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見る者見られる者そして繋がり【17】

    好きでもない男に、最後は自分から挿れられる事をせがんで抱かれたという事がもし翼に知られたらと思うと、怖くて、目の前が真っ暗になって何も考えられなくなる。 (嫌だ……翼に嫌われたくない……!)  薄膜を張ったような礼二の白い胸の皮膚に爪先が食い込んで血が滲んで赤く染まる。  白い胸に爪が食い込み血が滲んでいるのを見て気付いた翼は目を見開いて驚き、礼二の右手を掴み、慌ててそれを止めさせた。 「馬鹿野郎! なにやって……」  礼二の右手の爪の間に血が入り、自身の左胸に突き刺さった指先が赤く血に塗れている。  それを見た翼が苦しそうに顔を歪め泣きそうな顔になった。 「どうして……どうして、自分の身体をぼろぼろに……傷つけるような真似ばかり……するんだ……っ!」  翼は礼二の右手を掴んだまま、礼二の目を見て悲しそうに眉根を寄せて語尾を荒げる。 「あ……」  空色の大きな瞳に涙の膜が張り、今にも溢れて零れ落ちそうになっているのを見て、礼二は自分がした事が翼を悲しませていると気付いて彼を呆然と見返した。  思えば、昔から自分はいつも翼を苦しめて悲しませてばかりいるような気がした。  幼い頃に翼に言われたあの言葉は今でも礼二の胸に突き刺さり、決して抜けることはなく、深く内部へと入り込み傷口を広げ抉り続けている。  流れ出した血は止まることなく礼二の全身をやがて蝕んで赤く染めていく。  ――お前なんか本当は大ッ嫌いだ!  ――いらない、いなくなればいいんだ!  その言葉を聞いて、自分がいなくなることで翼が楽になるなら確かにそのほうがいいと思った。  翼に嫌われて、彼を苦しめて悲しませるだけで必要とされない自分などいらない、いないほうがいい。  そう思って自身の消失を望み、それを実行したけれど、父親の邪魔が入りそれは失敗に終わった。  ――そして自分は今もまだ生きている。  目の前にいる翼は悲しそうな顔をして、目には涙をいっぱいに浮かべている。 「頼むから……お願いだから、自分の身体を傷つけるような真似は、やめてくれ……」  震える声で礼二の目を見て訴えかける翼の眦に浮かんだ涙がとうとう決壊したダムのように大粒の雫がぼたぼたと溢れ、零れ落ち、滝のように流れては彼の頬を濡らしていく。  それを見て礼二は、右手を翼の頬に伸ばして彼の涙を拭ってやろうとして、その指先が真っ赤な血に塗れているのに気がついて止めた。  翼の頬に自分の汚れた血が付いてしまう。 「……ごめんなさい」  礼二は光を無くした紅い瞳を見開いたまま感情のまったく分からない人形のような抑揚のない声で翼に謝った。 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」  生気の抜けた茫然自失とした表情でぶつぶつと繰り返し謝罪する礼二を見て、翼は彼の肩を掴んで揺さぶった。  背筋を何かが這いずるような悪寒が走る。  礼二が少しずつ、壊れていく痛々しくて哀れな姿を見ていると、可哀相に思うよりも自分までその狂気に飲まれてしまうのではないかという不安に苛まれて怖くなった。  自分が今の今まで、礼二をほったらかしにして、向き合おうとすらせずに、逃げていたせいで、彼がここまで追い詰められて、きっとおかしくなってしまったのだろう。  幼い頃に怒り任せにぶつけてしまったあの言葉。  あの日の過ちを、今でも後悔している。  一瞬でもそう思ってしまった事があるのが例え事実でも言うべきではなかった。  あの日、あの時、本当に礼二がいなくなってしまっていたらと思うと胸が苦しくて、自分が犯してしまった罪の重さに押し潰されそうになる。  離れ離れになってからはわざと会わないようにしていたが、その日のことを夢に見て、酷く嫌な汗を掻いて、真夜中に目が覚めることがあった。  礼二と離れ離れになっても結局は、あの日の出来事が頭から離れず、礼二の事も忘れた事はなかった。  ふと振り返れば、背後に礼二が立っているのではないかと思うことさえあった。  罪を償わなければいけない相手から逃れようと、ただ、ひたすら背を向けて逃げてばかりいた自分は本当にどうしようもなく、身勝手で結局は自分の事しか考えられないような下種な存在でしかなく、好きな相手のために全てを捨てることすらいとわない礼二の愛が純粋でそれでいて、自分よりも綺麗な心根を持つ存在のように今では思える。  自分の目の前でどんどんぼろぼろに傷ついていく礼二を見ていると本当にそのうち、彼がいなくなってしまうのではないかという不安に駆られる。  彼の純粋な愛に応えられるほどに自分はまだ、相応しくないと思うし、愛だとか恋だとかそう言う気持ちはまだよくは分からない。  だけど、礼二を先に抱いて汚した誰かに対する憎しみと嫉妬はいまだに自身の奥深くで燻っている。  眼前で頬を紅潮させて白い裸身を揺らし、淫らな姿で喘いでいる礼二を見ていて欲情しているのは確かだ。  けれど、それは礼二を愛しているからではなく身勝手なただの独占欲から来るもので、愛ではないような気がしていた。  好きでもない相手に欲情することもあるし、大概の男は欲を満たすためだけに抱くこともできるだろうと思う。  愛していなくても欲情さえすれば、誰が相手であろうと、男だろうが女だろうが抱く事はできるし、抱かれる事もできる。  だからこそ、自分の気持ちがはっきりとするまで、最後の一線だけは超えてはいけないと考え直した。  礼二がくれる見返りを一切、求めない無償の愛を利用して汚すような真似は出来ない。  自分の全てと言えるほどに人を愛せるのか、それを礼二に向けることが出来るのか、その相手が誰なのか、まだ分からない。  礼二の事を例え、愛することが出来たとして両想いになって結ばれたとしても、彼の想いの何分の一を返せるのか分からない。  自分の全てと引き換えにして全てを捧げられるほどに彼を愛せるか分からない。  そこまで人を愛せるように自分がなれるとはとても思えない。  彼がくれる愛情の何分の一を返してやれるだろう?  目の前にいる礼二の左胸は爪で抉ったせいで、肌理の細かい薄い皮膚が、爪の形にパックリと痛々しく裂けていて、細い三日月のような傷口からは真っ赤な鮮血がじわりと滲んで滴っている。  彼の瞳の色と同じ紅の線を描き、白いなだらかな胸板に赤い花が咲いたように見えた。  茫然自失状態で繰り返し、謝り続ける礼二の肩を掴んで、揺さぶる。 「ごめ……っなさぃ……ごめんなさ……ごめ……さい……」 「謝らなくていい……怒ってないから、だからちゃんと、俺を見てくれ」  翼は揺さぶられながらなおも謝罪の言葉をまるで壊れたテープのように繰り返す礼二の両方の頬を左右の手で掴み、固定して自分の目を見るように促した。 「なんでそんなに謝るんだ、礼二は何も悪いことなんてしてないだろ?」  涙ぐんだ大きな瞳で自分の膝の上に跨っている礼二を見あげて光を失った彼の紅の瞳に映っている情けなくぐちゃぐちゃに歪んだ自身の姿を見ながら聞く。  自分の身体を傷つけた事が相手を怒らせたとでも思っているのだろうかと翼は考えていた。 「……ここにいて、いらないのに……生きてて、ごめん……なさぃ……」  礼二が切れ切れに呟いたその言葉が翼の胸の奥深くを抉り、突き刺さった。  幼い頃に翼が礼二にぶちまけてしまったあの言葉が、彼の精神をずっと蝕み続けていたのだ。  翼はあの日に自分が言ってしまった言葉が、礼二を追い詰めて、彼を死に追いやっていたかもしれないと両親に責められた。 『例え本当にそう思っていても、礼二にだけはめったな事は言うんじゃない!』 『……アレは翼の言った事だけは鵜呑みにするんだから、まともに相手をしようとするのは止めなさい』  父親に肩を掴まれ上向かせられ、声を荒げてきつく言い聞かせられ、母親は抑揚のない口調で礼二の事をアレと言った。  当時の母親の中では既に礼二は人ではなくただ邪魔でしかない゛物゛だった。    両親にないがしろにされて、いつも礼二の面倒を見ることばかり強要され続けて、確かに翼は礼二が疎ましい邪魔ないらない存在だと幼い頃には思っていた時期があった。  礼二にばかりかまけている両親に自分の事も見て気にかけて欲しかった。  公園で礼二と遊んでいる時に、すれ違った兄弟が仲睦まじくじゃれあいながら通り過ぎて、弟が兄に甘えて抱きついたり、肩車をしてもらっているのを見てうらやましいと思った。  どうして自分は弟なのに兄に甘えることができないのだろう?  兄のほうが弟みたいで、弟の自分が兄の面倒を見て世話をしてやらなければならないのか?  礼二にばかりかまけきりで、自分を彼の付属品としてしか見てくれない、両親に対して常に不満を抱き、どう自分の気持ちを伝えればいいのか分からずにいた。  理不尽さや、やり場のない怒り、誰からも自分を見てはもらえない寂しさが募り、あらゆる暗い負の感情が、幼い翼の小さな胸の中に少しずつ蓄積されてゆき、ある日限界に到達してしまった。  溜まりに溜まった負の感情の全ては礼二へと向けられ、心の中でさえ思っては決していけないその言葉を彼に全てぶつけてしまった。    大嫌い。 いらない。 いなくなればいい。  けれど、言ってしまった後で深く後悔する事になった。  まさか礼二が本当に消えようとするなんて思ってもみなかった。  礼二があの時いなくなってしまっていたらと考えるとどうしようもなく怖くてたまらなかった。  兄弟二人で日が暮れるまで遊んで楽しかった思い出は沢山あった。  二人で砂山でドロだらけになりながら、水で土を固めて本格的に大きいお城を丸一日かけて作ったり、枯れ枝と糸で釣り竿を自作してザリガニを近所の公園の池に取りに行った事。  木登りをしたり、ダンボールの上に二人乗りして、草が生い茂る坂を滑り降りたり、草原に寝転がって日向ぼっこをしながら昼寝したり。  白詰草の中に四葉のクローバーを見つけて、礼二が嬉しそうな顔をして無邪気に笑い、それを翼に差し出した。 「これ……」 「四葉のクローバーじゃないか!」  翼が寝転がっていた身を起こして、礼二が手にしているそれを見て言った。 「翼にあげる」 「いいのか?」 「うん」 「お兄ちゃん、ありがとう!」  幼い頃の翼は礼二の事をお兄ちゃんと呼んでいた。  四葉のクローバーを受け取って嬉しそうに笑う翼を見て、礼二も幸せそうな顔でそれを見て笑っていた。 『四葉のクローバーを見つけられたら幸せになれるんだって。知ってた?』  小学校のクラスメートの女子にそう聞かされてそれを知っていた礼二は寝ている翼の横で、せっせと四葉のクローバーを探していた。  翼に幸せになって欲しいと誰よりも一番、願っていたのは礼二だった。  それを翼は知らなかった。  自分の気持ちを好き以外の言葉で、どう表現すればいいのかわからない、幼い礼二は、あまり口を聞くことも無く、ただ翼のあとをついて回り、傍らで黙って、ただ幸せそうに笑みを浮かべているだけだった。  翼と一緒にさえいられれば礼二は他には何も欲しい物はなかった。  翼が生まれてくる前はどんな風に息をしていたか、そもそも自分は生きていたのかすら分からない。  人間らしい感情の起伏があまりなく、表情も無く、まるで能面のようで、人形のように静かな子供だった翼が生まれてくる前の礼二を母親は気味悪がっていた。  この世に自分よりも大切な存在である翼が生まれた日、礼二に初めて、人間らしい感情が芽生え、そして、彼もまたこの世界に生まれたのかもしれない。  礼二にとっての翼は世界で、彼にとっての全てになった。  そんな想いは翼にはまったく伝わらず、気が付けば兄弟の間にはいつのまにかとても深い溝が出来てしまっていた。  幼い翼は、礼二がくれた四葉のクローバーを太陽に翳して見上げた。  いつも頼りにならなくてまったく兄らしい事の一つもできない礼二が自分のために何かをしてくれた事自体がとても嬉しかった。    その四つ葉のクローバーを押し花にして大切にとっておこうとどこかの本に挟んでしまいこんでいたはずだ。  礼二と離れ離れになる前にそれなりに二人が仲が良かったあの頃を思い出して翼は涙していた。  自分が言ってしまった一言がきっかけで全ての事が、だんだんとかみ合わなくなりどんどん狂い始め、悪い方向へと加速し始めた。  どうして、あの言葉を自分の胸の中にだけ閉まっておけなかったのかと今でも深く後悔している。  礼二といて決して嫌なことばかりじゃなかった。  普通の兄弟らしい思い出は確かに少ないけれど、楽しかった事、嬉しかった事、礼二と過ごした時の中に沢山あったはずなのに、負の感情に飲まれた自分はそれを忘れかけていた。  礼二が本当にいなくなってしまったらと思うと今はそれが怖くて仕方がない。  ――今の自分には彼が必要だ。  独占欲からくる身勝手で汚い感情だけでそう思っているのかもしれないが、それでも彼に傍にいて笑っていて欲しいと思った。

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