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見る者見られる者そして繋がり【8】
途中までスレに書き込まれている文章を、黙々と読んでいた翼だったが、画面をスクロールさせている手を止めて、訳が分からないというような顔をして、険しい表情になった。
「なんだこりゃ……」
正直に思った感想を呟いて、隣に座って一緒に雑談スレの書き込みを読んでいた馨は、そんな翼の様子を見て苦笑した。
「あはは。 実は夜8時以降の書き込みは僕もはじめて見るんだけど、もう10人も下僕がいるみたいだね。正直ちょっとびっくりした」
夜8時頃に龍之介の悲鳴が聞こえてきて、馨は和成と別のことをするのに夢中になっていたため、趣味であるネットサーフィンは8時ごろに途中で中断して放置されており、夜8時以降の書き込みに目を通したのは今がはじめてだった。
書き込みを読んでいて分かったのは、雑談板とスレを立てた人物が只者じゃないということと、礼二が翼にホの字であるという事が、少なくとも下僕達にはばれていて、しかもそれがなぜか公認されていて、影ながら応援されていたらしいということだ。
クラスメイトの生徒の何人かの態度が妙で気味が悪かった理由はこれか……
翼はそう思って頬を赤くして額に手を宛ててため息をついた。
19.以降の書き込みにも目を通したが、スレを立てた下僕1号は姿を現さず、「礼二様のどこがいい?」とか、それに対しての答えが「見ていて飽きない」だの「弟様にじゃれついている時の礼二様の無邪気な笑顔がかわゆす! 所謂ギャップ萌え」だの「細い腰と白い肌とほんのり桜色の唇とあと全体的になんかエロい」ところだのこっちがとても見ていられないような話題で盛り上がっているだけだった。
翼は傍から見ていて恥ずかしくなり、雑談板を閉じて電源を切ってノートパソコンをたたんで馨に返した。
「ありがとう。もういい返す」
翼は恥ずかしさからか頬をほんのり薄紅に染めながら礼を言って、ノートパソコンを返した。
「ははっ……携帯からでも画面が小さいけどその雑談板見られるし、ときどきこれからもチェックしてみるのもいいかもよ」
馨にそう薦められて翼は複雑な表情をしつつも頷いた。
スレを立てた犯人である下僕1号が誰であるか多少気になるところもあるし、すべての書き込みにざっと目を通してみたが、スレ自体を立てるだけ立てた本人が結局、最後まで姿を現さずじまいだったというのも気になる。
下僕2号のうんこ発言が元で彼は下僕1号ではなくあだ名がつけられていてスレの住人たちにそのあだ名で呼ばれているようだ。
「肛門ファイアー1号」とか「うんこ野郎」とかろくなあだ名で呼ばれていなかったのだが……スレの住人達の中で1号はそうとう頑固な痔主ということで落ち着いたようだ。
若草学園へやってきた初日に、自分のクラスの窓ガラスを叩き割るという暴挙に出て、良くも悪くもクラスメイト全員の注目を集めてしまった事がきっかけなのだろう。
礼二はなぜかG組の一部の男子生徒の好奇心や保護欲を刺激する対象として見られ、持て囃されているようだった。
翼が小学生時代、まだ礼二と共に暮らしていて一緒に学校に通っていた時にも礼二の取り巻きは意外な程に多く、不思議と彼の周りには同性のクラスメイトが溢れていた。
幼い好奇心と興味をひきつける対象として見られ、まるきり珍獣扱いで、思い切りのいい行動を取るということで一部の生徒に「見ていて飽きない」と面白がられ、心酔されるほどに好かれていた。
気付けば礼二の周りにはいつの間にか取り巻きが数人出来ていた。
サル山の猿が強いサルに従うような心理が働いてそういう事になったのかもしれない。
逆に翼にちょっかいを出したり、仲良くしようと近づいた生徒に対して、礼二はことごとく敵対心を剥き出しにした発言をして暴言をぶつけ、学校の備品を破壊する等の行為で脅したりして問題を頻繁に起こしていた。
そのせいで翼は礼二がいない時に、一部の生徒に呼び出され、一方的に罵倒されたり、絡まれたり、廊下を歩いていればわざと足を引っ掛けられて、転ばされて、笑われる等の虐めを受けていた。
自分から翼に接触して、足を引っ掛けてきた生徒に酷い言葉を浴びせかけられ、まるで病原体のような扱いを受けた。
翼が動いたり話しかけようとすると大げさな動きで飛びのいたり、逃げ出したりして、「兄貴があれだから弟もそうに違いない」
「頭がおかしいのがうつるから近寄るな、話しかけるな」と人差し指を突きつけられて、えんがちょされたものだ。
登下校は翼が兄の手を引いて毎日していた。
毎朝、毎夕、靴箱を開ければ、大量のゴミと暴言が書かれた紙がぎっしり詰め込まれていて、それを兄にばれないようにこっそり処分するのが毎日の日課だった。
そんな毎日の繰り返しで翼の精神は徐々に擦り切れて疲弊していった。
イジメは兄が父親と共に去って転校して小学校からいなくなってもしばらく続いた。
翼がやっと落ち着いて生活できるようになったのは中学に入ってからだった。
翼を虐めていた同級生ともクラスが離れて、自身もなるべく目立たないようにひっそりと行動していたおかげか、関わりあうこともなかった。
中学に入って始めて、平穏な学生らしい普通の生活を満喫することができた。
中学に入る頃には母親の元に今の翼の義理の父親である美空 泰大という男が自宅に出入りするようになっており母親といちゃついていて翼に居場所はなかった。
はやく一人立ちするための資金を稼ぐために、叔父の下でバイトをし始めて毎月少ないながら給料を駄賃という形で受け取り貯金をし続けてきた。
翼がなによりも普通であることを望み、それを願うのは、平穏に時を過ごせること、当たり前の普通の毎日の繰り返しこそがとてもかけがえの無い大切なそして幸せなことなのだと誰よりも知っているからだ。
当たり前が当たり前ではない日常を経験してきた翼は、なによりも普通であることを尊ぶようになった。
自分が目立たないようにあまり発言をせずにひっそりと生活するのが当たり前になっていき、過去にあった出来事とそれらの行動が、年齢の割りに妙に落ち着いているような、大人びたような今の性格の翼を形成する要因となった。
礼二がいなくなったあと寂しさと正直それよりもホッとした自分に気付いて、そんな自分に対する嫌悪感をと兄に対して罪悪感を抱いていた。
母親が発狂した事件がきっかけで、翼は始めて兄が怖く感じ、だんだんと疎ましい存在へと少しづつ翼の中でなっていき、実の兄をそんなふうに思う自分がどうしようもなく醜い人間のように思えて胸が苦しくて、辛くて兄に対してきつい言葉を投げかけるようになり、あまり関わらないように避けるようになっていった。
父親が兄を連れて出て行ってからは一度も自分から兄に会いに行こうとはしなかった。
兄の方から翼がいる自宅へとやってくるかもしれないとは思っていたがそれはなかった。
もしやってきたら、精神状態が不安定な母とは接触させないようにしなければならないので、翼は自宅には上げずに相手をしてやろうと考えていたが、結局彼が実家へと帰ってくることはなかった。
多分、自宅の位置を把握できていなかったのだろうと思う。
幼い頃の礼二はちょっと目を離すとどこかへといってしまって迷子になっており、騒ぎを起こしたりして、両親がいつも迎えに行って、兄が突拍子の無い行動や発言で迷惑をかけた関係者に謝罪して回っていた。
翼は家族で出かけるときは常に礼二の傍にいて彼と手を繋いで彼を環視することを強制されるようになっていった。
自分の方が弟なのに、何もかも兄を中心に物事が進んで決められていった。
何をするときも何かを買い与えられるのも、両親が常に気にかけているのもいつも兄であり、弟である自分は兄の付属品でしかなかった。
両親に腫れ物のように扱われて、常に気にかけてもらっていた兄を見ていて、まだ幼かった翼は、礼二が両親を独占しているのがうらやましくていつも二の次で弟なのに我慢させられている自分がどうしようもなく惨めに思えて辛かった。
そんな思いを蓄積させていった結果、限界が来て、幼い翼は礼二に自分が思っていることの全てをぶちまけてしまった。
兄の癖に兄らしいことを一つもしないで両親に気にかけられている礼二はずるい。
兄なんか欲しくなかった。
いらない存在だった。
幼い翼はそんな思いを言葉にしてうまく表現することはまだ出来なかった。
だから翼が兄へと投げかけた言葉は多くはなかった。
「お前なんか本当は大ッ嫌いだ!
いらない、いなくなればいいんだ!」
けれどそのたった二行の言葉は礼二を絶望の淵に追い込むには十分な威力だった。
翼にいきなりそんな言葉を浴びせかけられた礼二は、しばらくきょとんとした表情で静止していたが、言葉の意味を理解して、すぐに目尻に大粒の涙を浮かばせて癇癪を起こして大泣きしたあと裸足のまま玄関を飛び出そうとして、父親とすれ違った。
たまたま休日で家にいた父親は礼二とすれ違いざまに不穏な空気を察知して即座にマンションの階段を駆け上がる礼二を追いかけた。
当時は管理がずさんだった建売マンションの屋上は開放されていて、礼二は真っ直ぐに屋上まで向かってフェンスによじ登り、躊躇することなく12階の高さから思い切りよく頭からダイブした。
あとから追いかけていた父が間一髪で追いついて礼二の首根っこを掴み、脇下に腕を通して抱き上げて引き戻しなんとか事なきを得られた。
間に合わなかったら頭蓋骨が地面へとめり込んでなくなるほどの衝撃で即死していただろう事を考えるといまでもぞっと背筋を悪寒が駆け抜ける。
自分の言葉一つで本当に自身の命を躊躇無く絶とうとした兄の行動に心底戦慄した。
口に出していってしまった言葉の重さを理解して、自分が兄を死に追いやっていたかもしれないと考えると今でも罪の意識に押しつぶされそうになる。
゛いらない、いなくなればいい゛なんて決して口に出して言ってはいけなかった――
兄に対して不用意な発言は控えるようにと両親にこっぴどく翼は叱られて、そのあとで、様子がおかしかった母親がぶつぶつと酒びたりになりながら机に突っ伏して呟いていた゛本心゛を聞いてしまって、精神的にかなりのダメージを受けて疲労が限界に達してしまい気が滅入ってしまった。
「死ねばよかったのに……しねば……シネバヨカッタ……シネ……バ……」
とぶつぶつと繰り返し言う母親の痛ましい背中を見て、涙が溢れた。
けれどそれでも母の頭の中にはよかれ悪かれ礼二の事しかなく、翼の存在は砂粒のひとつとしてさえ存在していなかった。
(本当にいらないのは、いなくなればいいのは自分の方だ――)
翼はその日から何をするにも無気力になっていき、人と関わりあうことを避けて一人で過ごす時間が増えていった。
一人で穏やかに時を過ごしている方が気が楽だった。
自分のあとを追いかけて、兄のクセに無邪気に弟のようになついてくる礼二が疎ましくてしかたなかった。
そんなふうに考える自分がなにより醜く思えて大嫌いだった。
そんな幼年期を過ごして経験してきた翼は精神年齢が高いというよりは半分磨耗して疲きっているせいで精神寿命が縮んでしまい結果的に傍から見ると、幼い外見に反して、妙に達観しているような、大人びた表情を浮かべる少年になっていった。
半分諦めと不甲斐ない自身に対する嘲笑を含んでいる表情は傍から見ると妙に大人びたような印象を受け、そう感じるようだ。
過去をふいに思い出して翼は自嘲気味な笑みを浮かべていた。
母親のように自分も壊れてしまうかもしれないという恐怖感から兄を避けていた自分自身から決別して、正面から礼二と向き合おうと決意したばかりだ。
父や母は礼二と向き合おうとして自分達にできるだけのことを精一杯努力してきた。
それでもダメだったのだ……例え翼をないがしろにしていて礼二の事にばかりかまけていたとしても――だ。
正常である翼にかまけていられるほどの余裕があの頃の両親にはなかったのだろう。
礼二がしでかした事全ての責任を負ってきた二人だ。
幼い頃の翼は寂しさや悔しさから両親を独占している礼二を疎ましく思っていたのは事実だ。
けれど今はそんな気持ちは掻き消えている。
辛い思いをしているのは自分だけだと思っていたが、そうではなかったと気が付けたからだ。
礼二が大切に学生鞄の隠しポケットへと仕舞い込んでいた一枚の写真――
何回も繰り返し見たせいかよれよれになって色が褪せていた。
点々と水滴が滲んだような跡がいくつも残されていた。
幼い翼が幼い礼二の肩に手を置いて、無邪気に笑っている写真。
まだ兄弟がわだかまりなく仲がよかった頃に遊園地に行った時に撮った写真だ。
礼二は父親に連れられて自宅を出て行く時に、唯一自分の意思で持っていったもの。
それがたった一枚きりのその写真だった。
礼二にとっての一番の宝物は翼自身を除けばそれだった。
翼は自嘲気味に笑みを浮かべた後に静かに物思いに耽り、瞼を伏せる。
礼二が自分に会えないときに繰り返しその写真を眺め、目尻いっぱいに涙を浮かべて、寂しさを紛らわせている姿が伏せた瞼の裏に浮かんだ。
実の弟と急にわけもわからずに引き離されて、寂しさから、兄も兄なりに辛かったのだろう。
今は、自分以外に兄を理解して、守ってやれる者はいないのだ。
だから、父や母に為し遂げられなかった事を自分がしなければならない。
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