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第5話

「ねえねえ、いりやくん」  呼ばれて、入谷は知らず口元がほころんだ。園児式の『くん』づけである。どうやらお友達認定してくれたらしい。 「なあに?」 「おなかすいた」 「ああ……」  時計を見れば、すでに七時近く。子供のいる家庭なら、もうとっくに夕飯時だ。 「お父さん、まだかな。ちょっと、ようす見てみよう」  浩汰もさすがにそこは賛成のようで、首を横に傾けつつも、あいまいに頷く。  入谷は頷き返してやり、手をつないで立ち上がる。  教えられたアトリエらしきドアを控えめにノックして、耳を傾けた。  物音ひとつしない。  再度のノックのあと、数秒待ってもまだ応じる気配がない。  浩汰と顔を見合わせ、恐る恐るノブに手をかける。  ドアを細く開いて中を窺うと、大人の背丈を超えるサイズの大型カンヴァスが目に飛び込んできた。  入谷は思わず感嘆を漏らした。  描かれているのは、草原と野生馬をモチーフにしたと思える油彩とテンペラ併用の半抽象画。果てしなく広がる世界観と疾走感が、力強い描写で迫ってくる。  初めて彼の絵を見た時と同じ、心が躍るほどの感動が湧き上がった。 『個性溢れる色彩に感情が揺さぶられる』『生命力と躍動感を描く才能は唯一無二』それが、アート界での高嶺一志の評価だ。  情景と情感をカンヴァスに投影していく高嶺の背中が、なんだか眩しい。こんな大作の制作途中を間近に見られて、この日本を代表する若き画家と仕事をするのだと思うと、高揚感で胸が高鳴る。緊張で身が引き締まる。 「あの……」  声をかけてみると、高嶺の肩がピクと揺れた。  入谷は次の言葉を呑み込み、そっとドアを閉じた。 「どしたの?」  不思議そうに見上げてくる浩汰に、入谷はエヘヘと笑みを返した。 「もうちょっと……、待とうか」  顔は見えなかったけれど、カンヴァスに向かう後ろ姿から発する『邪魔するなオーラ』に圧倒されてしまった。  できれば、すぐにでも打ち合わせに入りたい。このあと編集部に戻って片づけなきゃいけないデスクワークが残ってる。  だけど、筆の乗ってる作業の邪魔をしたくない。というか、中断させて怒らせたらと思うと、ちょっと怖い。  そう感じさせるほど、彼は創作に没頭していたのだ。  職業がら、担当する相手はクセが強く個性豊かな人が多い。作家の都合やわがままに振り回されるなんて、そうめずらしくもない。時間がずれ込んで帰宅が遅くなるケースだって、よくあること。仕事相手とうまくやっていくのは編集者の手腕であり、いい記事を獲得する能力のひとつなのである。  ぼちぼちキリのいいところで中断して出てきてくれるだろう。それまであと少し待つことにして、とりあえず。入谷は浩汰を連れてダイニングキッチンに入り、なにか食べるものはないか探してみることにした。  まずは、冷蔵庫。  どうせ雑然としているだろうと思ったところが――開けて見て、意外にも整頓されていて目を瞠った。  飲み物やカップデザート、ハム、チーズなどなど。野菜室には、人参、玉ねぎなどの根野菜が少し。冷凍室にはトマトソースやらベシャメルソースやらを小分けにしたタッパーがあり、切った葉もの野菜とキノコ類をつめたフリーザーバックもある。  散らかり放題の家で、ここだけきちんとした家庭感が漂う不思議。  長期不在の奥さんの他に女手があるのだろうか。家政婦ではないのは確かだろうが、細やかな配慮で食材を保存した女性が誰なのか……。身内か、もしかしたら浮気……? などと気になって、下世話な想像までして首を横に振ってしまう。 「さて」  邪推を振り払ってシンクの上の棚を見てみると、和、洋、中のさまざまな調味料が並んでいる。入谷などが使ったことのない香辛料やハーブ類が揃っていて、かなり本格的な料理が作れそうではあるけれど。  ハードワークの独身男にできる料理なんて、時短、簡単。レパートリーときたら、片手であまるていどだ。  ここにある材料で自分になにが作れるか、レシピをいくつか思い浮かべ、必要な食材を出して並べた。 「いりやくんが、ごはんつくるの?」  ちょこまかとまとわりつく浩汰が、満面の笑みで目を輝かせる。 「チャーハンとスープだけど、いいかな」 「いい! チャーハンだいすき。おとうさんもすきだよ」  浩汰は、お父さんも一緒に食べるつもりでいるらしい。放置されているのに、父親思いの健気な息子だ。 「そう……そっか」  しかし考えてみれば、高嶺のぶんも用意したほうがいいかと思える。  このキッチンの惨状からして、ここ数日はろくなものを食べてないだろう。担当の仕事の一環として割り切って、好印象を与えておけば少しは点数稼ぎになるかもしれない。食事にかこつけてアトリエから引っ張り出して、うまくすれば打ち合わせができる。ぜひともそう願いたい。 「じゃあ、ご飯を炊くから待っててね」 「はいっ」  ご機嫌な浩汰は、手を挙げていいお返事をする。  では、さっそく。  炊飯器に残りご飯がこびりついたりしてないかと、恐る恐る蓋を開けてみると、中はきれいで米粒ひとつついてない。フウと胸を撫でおろして腕まくり。  米を研いでセットして、炊けるまでの間にシンクの皿やらゴミやらを片づける。  家政婦じゃないんだけど……と愚痴りたくもなるけれど、そうしないと調理のできるスペースがないのだ。  食洗機の中の食器を棚の空いたスペースに収納し、入れ違いに汚れものを並べて食洗スイッチオン。  それから散らかり放題のゴミをまとめ、調理台をきれいに拭き上げ、やっとまな板と包丁を出す。  数種の野菜とハムをザクザクみじん切りし、コンソメ顆粒を入れてひと煮立ちでスープが簡単にでき上がり。チャーハンも同じ具を使い、フライパンで炒めた上に炊きたてご飯をドサッと投入する。  数少ないレパートリーの中でも得意の一品。いつもの一人分より量が多くて木べらが重いけど、調味料を炒め合わせて皿に盛りつけ、スープを添えて完成である。

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