひとりでここで寝起きしていたときに気づいた。  ここに置いてある水は腐らない。なのに隅の洞に蓄えてあった果実はとても良い具合に熟成していた。この棲まいは不思議だ。 「つうか茶ぁねえの、茶!」  などとシグマが騒いでいたら、ルウトップや、イプシロンまでやってきて色々聞かれた。  とにかく蒼の雪灰は大丈夫だということ、もう少しガンマのところで身体を休めていると伝える。 「で! あいつがオメガで間違いないんだな!?」 「ああ」  それは間違いない。 「そうか、じゃあオメガのつとめってのも聞いたか?」 「分からない」 「なんで!?」  シグマが声をひっくり返らせる。  しかし、会話はほんの少しだけだった。  見つめ合い、触れ合って、鼻を擦り合わせ……ああ……そうだ、あのうっとりしたような美しい蒼の瞳…… 「なんか言ってただろ!」 「……待ってと。もう少し……」  そう、子作りは待たなければならない……。 「……ううう~~~、おまえ~~~」 「…………」  シグマが唸り、無言で眼を閉じたルウの横で、イプシロンがくちに手を当てて眼を細めた。 「まっててぇ~、なんて感じぃ? それからあ? なんてえ?」 「バカにしてるのか」 「ああ~~分かった! はいはいはい、分かんねえのな? 分かった分かった」 「……バカにしてるな」 「ちがうって、待つんだろ?」 「まっててぇ~って言われたんだもんねえ」 「…………俺らも、待つさ」  ぼそっと言ったルウを見る。いつもの仏頂面だ。 「おまえ! いっつもそういうイイトコ持ってくのさあ! 考えるの面倒とか言うくせにさあ!」  抗議の声を上げたシグマに無言で首を振り、ルウは出て行った。 「まあいいよ。待つしかねえんだもんな」  諦めたようにシグマが言い、イプシロンは眼を細めて茶を啜った。  ふっと、眼が開いた。……呼んでいる。  寝床から出ようとして、重さに気づく。  この匂い。酔っ払ったシグマだ。  独りはさみしいだろうとかなんとか言って、蜂蜜酒を持ち込んで居座ったのだが。 「なんで乗っかってるんだ」  おおかた寒かったのだ。シグマは寒さに弱いし身体は貧弱、感覚も鈍い。  そして蜂蜜酒が好きで、すぐに酔う。作夜もシグマは何杯か飲み干し、床でだらしなく寝てしまった。いつものことなので、放置して寝床に入ったのだが……重い。臭い。  蜂蜜酒は祝いの席や儀式のときに必要だから造るもので、日常的に飲むものじゃあないが、シグマはたんまり造らせている。  蜂蜜は大切な栄養源で、子狼を育てるときよく使う。シグマは効率的な蜂蜜の入手法を考案して雌たちに教え、多くの蜂蜜を得られるようにした。その働きは評価されるものだが、蜂蜜酒をたくさん造れと命じて、しょっちゅう酔い潰れているのは愚かにしか見えない。  ────ともかく、重さだけはある酔っ払いを蹴って寝床から除く。 「ん~~~……」  起きる気配も無く転がったシグマを超えて寝床を出た。  にぶい奴だ。ルウならば一瞬で起き立ち上がるに違いない。だが蜂蜜酒を泥のように酔うほど飲むルウなど考えられない。すぐ酔って寝るくせに、なぜこんなに飲むのか。賢いやつなんだが……バカなんだろう。すぐ俺をバカにするくせに。  腹が立ってきたので、顔を軽く蹴っておいて、扉をくぐった。  夜の闇が深い。  今日は新月。人狼の力が最も衰える夜。  だが感じる。俺のオメガを感じる。  足は自然に、ガンマの森へ向かっていた。  

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