11 / 152

疑惑と痕跡

□  玄関口に礼二を背負った佐藤が姿を見せたのをちょうど、上の階をざっと探索し終えて階段を下りてきたばかりの馨と和成が発見して、慌ててこちらに向かって駆けつけてきた。  開放されていて入れそうな場所はあらかた探してきたが、上級生はまだほとんどが入学式の片付けや整理にではらっており人気はなくひっそりとしていた。  二階、三階は二年生と三年生の部屋がある階になっていて共同で使うような浴場や手洗い場などはなくほとんどが個室になっていて余り探索できるような場所もなかった為に一通り、見て回ってからまた一階へと戻ってきたのだ。 「佐藤君! よかった、生きていたんだねっ!」  と駆けつけてきた馨に開口一番にそういわれて肩を叩かれた。 「……どうしたんだ、背中の「って、礼二君、どうかしたのかいっ?!」  和成が言おうとした言葉が途中で馨の台詞にさえぎられた。 「…………」 「もしかして、気絶してるとかじゃないよねぇ?」  台詞を遮られた和成はそのまま黙って、馨が佐藤にそう聞くのをため息をついて見やる。 「いや、眠ってるだけですよ」 「そーなのか! で、なんでそんなことになったんだいっ?」 「よくわからないまんま、礼二様に捕まえられて、羽交い絞めにされた後で、無理やり人気のない場所に連れて行かれて……でも、途中から、なんか、礼二様が急に気分が悪くなったみたいで、いきなり吐いて倒れたから、とりあえず、こうやっておぶさって運んできたんですけど……」  実際にあったことを交えながら都合が悪い部分は隠しつつ、そう言う佐藤の説明を聞いて馨が頷いた。 「ああーー……礼二君、怪我して、点滴してもらったばかりで無茶するからーー」 「……貧血かなにかだろうな」  馨と和成がそう話すのを聞きつつ、佐藤は礼二をおぶさったままで、また歩き出した。  とりあえず、広間まで戻れば、ホワイトボードの前に先生がいたし、部屋を替わったことを、報告しておけばいいだろう――  とそう考えていた。    肝心の翼君がいま何処にいるのかがわからないのではあるが……  礼二様と僕が部屋をかわってしまい翼君が彼と同室でルームメイトになったという事実を聞かされてどんな反応を返すだろうか?  まあ、大体の予想はついているが。  煩わしいというような態度や台詞を言うのだろう。     大広間に着くまでにしばらく歩いている間に、どういった状況で、礼二が吐いて倒れたか? とか、二人ともなんでジャージ着てるの? など続けざまに馨に聞かれたのだが、言葉を濁して、適当に答えておく。 「人気がないところで掴みかかられたと思ったら、礼二様が急に吐いちゃってとばっちりで僕の制服もゲロで汚れちゃったから着替えたんですよ。  ついでに、礼二様も汚れたままでいさせるのもよくないんで着替えさせたんです」 「そーなのか……大変な目にあったんだね! そして、えらいっ!えらいよキミっ! ぼかぁ、軽く、今、感動しているよっ!  あまり親しくもない人のゲロを片付けるだけでもえらいのに着替えさせておぶさってここまで連れてきただなんて……!]  馨がキラキラと瞳を輝かせながら、手放しで佐藤を褒めちぎった。  確かに、傍から聞いただけならばそう思うのも仕方ないだろう。 「賞賛に値するねっ! キミは素晴らしい人だよ!」  考えてみれば今まで、これほどまでに手放しで褒めちぎられたことがあっただろうか?  何をしても何をやっても気にされたことはなかった。      そんな過去もあってか、悪い気はしないので、馨が言う言葉を素直に受け止めることにする。 「やめてくださいよ、当然のことをしただけですし……」  一応、謙遜するような台詞を返しておけばいいだろう。 「そんなことないさ、ねぇ、和成くん?」 「あ、ああ……」  和成は馨の台詞に言葉半分で頷きつつも、何か違和感を感じていた。  なんだろう、うなじや首筋辺りに、何か紅い斑点みたいな跡が……。  横には並ばずにやや後ろをついてきていた和成が何か、異変に気付いて眉をしかめていた。 (キスマーク? いや、まさかな……けど……)  そう思いながら、眠りこんでいる礼二の顔を覗き込む。  泣きはらしたような、涙の跡が残っているのにも気付いた。  癇癪を起こしたにしても、相当酷い泣き方をしなければここまで、腫れたりしないだろうに……  佐藤が言っていることは本当に全て事実なのか、疑わしいと漠然とだが思う。     礼二は体全体の色素が薄いためか、肌が白い。  そのせいか、首筋に散らばる、虫さされのような紅い跡や泣き腫らして、目元が赤くなっているのが浮き立って見え、よく解るのだ。  ……本当はなにがあったんだろうか?  和成はそう考えて、前を歩いている馨の制服の袖をくいくいと引っ張って自分の方に注意を向かせる。  佐藤にはばれないように口元に人差し指を当てて、馨にだけ話したいことがある、と目配せをする。 『……馨、ちょっと』 『なんだい、和成君?』  前を歩く佐藤にばれないように小声で話しかけてきた和成に馨が気付きそっと返事を返す。  大人しくて基本的に無口な彼がこんなふうにしてまで自分から話しかけてくることは稀だ。  馨はそう思って、茶化すことはせずに彼の言葉に耳を傾けた。 『なんか、おかしいと、思わないか?』  和成にそう指摘されて、馨は首を傾げて、顎に手を宛てて思案する。 『いや、特には……何がおかしいのかとか、さっぱりなんだけど?』  そう返す馨に解る様に、眠り込んでいる礼二のうなじにある紅い跡を指差して、馨に見るように促した。      和成が指した部分を見遣った、馨はキスマークらしきものが点々と礼二の首筋に散っているのに気がついて、あわや声を上げそうになった。  慌てて口を自分の両手で塞ぐと和成を見て頷いた。 『……これ、なんだと、思う?』  和成にそう聞かれて、躊躇いつつも思ったことをそのままに、馨は答えた。 『どっからどう見てもこれ、キスマークっしょ……』 『だろ?』 『ちょっと前に礼二君見た時は、なかった筈だと思うけど……』 『目元の泣き腫らした跡も酷いし、絶対、なにかあったんじゃないかと思うんだが……』  和成がそう言うのを聞いて馨は頷いたが、実際に何があったのかは本人に聞いてみなければ解らない。  礼二に直接、聞けば、あっさり答えてくれるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。  独特の思考を持つ礼二を相手にするのは、翼が一番向いている。  そう考えた、和成は、翼にこのことを話すべきかどうかを思案していた。      和成と馨がそんなやり取りをしている時、翼は一階にある共用トイレの個室を全て開けて見て回り、大浴場へも行って、更衣室、浴槽内、休憩所、見られるところは全て探し終えて肩で息をしていた。 「だめだ……どこにも見当たらない……まさか、裸足で外に出て行ったなんてことは、ない……」  いや、礼二にいたってはそうとは言い切れない。  もしかしたら、靴を履かずに外出したのかもしれない。  突拍子のない行動や言動をするのがデフォルトである彼であれば十分にありうるケースだ。  そう考えて、玄関口まで引き返して外も探してみようか?  そんなことを考えながら広間へと続いている廊下を進んで行くと、来た時と同様にまだ、真澄と龍之介が言い合いをして口喧嘩をしてぎゃあぎゃあと騒ぎを起こしていた。  とはいえ、騒いでいるのは龍之介一人で真澄はいたって平静を保ったままで淡々と毒舌を吐いて龍之介を言いくるめようとしている。     かれこれ一時間半以上もずっと喧嘩している二人の脇を翼は通り抜けようとした。  その時、龍之介がちょうど真澄に肩を掴まれてささやかれた言葉にこの世の終わりといわんばかりの悲鳴を上げた。 「ぎゃあああぁぁぁっ!」 「わかったら、ゲーム機は卒業するまであきらめて、勉学に励むことだ」 「やめろおぉぉーーっ! それだけは、やめてくれぇっ!」 「まじめに勉強すると誓うならね」 「わかったから! なるべく勉強するように心掛けるから、それだけは、やめてくれ……!」  何を言われたのか知らないが、大げさすぎる反応だな……  翼はそんなことを思いながら、二人を見やると、来た時と同様に声を掛けた。 「俺が戻ってくるまでに、兄貴、見かけなかったか?」  翼にそう聞かれて我に返った龍之介が首を横に振りながら答えた。 「いや、見てないけど……翼、まだ兄ちゃん探してんのかっ?」 「ああ。もし、見かけたら俺に知らせてくれ」 「俺も、探すの手伝うよ!」  そう言い出した龍之介を見て真澄がやれやれと言った風に肩を竦めてため息をついた。 「何があったのか詳しい事情は知らないけど、礼二君がまた何か問題でも起こしたのかい?」  と聞かれて、翼は頷いた。  手遅れなのかそうじゃないのかは見つけ出してからじゃなければ解らないので何とも言いがたいのだが、既に結構な人数の他人に迷惑をかけているのだから、それだけでも、既に問題を起こしているといえるだろうと考えてのことである。    「そういえば、礼二君が教室でイスをぶん投げて、叩き割ったガラス窓の修繕費用。 天上院財閥の寄付の一部から支払うように取り計らっておいてやったよ」 「そ、そうか……あ、ありがとう」  真澄がそんなことを自らの意思でしたのであれば何か裏でもあるんじゃないかとつい、疑ってしまう。  龍之介以外の事にまったく興味がなさそうなあたり、礼二と似た様な人種である匂いがするのだ。  幼い頃の礼二と接していて、そう言う人間を判別する目はなんとなく身についているんじゃないかと翼は思っている。  礼二と真澄は、常人には計り知れない、なにか狂気的な闇を抱える同士だと思う。 「龍之介君に言われて仕方なくそうしてやっただけだが、せいぜい感謝するといい」  人を見下すような目でこちらを見ながら皮肉った笑みを浮かべて、そう言う真澄を見て翼は改めて思った。  こいつ、やっぱり、俺と仲良くする気など、小指の先ほども無い。  ……そんでもって、嫌なやつだ。         金持ちで、美形なのはいいのだが、性格がひねくれすぎていて全てが台無しだ。 「真澄が言うことは、気にしなくていいぞ! 俺以外の人間相手には真澄の態度なんて、いつでも、あんなもんだからな」  と龍之介がフォローを入れるが、あからさまにあんな、嫌味な態度で見下されれば、多少なりとやられた側は傷つく。 「入学式が終わってから、職員室前をたまたま通りかかった時に聞いたんだけど、翼の兄ちゃんを生活指導送りにするとか校長が言い出して、くーちゃん(G組担任)が、『今回ばかりは大目に見てやってください』とか、頭下げてたから、真澄に頼んで、そうならない様にして貰ったんだ」  俺と兄貴が知らない間にそんな事があったのか……そう思いながら、やっぱり、今回だけでも、かなりの人数の他人に迷惑をかけていることを痛感した翼は、兄貴を見つけたら、ちょっときつく叱り付けて、人に迷惑かけるようなことはするなと、言い聞かせてやらなければならないな。  とそう考えていた。  翼、龍之介、真澄の三人がそんな話をしながら廊下から大広間まで戻って来た時にちょうど、礼二を背負って来た佐藤も姿を現した。  翼は、佐藤の姿を視認するなり大慌てで駆けつけて、彼の無事を確認した。  頭から足元まで、ざっと見たところどこか欠損してるとか、怪我をしているような場所はなさそうだった。  翼がほっと安心して、一息ついた時にやや遅れて馨と和成も戻ってきた。  とにかく、なぜか佐藤の背中でジャージ姿で寝息をたてている兄の事も含めて詳しい事情を聞かなければならない。  兄貴と佐藤の二人は、なぜかジャージ姿で戻ってきたのだ。  佐藤の方は昼の時点でまだ制服だったかどうか見ていないから、さっき広間にきた時点で兄貴に連れ去られる時に既にジャージ姿だったかもしれないが……  けど、それよりも先に兄が迷惑をかけたであろう佐藤に、謝罪しておかないといけない。 「佐藤、無事でよかった……兄貴に何かされたんじゃないかと気が気じゃなかったんだ」  翼にそう言われて佐藤は首を横に振った。 「特に何かされた訳じゃないから気にしなくてもいいですよ」  佐藤にそう言われて、安心したせいか、肩の力が抜けて、脱力してゆくのに任せて、くずおれるように、その場に膝をついた翼を見て、龍之介が彼の背中を摩る。 「翼っ! 大丈夫かぁーっ!」  そう聞かれて、翼は頷いて顔を上げると佐藤に兄が迷惑をかけたことを謝った。   「佐藤、ごめん。兄貴が面倒かけて……俺が兄貴から目を離したせいでこんな事に……」  教室のガラスを叩き割った件、兄貴が自分の左手に穴を開けるような自傷行為をしたせいで迷惑をかけた人達、それから、兄貴に捕まって何かされそうになったであろう、佐藤に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 「いえ、何もなかったんですから、気にしないで下さい。 それよりも、礼二様と僕、部屋変わりましたから」  佐藤のその台詞を聞いて、翼は頭の中が真っ白になって何も考えられなくなった。  兄貴と部屋を変わった、と言うことは……? 「翼君と礼二様が44号室で同室になったってことですよ」  続けざまにそう言う佐藤の言葉にハッと我に返った翼は立ち上がると佐藤の両肩を掴んだ。 「ちょっ、ちょっと待て! なんだって、そんなことにっ!!!」  翼にそう聞き返されて佐藤は苦笑しながらも平然と答えた。 「礼二様に頼まれたからですよ」 「そうだ、脅されたんだろ?! 兄貴に脅迫されてとかそういうので部屋変わったとかなら、兄貴の言うとおりにしなくていいんだぞっ!!!」     「いや、別に脅されたとかそう言うのでは無いですよ」 「そ、そうか、だからといって俺が兄貴と同室になるとかは……」  ……正直勘弁して欲しい。  今回だけでも、かなり精神的にダメージを受けたせいで、母親のように頭頂部がハゲるんじゃないかと心配になっていたくらいなのだ。  四六時中、何をしでかすか解らない兄と共に過ごすなど考えただけで頭がパンクしそうだ。 「そもそも、礼二様に言うことを聞かせられるような人は翼君しかいない訳ですし、君が礼二様の傍にいて面倒を見てやるべきだと思うんですけど」  と佐藤に言われて、愕然とした。  確かに、彼の言うとおりだ。  今回だって俺がほんの少し目を離した隙に兄貴がいなくなってこの有様だ。  本当は、そうしなければならないことはうすうす解っていた。 「だから、礼二様に首輪とリードでもつけて、翼君が見ていてやるべきです」  終わった……俺のささやかな希望は完全に閉ざされた。  これからは、暗黒の時代の幕開けだ。     佐藤に詳しい事情を聞いたところによれば、兄に掴まって人気の無いところに連れ込まれて、掴みかかられたそうなのだが、ちょうどその時、具合が急に悪くなったらしい兄貴がゲロを吐いて倒れてしまい、至近距離にいた佐藤もとばっちりでゲロを被ってしまい制服がどろどろに汚れてしまったそうだ。  嘔吐物をそのままにしておくと大変なことになるので、片付けてからジャージに着替えたそうだ。  具合の悪くなった、兄貴もそのままにしておく訳にはいかず、汚れを拭いて綺麗にしてから着替えさせて、背負ってここまで連れて来てくれたらしい。  佐藤、なんて、いいやつだろうか。  普通に考えたら、赤の他人の嘔吐物なんて汚くて、触りたくないし片付けるなんて絶対に無理だ。  俺は、佐藤に、心から礼の言葉を述べる。 「ありがとう……ヘタしたら兄貴に何かされてたかもしれないのに、ここまでしてくれて、なんて礼を言ったらいいか解らないが、本当に有難う。 それからすまなかった」  それから、深々と頭を下げて兄貴の変わりに謝罪した。 「そんな、やめてください。 礼を言われるようなことも、謝罪されるようなことも何もしていないしされてませんから。 美空君、顔を上げてください。」  そう言って佐藤は、俺を安心させるように穏やかな笑みを浮かべながら、肩をぽんと優しく叩いてくれた。  不覚にも目頭が熱くなってしまい大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ちるのを止められなかった。  小さい頃の記憶を辿ってみても今まで、兄貴に何かされそうになったヤツでここまでよくしてくれたヤツは初めてだ。  大体は蔑み、あざ笑うか、見下すか、奇異の目で見るかのどれかだった。 『お前の兄ちゃん頭おかしいだろ!』 『やめとけって、そいつ、アレの弟だから、話しかけたら、おかしいのが染るぞ』 『やべえぇぇ! 逃げろ!』 『こっちみんな、バロス!』  そんな心無い言葉を同級生の近所のクソガキ共にぶつけられるなどしょっちゅうだった。  でも、兄貴にはそのことは、一切話してはいない。  そんなことを話せば兄貴は俺をいじめたやつらに報復するかもしれないからだ。  しかも俺がいじめにあった原因が自分だなどと知ったらいじめをしたやつらと心中でもしかねない。  なんの躊躇いもなく、自殺するだろう。      小学校低学年のころ兄貴と酷い喧嘩をした時は(ずっと我慢し続けていた俺が一方的に兄貴にぶちまけただけなのだが)兄貴は俺にいろいろ言われた後、癇癪を起こして大泣きして、そのまま、玄関を裸足で飛び出して、自宅のマンションの屋上にまで駆け上がっていき、躊躇うことなく、飛び降りた。  幸い、その日は父親が休みで自宅にいて、後をすぐに追いかけて、追いついた親父が間一髪のところで兄貴の首根っこを引っつかみ引き戻して、事なきを得たことがある。  もし、父が間に合っていなければ兄貴は頭から真っ逆さま落ちて頭蓋骨を強打して即死だったに違いない。  そんな事件があった後で俺は兄貴と仲直りして、母や父に兄を刺激するようなことは絶対に言うんじゃないときつく釘を刺された。  そんな感じで父さんも母さんも兄貴にばかり、かかりっきりで俺は弟なのにずっと我慢ばかりさせられてきたのだ。  けれど、もしあの時兄貴が、死んでしまっていたらと思うと、ぞっとする。  あんなんでも、俺のたった一人の兄貴だからとそう思う。   兄貴はそういう心の闇を抱えた人間なのだ。  どういう病気なのかとかは、難しすぎてよくは解らない。  情緒が常に不安定で、誰かに見てもらいながらでないと日常生活を送るのは困難であると幼い頃に行った精神科で過去にも診断されている。  そんな危なっかしい状態の兄貴を隔離病棟に入院させて一応のところは矯正されたとみなされ、退院してきたとはいえ、この学園に一人で入学させることを許した父にどういった考えがあってのことか等、後で兄貴の携帯を借りて直接、詳しい事情を聞かなければならない。  翼は制服の袖でごしごしと涙を拭ってから顔を上げると、佐藤の背中で今だすやすやと寝息をたてている兄の顔を見やる。  眠ってる表情は穏やかで、幼さ、あどけなさが残っている。  その兄の表情をみてやれやれとため息をついてから、顔を上げると、佐藤の腕にぶら下がっている紙袋に気付いた。  嘔吐物に汚れてしまって着替えたといっていたから兄の汚物塗れの制服が入っているのだろうと思った。  さすがに、そんな最悪の状態の制服を佐藤に洗わせる訳にもいかないのでその紙袋を翼は掴んだ。 「この紙袋の中に二人分の汚れた制服が入ってるんだろ? 俺が洗ってクリーニングにだすから貸してくれ」  佐藤の制服も兄の嘔吐物塗れでとてもこのままじゃ着られないだろうし、せめてそれくらいはさせてもらわなければ気がすまない。  佐藤の分と兄の分の制服を手洗いしてクリーニングに出して料金を自分が払おうと思ってのことである。    翼に腕に引っ掛けてぶら下げている紙袋をつかまれた佐藤は何故か、はっと驚いたような表情をして首を横に慌てて振って翼の提案を却下した。 「いえ、僕が洗ってクリーニングに出しますから、翼君は気にしないでください!」  慌てた様子でなぜか意気込んでそう言う佐藤を不思議に思いながらそんな訳にはいかないと、無理やり紙袋を受け取ろうと引っ張った。 「いやいやいや! 本当にっ! そうだ、その、僕は洗濯とかそういうのが好きだから、だから寧ろ僕に洗わせてくれると嬉しいというか……」  と、しどろもどろになりながらそう言い出した佐藤に翼がきょとんとした表情で固まった。  しかし、彼がそこまで言うのであれば、無理やり、奪い取ってまで自分が洗うことも無いかと考えた翼は紙袋から手を離して、礼を言った。 「悪いな……なにからなにまで有難う」  佐藤は紙袋から手を離した翼を見てなぜかホッとしたような表情になり落ち着きを取り戻した。  翼はごそごそと自分のズボンの後ろポケットから財布を取り出した。 「じゃあ、せめて、クリーニング代金だけでも持たせてくれ。 じゃないと、こっちの申し訳が立たない」  そう言った翼の言葉に今度はしぶしぶながら頷いた佐藤が礼二を負ぶさったままの状態で手の平を差し出した。      翼はその差し出された手の平に、二人分のクリーニング代金を置いた。  代金を受け取った佐藤はジャージのズボンのポケットにそれを仕舞い込んだ。 「どうも、ありがとうございます」  そして、微笑みながらそう翼に礼を言った。 「いやいや、お前が礼を言う必要なんてこれっぽっちもないぞ!」  翼は慌てて礼を言う佐藤にそんなことを言った。  二人のそんなやり取りをみながら、和成は、例のキスマークの件を翼に言うべきかどうか考えていた。  言うのであれば佐藤がいる時には言い辛いから、彼がいなくなったのを見計らって言い出そうと思っている。 「……馨」  和成にそう声を掛けられて、特に何も考えずに呆けていた馨が返事を返す。 「ん? なんだい、和成君」 「……佐藤が背負っている、美空の兄貴を引き取って来い」 「というと僕が礼二君を背負って、彼らの寮室まで運べばいいってことだね」 「そうだ。佐藤がいたままだと例の件を美空に切り出しにくい」 「あ、やっぱり、翼君に教えてあげるつもりなんだ?」 「なんだ、その含みのある言い方は……」 「僕は、やめておいた方がいいと思うんだお」  そう言った馨を見て和成が顎に手を宛てて思案する時のポーズになり考え込んだ。 「今は、まだ、様子見していた方がいいんじゃないかな? 佐藤君が礼二君にマーキングしたっていう確定したわけじゃないし、実際はどうなのか、調べてからでも遅くないんじゃない?  それに、あれだけおおっぴらに見えるところにまで印が残ってるんだから嫌でもそのうち翼君も気付くだろうし、今は、とりあえず余計な介入はしないほうがいいんじゃないかなぁ、と……思うんだけど」  馨にそう考えを述べられて、納得した和成は頷いた。 「……まあ、そうだな」 「でしょーー?」 「けど、ずっと佐藤が翼の兄貴を背負ったままでいるのは、いい加減疲れてるだろうから、お前が変わってやれ」 「あいよ」  和成にそう言われて馨が佐藤の下へと礼二を引き取りに行く。 「佐藤君っ! ずっと礼二君背負ったままでいたし、疲れたでしょー? 僕が背負うの変わるから、礼二君こっちによこしてっ!」  と声を掛けた。   「別に、疲れてはいないですけど「いやいや、君自身がそう感じていても疲れと言うものは次の日にどっと出たりするし、気をつけたほうがいいんだよっ!? それに君の寮室よりか僕らのが翼君が変わった部屋の一つ隣で近いし、だから、僕が背負って連れて行くから、はいっ!」  と、佐藤が言いかけた台詞を馨が遮って、膝をついて背中を向けて礼二をよこすように促した。  そこまでされて、断ると不信がられるかと思った佐藤はため息をついてからしぶしぶ馨の背中に礼二を移した。  礼二を背中に乗せられた馨は、彼をおぶさって立ち上がると、意外な軽さに目を丸くした。 「つか、軽っ! 和成君より身長あるのに礼二君のが明らかに軽いっ!」 「……それは、遠まわしに俺が太っているといいたいのか?」  和成にそういわれて、馨は慌ててぶんぶんと首を横に振った。 「いやいや! 礼二君が軽すぎるって言いたいだけですよっ! 和成君は、ほら、和彦さんに鍛えられて筋肉ついてるし、その分重たいのは当然なわけで……もしかして、妬いてるいるのかいっ?」 「そんなわけあるか! バカオルがっ!」  また、夫婦喧嘩を始めた二人にあっけに取られながらも、佐藤はホワイトボードの前に立つ先生のところへ行き、礼二と部屋を替わった件を伝えた。 「お互いに納得済みで部屋を変わられたんですね。 解りました。 学園長と貴方達の担任にそのように報告しておきます」  と、先生が了承してくれたので、部屋変えは滞りなく完了した。  翼はこんどは馨の背中で眠りこけている兄を見やると盛大にため息をついた。  これで、本当に、兄貴と俺は正式にルームメイトになった訳か……  そんなことを考えて肩を落とした。  ありきたりでも、普通でも、平穏な学園生活を望んでいたのに、そのささやかな希望すらかなえられなかったことに、少々落ち込んで落胆していた。  これから、四六時中兄貴の面倒を見なければならないのか……と。  暗雲の立ち込める学園生活はまだ始まったばかりだ。  

ともだちにシェアしよう!