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花見〜新任歓迎会〜【1】

    礼二がすやすやと寝息を立てて、完全に寝入ったのを見届けると、繋いでいた手をそっと外して、掛け布団を整えて、椅子から立ち上がり、軽く伸びをしてサイドボードの上に置かれたデジタル時計を見遣る。  ふいに気になって、今、何時くらいかを確認した。  ――PM:5:52  カーテンの隙間から見える空は暮れ始め茜色に染まり夜へと移り変わり始める時間だった。  茜色から紫、紫から藍色へと空が美しいグラデーションを描き、学園内のそこかしこに植えられた桜の木々から花びらがヒラヒラと舞う光景はどこか幻想的だった。  カーテンの隙間からしばらくその光景を眺めていた翼だったが、カーテンの隙間を完全に閉めきると部屋中に乱雑に置かれたままの段ボールの整理に取り掛かる。  ある程度必要不可欠と思われる品が入れられた段ボールを優先的に整理して片付けてゆき、黙々と作業に没頭し始めた。  今日から3年間、この部屋で兄と二人で暮らしてゆくのだ。  兄は危なかっしくて家事は一切やらせられないから部屋を整理する手伝いとしてもあまり使えそうにない。  ある程度、部屋を整理しておかないと後々大変になるのは自分だと思った翼は黙々と作業を進め、半分以上の段ボールを開けて中身を整理し終わると、軽く肩を叩いて、ずっと俯き加減で作業に没頭していた為に固まってしまった首を左右に動かして解してから立ち上がる。  喉が渇き、台所へと向かい、コップを手に水道水を注ぎ入れて一気に飲み干して、一息入れてから冷蔵庫へと向かい、開けて中身を確認する。  何も買ってきていないのだから何もないのはわかっていた。  翼はそれを見て、溜め息をつくと、食料が一つも入れられていないかわいそうな真新しい冷蔵庫の扉を閉める。  明日の朝食の事もあるし、買い出しに行かないといけないだろう。  そう思って翼は寝室へと戻り、兄がちゃんと寝入ったままかを確認して、自分の学生鞄を手に取ると中身を開けて財布を取り出して、玄関へと向かう。  兄が目を覚ます前に買い物を済ませて戻って来なくては……そう思って足速に一番近くにあるコンビニへと向かった。      翼が寮館の玄関を出て、外へと出掛ける頃には既に日はとっぷりと暮れて、暗くなっており、すっかり夜へと移り変わっていた。  時計変わりに使っている携帯電話で時間を確認する。  ――PM:7:45  と表示されていた。  確か、この学園の校則では夜9時以降は外出禁止と生徒手帳に書かれていたはずだ。  ちょっと、いそがないと寮につく頃には9時を過ぎてしまうかもしれない。  翼はそう思って足早に、コンビニへと向かい辿りついて、自動ドアをくぐり抜けて買い物カゴを手にして、まずはパンコーナーへと向かい食パンを手にした。  食パンと牛乳と6個入りの卵パックとハム、チーズを買い物カゴへと入れてゆく。  あとサラダ油と調味料の類も必要最低限の物をカゴへとどんどん投げ入れてゆく。  最近のコンビニは生野菜や肉や魚、豆腐等の食品も売られていてかなり便利になってきていると思う。  翼は自炊はあまりした事がなく0から調理するのは自身がなかった為、出来合いの冷凍食品を物色していた。 「あ、あの、じ、自分は下戸なのでノンアルコールのビールを所望しますぅ~」 「ああん! ざっけんな! 却下だ却下!」 「和彦先生、無理矢理、飲ませるのは……」  背後からふいに聞き覚えのある声がして(最後に聞こえてきた声は初聞きだったが)翼が振り返って声がする方を見遣ると、翼のクラスのG組担任である西野と、礼二が怪我をした際に世話になった保健医、和彦の姿があった。  その二人以外にあともう一人。  艶やかな黒髪に黒耀石のような瞳を持つ、銀縁の眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気のスーツ姿をした男がいる。  目鼻立ちがまるでモデルのように整っていて、背も高く、スタイルもいい。  どっからどうみても、いわゆる美形と呼ばれる部類に入る人種だ。  酒類が置かれているコーナーでたむろしている教師陣に気付いた翼は一応挨拶だけでもしていったほうがいいかと思いその三人へ声をかけた。      騒がしい教師陣の元へと向かい翼は恐る恐る「こんばんは」と声をかけて通り過ぎようとした。  が、和彦に肩をつかまれて引き止められる。 「おお! 美空翼じゃねぇか!」  フルネームでそう呼ばれて、翼は和彦達の方を向いて軽く会釈をした。 「あれからどうだ、兄の方の具合は?」  と続け様にそう聞かれたので翼は「大分落ち着いて、今は眠ってます」と答えた。 「おぉ! そりゃよかったな! このまま、あんま、無茶させずに安静にさせとけよ」 「は、はい」  和彦にそう言われてバンバンと肩を叩かれて、翼はやや眉をしかめながら返事を返した。  和彦と翼がそんなやり取りをしている最中、背後にいる西野ともう一人の黒髪眼鏡の男はカゴに大量に入れられている酒を元の場所へと戻していた。 「って、おめぇら、さっきから何、勝手に酒を元の場所に戻してやがんだっ!」 「西野先生が飲まないならこんなに大量にお酒、いらないでしょう」  黒髪眼鏡の男に淡々とそう返されて和彦は不機嫌そうな顔になり西野の肩を掴んだ。 「おめーも男なら酒の一本や二本ガッと行けガッと!!!」  そんな無茶苦茶な事を言い放つ和彦を涙目で見上げながら西野は首を左右にぶんぶんと振りたくってそれを拒否した。 「和彦先生。あんた医者の癖に飲めない人に無理矢理飲まそうとしないで下さいよっ!」  黒髪眼鏡の男が西野の腕を取って、自分の方へと引き寄せながら和彦を咎めるような事を言った。  和彦はもっともな事を言われて、小さな子供が拗ねた時のようにむっとした表情になり頬を膨らませた。 「そんな顔して拗ねたって駄目なものは駄目です! だいたいあんた今年で幾つになるんですか……」  黒髪に銀縁眼鏡をしたその人にそう叱責されて和彦はさらに不機嫌な顔をして答えた。 「43だ! 文句あっか!」  翼は唖然としながら教師陣のやり取りを見ていたが和彦がそう答えたのを聞いて、我に返って驚愕した。  今年で43歳を迎えるというその保健医はどうみたって20代にしかみえない。    これまでも、童顔で多少、若々しい人を見たことはあるが、ここまで実際年齢より若く見えるという人を見るのは初めてだった。  保健医の若作りはちょっとどころか、かなり異常なのではないかと翼は思った。  翼がそう考え込んでいると、西野にふいに声を掛けられた。 「美空君。 あの、その、今朝はいろいろと迷惑をかけてしまって……本当に、すみませんでした」  プリントをばら撒いてしまった事や転んだ時に翼に助け起こしてもらった件のことを言っているのだろう。  翼は、慌てて首を左右に振り、それを否定すると、西野に顔を上げるように身振り手振りで促した。 「自分がクラスを纏められなかったせいで、牛山君が窓ガラスを叩き割るようなことをしでかしてしまって本当に申し訳ないと……」  と続けざまに涙目で西野が、そう言った。 「西野先生が謝る必要は、ないです。 いろいろと迷惑をかけたのは兄のほうですから……! こちらこそ、兄がご迷惑をおかけして申し訳なかったです!」     入学式当日に自分のクラスの窓ガラスを派手に叩き割って生活指導室送りにされて、停学処分にされるところを、校長に頼み込んで、大目に見てもらえるように頭を下げたのはG組の担任である西野だ。  寧ろ、翼のクラスの担任である西野に迷惑をかけたのは礼二の方だ。  翼と西野が互いに頭を下げあって謝罪をし合っていると、和彦とずっと言い合いをしていた黒髪に眼鏡の男がこちら側を振り返る。 「西野先生のクラスから物凄い破壊音が響いてきて、何事かと思っていたのですが、そういうことだったんですか」  アレだけ派手にガラスを叩き割れば、かなりの騒音で相当離れた場所でもなければ、嫌でも聞こえてくるだろう。  黒髪に眼鏡をかけたそのひとは翼に手を差出すと自己紹介をした。 「どうもはじめまして。 俺はF組担任の手塚 敦と申します。どうぞよろしくお願いします」  そう言って翼に握手を求めて手を差し出した。  隣のクラスの担任だったのか……そうであれば、ガラスを叩き割る、破壊音が聞こえてきたのも無理はない。  翼は、差し出された手を握り返して、会釈をして自分も慌てて自己紹介を返した。 「美空翼です……その、お騒がせしてすみませんでした!」  翼がそう言って頭を下げるのを、手塚は手振りでやめるように促す。 「いえ、美空君が悪いわけではありませんから。顔を上げて下さい」  と柔らかい微笑を浮かべながら翼を安心させるように軽く肩を叩いて言う。        言葉使いが丁寧で物腰も優雅なその人は、保健医である和彦とは真逆の人物であるように見えた。  言葉使いが乱暴で、ぶっきらぼうな感じの和彦と違って、落ち着いた雰囲気と包容力を持っている。  なにより、声だけ聞いていても、何故か心地良いのだ。  美声と言うヤツだろうか?と翼は思いながら、顔を上げる。 「俺も少しくらいなら美空君の気持ちが解るつもりです」  と、手塚に言われて慰められるも、どういうことなのかいまいちよく解らない。 「は、はあ……」  とりあえず、はっきりとしない返事は返すも、自分の気持ちが解るという台詞に、どういったニュアンスが含まれているのか?までは汲み取ることが出来ずに翼は考え込んだ。 「自分より年上の相手を注意しなければならないというのは、精神的にかなりの苦痛を伴いますからね」  と手塚が眼鏡を指先でクッと押し上げる仕草をしつつ、そう言ったのを聞いて翼は、そういうことかと合点がいき、全くそのとうりであるという風に頷いた。  背後で酒類が入った籠を手にぶつくさ言いながら拗ねていた、和彦が手塚の台詞を聞いてしばし考え込む。 「…………」  遠まわしに自分の事を言われているのだと気付かないところをみると、保健医はかなり鈍感なのだろう。  西野が元の場所に戻した酒を綺麗に並べ終えて、和彦の持っている籠に緑茶とノンアルコールのビールを持ってきて入れる。  それを見て和彦はつまらなそうな顔をしてぼやいた。 「くーちゃんが、この若草学園が正式に就任した初の学校で新任だからわざわざこうやって新任歓迎会を兼ねた花見をしてやろうってのに……」  とぶつくさ子供が拗ねたときのような顔をして言う。 「そ、それは、ありがたいのですけど、明日もありますし、その、あの、す、すみません」  と急激に下がってしまったらしい和彦のテンションを上げようとするも、どう慰めたらいいのかわからない西野が、しどろもどろになりながら、なにはなくともとりあえず謝っていた。

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