13 / 152

翼と礼二の過去【後編】

 俺の家族は、もう、きっと元には、戻れないだろう。  完全に何もかもが壊れてしまった。  俺が、何もしなかったせいで、動かなかったせいでもう何もかもが……  もう、すでに、取り返しがつかないと思った。  兄が自殺未遂を起こしたあの日。  母が呟いたあの言葉―――  シネバヨカッタノニ  思えばあの時からすでに、母親の中で兄はひたすら、邪魔で仕方の無いわずらわしい存在でしかなかったのだろう。  おかしくなる前の母親は、ずっと一人きりで、何をしでかすか解らない兄から片時も目を離さないように、自らの時間をすべて犠牲にして生活していた。  そんな生活を続けていた結果、肉体的にも精神的にも、疲労が限界に達して異常をきたし、手の平が血に染まるまで自らの頭をかきむしり、大量の毛髪を頭皮ごと引き抜いて、窓ガラスを素手で割り、部屋中にあるあらゆる全てのものを破壊しつくして、悲鳴を上げて、自分はもう限界だと叫んで、大声で泣いた。  まだ幼かった翼はそんな壊れてしまった母親を見て、兄が怖くなった。  自分もいつかは母のようになってしまうのではないかと、心底、恐怖した。  その日、夜遅くまで仕事をして深夜に帰宅した、父が目にしたものは、ぐしゃぐしゃにあらゆるものが破壊されつくして散らかった部屋と、血溜まりに倒れ付した、自らの妻。  そして部屋の片隅でうずくまり、耳を塞いで、硬く目を閉じ、震えている翼と、その傍らに、なにが起きたかを理解できていないような、不思議そうな顔をした礼二が座っていた。  母親が病院へと搬送されて入院する事になり、何回か父につれられて見舞いへと行った記憶がある。  面会に行った時に見た母は病室のベッドに呆然とした表情で座り込んでいた。  その茫然自失とした横顔には明るく気丈だった頃の面影はなく、あるのは、疲れきってやつれた、弱々しい母の姿だった。  その妻の痛々しい横顔を見て父は礼二を引き取り一人で面倒を見ようと決意した。  あの日から、崩壊する歯車はきっと加速しだしていた。  きっとなんとかすることができたのは、俺しかいなかった。  けど、結局俺は何もしようとはしなかった。  こんなことになってしまったのは、俺のせいだ。  翼はそう思って歯をくいしめて黙って父親の話を聞いていた。 『私もなんとか礼二とまた二人で暮らしていこうと努力はした……』  電話口の向こうでそう言う父親の声は震えていた。 『母さんを、あんなになるまで、ほったらかしに、してしまった、父さんが、こんなことじゃ、駄目なのはわかっている……』  途切れ途切れにそういう父親の語尾がだんだんと掠れてゆく。  多分、必死で涙をこらえているのだろう。 『父さんがしている事は逃げなんだろうな、きっと……』  翼は何故父親が兄をこの学園に入学させたのかを察した。 『じゃあ兄貴がこの学園に入学してきたのは……』 『ああ。学園内に診療所がある若草学園を見つけだして礼二に受験するように言ったのは私だ』  父親から事情を詳しく聞いて、やっと何故兄が二年遅れでこの学園へ入学してきたのががわかった。      父も父なりに退院してきた兄と二人でまた暮らしていこうと、一生懸命だったのは本当だと思う。  けど、自分をその手に一度はかけようとした相手となど、普通に考えたら、やっていけるはずがない。 『この学園ならいろんな設備が整っているし、礼二がいつか私がいなくなって独りで生きていかなければならなくなった時の為にも、集団生活に慣れさせるのも必要だと思ったんだ』  確かに、今のままでは兄はとても一人きりでは生きてはいけないだろう。  周りの人間のことなど露ほどにも気にせずに自分のやりたいことだけして好き勝手になど、生きていけるわけが無い。 『それに、私自身もまた、礼二と暮らしていけるようになるには、時間が必要なんだ。  今のままでは、とても礼二と一緒に暮らしていくことなど出来ない……』  まだ気持ちに整理がついていないのと、トラウマを克服できていないのだろう。 『すまないが、翼、礼二のこと、頼む……』 父が心から申し訳ないというように震える声でそう言うのを聞いて俺は、静かに頷いて 『うん。わかった』 そう、短く返事をした。 返事をしたあとで、父の微かな嗚咽が聞こえてきた。       『すまない……本当に……母さんがあんなになってしまったのは私のせいだ……  それなのにその上、今度はお前、一人に礼二の面倒を押し付けるような、真似を……』 自分を責めてそう泣きながら途切れ途切れに言う父親を落ち着かせようと、翼は、口を開く。 『大丈夫だ。兄貴は俺の言うことなら聞くし、何とかやっていけるから、父さんは、自分の体のことを考えて大事にしていてくれよ』 『翼……ありがとう』 泣きながらそう、礼を口にする弱々しい父の声を聞いて、余計に胸が苦しくなった。  今までずっと逃げてきた自分も、兄と向き合わなければならないと、翼は静かに決意していた。  父さんも母さんも、兄と向き合おうと努力して苦しんだんだ。  それでもダメだった。  そんな二人を責める資格は俺にはない。  俺は、母親が発狂したあの日に兄が怖くなってからというもの、今まで、兄と向き合うことすらせずにずっと、逃げてきたのだから……      今までを振り返ってみて俺は、一度でも、兄のことを本気で、理解しようとしたことがあっただろうか?  ずっと、逃げてばかりで、まともに会話したことすらないのでは無いだろうか?  兄と真剣に向き合ったことが今まで、一度もなかった。  兄が、普通の人間と少し違う存在だと気付くまではそれなりに仲良くやっていたと思う。  まだ兄弟にわだかまりもなく仲が良かった、そんな頃に遊園地へと遊びに行った時に父に撮ってもらった写真を兄は鞄に入れて大切に持ち歩いている。  よれよれになったその写真には涙でふやけて乾いて変色したようなあとも残されていた。  その写真を見つけたとき俺は、一人でその写真を眺めて、泣いていただろう兄を思って胸が苦しくなった。  ……兄も、兄なりに辛かったのだろう。  みんなそれぞれに苦しんで辛い思いをしてきている。  俺も、もう逃げるのはやめにして、どんな現実でも、受け止めて、向き合う覚悟をしなければならないと思った。 『私がこんなこと聞くのは、おこがましいのだが……最近の、母さんの調子はどうだ?』  そんなことをふいに聞かれて、翼は近況をありのままに父に伝えた。 『大丈夫。以前と比べたらだいぶ元気になって、再婚相手とうまくやってるよ』 『そうか……なら、よかった』  父は翼から元妻の近況が落ち着いていることを聞いて安心したような声でそう返した。         兄のことを任されたのはいいが、学費を自分で支払うためにバイトに出ている間の面倒をどうするか、考えていなかったことに気がついて、翼はハッとして額に手を宛てた。 『父さん……俺、バイトしなきゃいけないから、その間は兄貴の面倒が見られない』  事実は事実なので仕方なく翼は父にそう伝えると父は不思議そうな声を上げて答えた。 『バイト? どうしてもしなければならないことなのか?』 『いや、だって学費、俺が自分で稼いだ金で支払ってるし、バイトしなきゃ払えないだろ?』 『……変だな。母さんの口座に毎月、翼の養育費を振り込んでいるし、学費くらいなら支払えるようになっているはずだが……』  そう不思議そうに言う父の言葉を聞いて、翼は盛大にため息をついた。  そうだったのか……  父が養育費を毎月支払っていることすら翼は、はじめて聞いたのだが、多分、母が使い込んでいるのだろうと思った。  ブランド物のバックや装飾品などいやに羽振りがいいのは再婚相手が金を持っているせいだと思っていたのだが、実際には父が毎月、翼の養育費として支払っていた金を使い込んでいたのだろう。  『父さん……多分、それ、母さんが使い込んでいて、残って無いと思う』  翼は仕方なく父にそう話した。 『そ、そうか……なら、翼の口座に振り込むようにすれば問題ないんだろう?』  父にそう言われて翼は、頷いて返事をした。    『あ、ああ。 母さんには教えてない口座を持ってるからそこに振り込まれれば、大丈夫だと思う……』 『じゃあ、あとでメールででも振込先を教えておいてくれ』 『わかった……でも、急に養育費が母さんの口座に振り込まれなくなったら、母さんが何かいいだすんじゃないか?』 『そのへんもふくめて、明日あたりに母さんに話をつけておくから、すまないが、礼二の面倒を頼む……』 『わ、わかった』  とりあえず、俺が自腹で学費を支払わなければならない事態は回避できたようだ。  その代償が兄の面倒を見ることで、あまりにも大きすぎるのだが、覚悟を決めたのだから、何とかやっていくしかない。  父と久しぶりに会話して、そのあとは取り留めの無い話をして、何かあった場合は連絡すると父と約束をしてから、翼は携帯の通話ボタンを切った。  そのすぐあとに、自分の口座の振込み先の詳細などをメールに打ち込んでから送信ボタンを押した。  翼は、緊張していた肩をほぐすように伸びをして、立ち上がり、兄の携帯を元の鞄の中へと返しておいた。  いまだ、すやすやと寝息をたてている兄を見て、また盛大にため息をついた。  父を殺そうとしたことを責めるつもりは毛頭無いのだが、それを知って穏やかでいられる自信が翼にはなかった。

ともだちにシェアしよう!