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第3話

「……っ」  考え込むうちに、深みに足を取られた。  ヒトの姿で水浴びをしていたアケシノは、水底の苔むした石で足を滑らせ、頭まで水面下に沈む。いつもなら、このあたりには近づかないようにしていたのに、今日は考え事に気を取られていたらしい。  狼の姿に戻って、岸まで泳いで……。  そう考えるのに、上手く体が動かない。  なんとなく、このまま水底まで沈んだほうが心地良い気がして、手や足を動かすことを億劫に感じてしまった。 「……!」  なにかに後ろ首を噛まれた。  やわらかい痛みと、それ以上の力強さで水面へ引き上げられる。  深みから抜け出ると、アケシノの後ろ首を噛んでいたなにかが口を放した。 「だいじょうぶ!?」  真っ黒の毛玉が、アケシノの顔面にしがみついてきた。  ぺろぺろ、ぺしょぺしょ。小さな舌でアケシノの顔の水滴を舐めとり、「怪我してない?」と全身をくまなく確かめる。 「……なんだ、お前!」  腰から下だけ水に浸かったアケシノは、黒毛玉を顔面から引き剥がした。 「すずです!」  アケシノに後ろ首を掴まれたそれは、ぺこっ、と小さく頭を下げた。  真っ黒の仔狐だ。  だが、どこかで見たことがある狐だった。 「お前、シノオと一緒にいた狐だな?」 「すずは、おしのちゃんのお友達です。信太の御槌(みづち)と褒名(やすな)の十一番目の息子です。ちゃんとした名前は、とひすず、っていいます。……赤色大神さんのお名前なぁに?」 「お前に名乗る名は、…………アケシノ」  名乗る名はないと言いかけて、名乗った。  真っ黒の毛玉が、濡れ雑巾みたいになっていたからだ。  溺れているところをこの濡れ雑巾に助けられたのは事実だ。  助けられた相手に名乗るくらいの礼儀は、大神も持ち合わせている。 「あけちゃんは、おしのちゃんと同じ匂いがする」  すずは真っ黒の瞳をキラキラさせて、ふんふん、すんすん、小さな鼻を鳴らす。 「……シノオは俺の母親だ」 「じゃあ、あけちゃんは、おしのちゃんのおなかの子供のおとうさん?」 「アレは子供というより、呪いだ」  魂の入っていない肉の塊をシノオに孕ませたのはアケシノだ。  アレは、永遠に生まれてくることのない、シノオを苦しませるだけの呪いだ。  アレに魂を与えて、この世との縁を繋いで、心ある生き物として生きる為の命を与えることは、ネイエがする。 「シノオの腹の子のことを知ってるってことは、お前、それにまつわるネイエとシノオのことも、俺のことも知ってるな?」 「知ってるよ。……あけちゃん、ちっちゃいのにえらかったね」 「……ちっちゃいとはなんだ、ちっちゃいとは」 「だって、すず、今年で六歳。あけちゃんって生まれてまだ一年くらいでしょ?」 「そう、だが……。だが、お前より大人だ」 「見た目だけおっきいんだね。すずの一番上のおにいちゃんが今年十五歳なんだけど、あけちゃんは、それよりもうひとつかふたつ大きいおにいちゃんだね。見た目だけ」 「何度も見た目見た目と繰り返すな」 「えらいえらい」  ぺろぺろ。まるで弟にするみたいに、すずはアケシノの頬を舐める。 「だから、なにがえらいんだ」 「ちっちゃいのに頑張っててえらいね」 「…………」  すずの首根っこを掴んでいた手を放した。  濡れ毛玉が、ぼちょっ、と水に落ちる。 「ひどい!」  すずはすぐに水面から顔を出し、犬かきですいすい泳ぐ。  見たところ、すずはアケシノよりずっと小さな仔狐だが、アケシノよりも上手に泳ぐし、アケシノを助けるのも手慣れたものだった。 「あけちゃん、誰にもなんにも言わずに、生まれてからずっとおしのちゃんのこと守ってたんでしょ? おしのちゃんが怪我して、弱ってて、動けなくて、ほかの大神さんから逃げられないから、おしのちゃんのこと、ずっと一人で守ってたんでしょ?」 「…………」 「だから、えらかったね」  おかあさんのこと、守ったんだね。  生まれてすぐの自分にできる方法で頑張ったんだね。  えらかったね。  たくさん怪我して、戦って、おかあさんを守った。  そのおかあさんから引き継いだものを、いまも一人で守ってる。 「別に、えらくない」 「えらいよ! すごいよ! すず、まだおかあさんに守ってもらってばっかりだもん」 「それはお前が小さいから……」 「うん。だから、小さいのにおかあさん守ったあけちゃんはえらいね」  濡れて重い尻尾を振って、アケシノの腹から肩へよじ登り、すりすり、頬ずりする。  体の大きさも、年齢の大きさも、神様には関係ない。  どれだけ体が大きくても、どれだけ体が小さくても、子供は子供だ。  生まれて一年でまるで十六、七歳に見えて、大人みたいな話し方ができて、大人みたいな体格でも。生まれて六年で、年相応の子供らしい話し方と見た目でしかなくても。どちらも、子供は子供。 「……あけちゃん、泣いてるの?」  こてっ、と首を傾げて、アケシノを見る。 「泣いてない」 「あけちゃん、いい子ね」  よしよし。やわらかい肉球でアケシノのほっぺをぷにぷにして、尻尾を腕に巻きつけ、狐の襟巻のようにアケシノの首筋に寄り添う。 「子供扱いすんな」  口ではそう言うけれど、アケシノはすずを引き剥がさなかった。  濡れて重たい毛皮なのに、温かかった。 「……あのね、ここ、また来ていい?」 「助けてもらった礼だ」  秘密の場所へ、すずの出入りを許した。  すずならシノオも許すだろう。そう思った。  それ以来、すずは、ちょくちょくこの滝へ顔を出すようになった。  この滝の水がおいしいから、母親に飲ませてやりたいらしい。  口ではそう言うが、この仔狐がアケシノを心配して通ってきていることは、じっとアケシノを見つめる様子から丸分かりだった。  こんな小さな生き物に心配されている。小動物にすら見くびられているようでアケシノは苛立ちを覚えたが、不思議と追い払う気にはなれなかった。

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