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見る者見られる者そして繋がり【3】
礼二の口端に白い液体が伝っているのを見て翼はハッとして昨夜の出来事をうっかり思い出しそうになった。
礼二が小さな口いっぱいに翼のモノを咥えてすすり上げ奉仕している時の姿が脳裏にぱっと浮かんで、翼は慌ててその記憶を消し去ろうと頭を左右に振りたくった。
最後の一口を礼二の口へと運び、食べさせ終わってから翼は用意していたハンカチで彼の口元を慌てて拭き取って綺麗にしてやった。
翼は頬を少し赤らめつつ空になったおかゆの器を礼二から受取ってサイドボードに置いて、今度は馨が作ってくれたスープが注がれた皿とスプーンを手に取り礼二に手渡して自分で食べるように言った。
「野菜スープはちょうどいい具合に冷めてるしもう、自分で食べられるだろ」
翼にそう言われて礼二は少し残念そうな顔をして手渡されたスプーンでスープを掬って口に運ぶ。
「そのスープ、僕が作ったんだよ」
馨が何気なく言ったその台詞を聞いて礼二はスープを零しそうになった。
「あ、でも、翼君がレンジで茹でた野菜を使って作ったやつだから……」
そう続けて言われて、礼二は複雑そうな表情をしてスープをすすって飲み下した。
うっすらブイヨンとバターの風味が効いていて、素材そのものの甘味も感じられる。
味は申し分ないが、味付けをしたのは馨だと思うと少々複雑な気持ちになった。
礼二は馨のことがあまり好きではない。
というより気安く翼に触れたり話しかけたりしてくる奴は礼二にとってはみんな疎ましい存在だ。
「兄貴、野菜嫌いだったか?」
翼にそう聞かれて礼二は首を左右に軽く振ってそれを否定した。
とくに好き嫌いはない。
翼が作ってくれたものなら何でも食べられる。
野菜スープも最後の一口まで飲み終えたのを翼が確認して礼二から空になった皿とスプーンを受取った。
お粥の皿とスープ皿を重ねてボードの上に置いて整理してから、翼はすぐ下の引き出しを開けて常備薬を取り出した。
昨夜のうちに寝室にあるサイドボードの引き出しに救急ボックスと常備薬を入れて生理整頓しておいた。
どこに何の薬があるか一目瞭然になるようにしておけば、怪我をしたり体調を崩しがちな礼二にすぐに薬を与えられると考えてのことだ。
翼は風邪薬を取り出して、ボードの上に昨夜から置きっぱなしで未開封のミネラルウォーターのペットボトルを取り、礼二に手渡した。
粉薬だから効き目は早い奴だと思う。
礼二は風邪薬と水を受取って、それをじっと見ている。
「それ飲んだらまた寝ていいぞ」
礼二は頷いたが粉薬の封を開けて翼に差し出した。
「飲ませて……くちうつしで」
礼二のその言葉を聞いて翼は顔を茹蛸のように真っ赤にして硬直した。
背後でサンドイッチをほおばっていた和成は思わず口の中のものを噴きそうになり、馨はグラタンスープを口に運ぼうとしたスプーンを途中で止めてこちらを見ていた。
「あー……俺達のことは気にするな……いや、邪魔なら席を外しておく」
「僕らは僕らでキスしたりペッティングしたりするから気にしなくてい……って、ぐほぉっ!」
和成が耳まで真っ赤にして馨の額をグーで殴って黙らせた。
和成はサイドボードに置かれた空になった器と食べかけのサンドイッチを片手にソファーから立ち上がった。
馨の肩を叩いて彼にも席を立つように促した。
「それじゃ、なにかあればすぐに呼んでくれ」
和成は翼にそう言い残してそそくさと寝室を出て行った。
「台所の後片付けしておくから、僕に任せて兄弟水入らずでゆっくりしていってねっ!」
へらへらと笑いながらそう言って、馨も食べかけの昼食を手に、和成の後を追って翼に軽く手を振ってから寝室を出て居間へと向かった。
和成と馨が出て行くのを呆然とした面持ちで見ていた翼だったが、礼二が封を切って差し出したままの薬袋を受取った。
その薬袋をそのまま礼二の口元へと持っていき、粉薬を飲ませようとした。
礼二はいやいやと首を左右に振って唇をぎゅっとかみ締めて閉ざしそっぽを向いた。
「わがまま言わずに飲みなさい!」
翼に言われて礼二はふて腐れた顔で頬を膨らませた。
「やだやだー! くちうちゅしーっ!」
両手をじたばたと振りたくって駄々を捏ねる礼二を見て翼はため息をついた。
言い出したら梃子でも聞かない礼二の頑なな態度に痺れをきらせた翼は覚悟を決めて口移しで飲ませてやることにした。
本当なら、叱り付けて、ちゃんと自分で飲まないとキライになってやるとか脅して飲むように促してやるところだが、今の礼二は病人だ。
精神的に追い詰めるようなことを言っては病状が悪化するかもしれない。
礼二の思うとおりにしてやって満足させてやれば大人しく寝てくれるはずだと、翼は粉薬をさらさらと自分の口の中へと流しいれた。
粉薬の粉末が舌に触れた瞬間、苦くて渋い味が口いっぱいに広がった。
えずいて吐きそうになるのを堪えてサイドボードの上に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを急いで手に取るとキャップを開けて、口をつけた。
飲んだ水で粉末の薬が咥内で溶けて広がったのを感じながら翼は礼二の頬に手を宛てた。
礼二は唇を薄く開いて目を瞑って翼が口移しで薬を飲ませてくれるのを準備万端で待っていた。
翼は固く瞼を閉じて薄く開いた礼二の桜色の唇へと口をつけて、そのまま自分の咥内に溶けて広がる液状の風邪薬を流し込んだ。
零さないように舌を差し込んで風邪薬を少しづつ伝わせて、口の中へと流し込んでやると礼二は躊躇うことなくそれを味わうようにコクリと嚥下していく。
翼から口移しで与えられるものであればなんでも美味しく感じる礼二は嬉しそうにその液体をもっととねだるように啜り、舌を動かして本当ならただ苦くてまずいだけのはずのその液体を飲み干した。
風邪薬を全て飲み終えた自分の唇から翼が離れていくのを名残惜しげに、とろりと潤んだ瞳で見上げて礼二は口端に伝う雫も指先で掬って口へと運び舌先で舐めとった。
苦くてまずいだけのはずの、風邪薬も精液も翼が与えてくれるものであれば礼二にとっては全て大好きなものだ。
「…………」
深くて長いキスをした後のような余韻に浸ってしばらく無言で見詰め合っていた二人だが、しばらくして翼がはっとして我に返り、ベッド脇にあるイスから立ち上がって、クローゼットがある場所へと行き、昨日仕分けたばかりの衣服類が放り込まれた半透明のプラスチックで出来た衣服棚を漁る。
中から礼二のパジャマと下着を取り出して、クローゼットを閉め、礼二がいる場所に戻ってきた。
「ふう……兄貴、とりあえず、まず、これに着替えろ」
そう言って翼にパジャマと下着を手渡されて、礼二は頷くとすぐに制服を脱ぎ始めた。
ネクタイを外し、ブレザーのボタンを外して脱ぎ、素肌に直接着ているシャツもボタンを外していってするすると脱いで腕から外してゆく。
翼は礼二が脱ぎ捨てた丸まったシャツを受取ってブレザーとネクタイも拾って綺麗に整えて皺を伸ばした。
シャツと下着は洗濯してブレザーとネクタイは着まわしなのでハンガーにかけなくてはと考えながらふと顔を上げると上半身裸になってズボンのチャックを下ろして脱ぎ始めたばかりの礼二の白い裸体が目に入って翼は頬を紅潮させる。
礼二の真っ白い、鎖骨や首筋や胸にはまだどこの誰か分からない男に付けられた赤い印が散らばっていて、見ていて痛々しかった。
花びらのような赤い印を見ていると、礼二にそれをつけた相手に対する怒りや、憎悪や、嫉妬のような感情が沸々とこみ上げてくるのを感じる。
どろどろとした感情が混沌として翼の胸の奥深い場所で渦を巻いている。
ああ、吐きそうだ……。
翼は額に滲んだ嫌な汗を拭いて、口元に手を宛てて、気持ち悪さをやり過ごそうと、深く息を吸って吐いて、瞼を閉じた。
黒くてどうしようもなく醜いその感情に飲まれないように胸を押さえて、落ち着いてから固く閉じていた瞼を開いた。
瞼を開いて、顔を上げるとすでに着替え終わった礼二が心配そうに眉根を八の字に寄せて翼の顔色を伺い覗き込んでいた。
礼二の赤い瞳の中に、少し疲れたような顔をした自分の姿が映っていた。
まるで、年老いて生気が無い、でく人形のような姿だ。
母親は四六時中礼二の面倒を見て共に過ごしていたせいで心を壊して、一時期、まるで生気の抜けた、人形のようになり、入院していた。
回復するまでには長い時間と、大量の薬が費やされ、退院した後も心が一部壊れたままの母親は不安定で感情のコントロールが自分で出来ないせいか、壊れる前の気丈で明るかった頃の母に戻ることはなかった。
自分もいつかは礼二に多かれ少なかれ影響を受けて、母親のように壊れてしまうのではないかと考えて怖くなり、両親が離婚した後で礼二と離れ離れになってもわざと会いに行くことをしなかった。
自分は今までずっと兄と向き合うことをせずに逃げてきた、ただの臆病者だ。
父も母も自分達なりに礼二を理解しようと、共に生きていこうと努力して向き合おうとしていた。
それすらせずにずっと逃げてきた自分が、兄と向き合わなければ、誰が彼を守れるだろうか?
礼二には、もう、弟である自分しか血の分けた家族で頼れるものがいないのだ。
そう、自分しか――
翼は今まで自分が兄から目をそむけ逃げ続けて、なにもしてこなかった事を悔いていた。
心配げに自分を覗き込んでいる礼二の頭に手をそっと置いて彼を安心させるように微笑を浮かべ、赤茶けた柔らかい髪を梳くように撫でてやる。
そのまま、礼二の額に自分の額をつけて熱を測る。
「俺は大丈夫だから、ずっと傍にいるから、だから――」
翼はそう言って掛け布団を持ち上げて礼二に眠るように促した。
「おやすみ」
笑みを浮かべた翼にそう言われて礼二は翼の手を握り締めて、ベッドに横になる。
「俺が眠るまで手、握っててくれる?」
礼二が不安げな揺れる瞳で見上げてそう呟くのを聞いて翼は小さく頷いて、彼の手を握り返した。
翼が笑顔で頷いたのを見て、礼二はほっとした表情になって瞼を閉じた。
礼二は眠りにつくたびに、目が覚めたら翼がいなくなっているのではないかという不安に苛まれる。
心がどんどん擦り切れて磨耗していき壊れていく。
どうして翼と自分は一つじゃないのだろうと礼二はいつも考えていた。
身体と心が二つに分かれていて、肉体という入れ物に魂が閉じ込められている。
入れ物が邪魔をしていて、翼と一つになれないのだ。
なんで身体があるんだろう……?
魂――心だけになれたら翼と一つになれるのかな?
礼二はそんなことを思いながら深い眠りに落ちていった。
目を覚ました時に翼が傍にいてくれますように――そう願いながら。
□
礼二がすやすやと寝息をたてて穏やかに眠っている表情をしばらく見ていた翼だったが、ふいに胃がぎゅっと収縮したような気がして自分は、まだ昼食を取っていなかったことを思い出した。
馨が作ってくれた翼の分のサンドイッチとスープが乗せられた大皿に手を伸ばす。
翼の手を握り締めたまま眠ったばかりの礼二を起こさないようにサンドイッチを空いている方の手で掴んで寝顔を見ながらほおばった。
そのサンドイッチは礼二が食べられなかった翼が作った朝ごはんの残りのハムエッグにサラダに使われていたトマトとレタスが挟まれて、粒マスタードが利いたマヨネーズで味付けされていた。
オニオングラタンスープも少し冷めていたが、それでもベーコンの塩味とよく炒められた玉ねぎのうまみと甘味がよく合わさっていて翼が茹でた野菜も柔らかく煮込まれていて、サンドイッチもスープもどちらも正直かなりうまくて、朝ごはんの残りと即席の材料でさっと作ったとは思えないほどだった。
礼二の面倒を見て、いろいろとあったせいか腹をすかせていた翼はあっという間にサンドイッチとスープを平らげてしまった。
馨が用意しておいてくれた、アイスティーの注がれたコップを手に取って一気に飲み干して、一息ついた。
自分で料理が得意だというだけのことはあると翼は少しだけ馨の事を見直していた。
畝田馨という男は真性の変態だが料理の腕は確かなようだ。
昼食を取って空腹も満たされて、少しだけ疲れが和らいだような気がして翼はベッド脇にあるイスから立ち上がって自由になるほうの手で軽く肩を揉んで解した。
ぐっすりと眠り込んでいる礼二が掴んでいる手から指を一本ずつ外していって解かせる。
かわいそうだが、翼はまだやることがたくさんあるのだ。
部屋の整理の残りの作業を今日中に終わらせて洗濯して、自分が食べた昼食に使われていた食器を洗って、馨に話を聞いて……そんなことを考えながら翼はベッドに置かれたままの礼二のシャツと下着を掴んで、ブレザーとスラックスとネクタイを手にクローゼットへと向かう。
開けっ放しにしていたクローゼットからハンガーを手に取りブレザーとネクタイとスラックスを皺を伸ばしてから引っ掛けてしまいこんだ。
クローゼットの扉を閉めて、サイドボードに置かれている、空になった皿にコップを重ねて手に持ち、眠っている礼二を起こさないようにそっと寝室を後にする。
礼二のシャツと下着と食器を手に台所へいき、脱衣所へと向かおうと居間を通り抜けようとした翼だったが、ソファーの上で蠢く二人の姿が視野に入って慌てて足を止めた。
和成が馨に押し倒されて露にされた上半身を弄られていた。
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