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見る者見られる者そして繋がり【18】

    今になって幼い頃の思い出を振り返ってみれば礼二はいつも翼を喜ばせようと一生懸命だった。  家族で行った遊園地で風船を無料で配っていた着ぐるみの人を見かけた礼二はその後を追い、ふらりといなくなった。  礼二が迷子になった事に気が付いた翼は両親にそれを知らせに行き、父親と母親は二手に分かれて彼を慌てて探して園内を駆け回った。  翼は休憩所にあるベンチで待機しているように言われて一人で両親の帰りを待っていた。  2、3時間して迷子センターから園内放送で呼び出しがあり、慌てて両親は翼がいる場所へと戻り彼の手を引いて、礼二を迎えに駆けつけた。  迷子センターにいる礼二の手には翼の瞳の色と同じ水色の風船の紐が握られており、ぷかぷかと浮かんでいた。  両親と翼がやってきて礼二は嬉しそうに笑い駆け寄ってきた。  両親が礼二になにか言っているがその言葉と姿は礼二の耳と目には入らずに、翼の眼前へと立ち、手に持っていたその風船を差し出した。 「翼にあげる」  にこにこ笑いながら言う礼二に翼はあっけにとられながらも差し出された風船を受け取った。 「お兄ちゃん、ありがとう」  翼が礼を言って風船を受け取るのを、幸せそうに見て笑っている礼二の背後で、両親が迷子センターの職員に二人して「ご迷惑をおかけしました」と言って、ぺこぺこと頭を下げて謝罪していた。  翼に風船をあげたいというだけで迷子になり、騒動を起こしてなにもわかっていない礼二の代わりに、親が頭を下げて謝っていた光景も、今では懐かしい。  迷子センターの職員に「お子さんから目を離さないでいてあげて下さい」と言われた母親は頭を下げて頷きつつ、疲れきった表情をしていた。  すっかり日も暮れて帰りに車へと乗り込む時にふいに見た母親の礼二を見る時の目付きが、憎憎しげに歪められるのを翼は見ていてぞっとしたのを憶えている。  遊園地で礼二が迷子になる前に翼と二人で並んで撮ってもらった写真は礼二の学生鞄の内ポケットへと仕舞い込まれていて、色あせてしまっているが今でもそれが彼の一番の宝物だった。  翼と離れ離れになってから何回もそれを眺めて、寂しさを紛らわせていたらしい礼二の姿を思い浮かべて胸が締め付けられるようだった。  今はもう礼二がいなくなった時の事は考えたくない。  今まで寂しい思いや辛い思いをしてきたのが自分だけではなかったという事がわかって、自分だけを見てくれる存在が自分を愛してくれる存在が、こんなにも近くにいたのにそれに今の今まで気がつけなかった。  こんな不甲斐なくて、身勝手な自分を見ていてくれる、愛してくれる存在がいた事にようやっと気が付いた。  礼二は、家族で、たった一人の兄弟で、かけがえのない大切な存在だ。  今まで辛い思いや寂しい思いをさせてきた分、自分が礼二のために出来ることをしてやって守ってやらなければと思った。  いつか、礼二の事を好きになって、愛することが出来たら、その時はちゃんと想いを伝えて確かめ合ってから、結ばれたいと思う。  人の気持ちは移ろいやすく、好きになってもどうなるかは本人にもわかりはしない。  礼二みたいに一途に一人だけをずっと想い続けることが自分にも出来るだろうか?    ごめんなさいと壊れたテープのように繰り返し謝る礼二を引き寄せて強く抱きしめた。  翼の目にも大粒の涙が浮かび、ぼたぼたと零れ落ちては弾けとび、シーツへと吸い込まれては消えてゆく。   「ううっ……礼二、ごめん……謝らなければ、ならない……のは……俺の方、だ……」  礼二をきつく抱きしめて、途切れ途切れに泣きながら、嗚咽交じりに言う翼に、礼二は我に返り、目を見開いて一瞬、呆気にとられたような顔をした。   自分にしがみ付いて泣きじゃくる翼の小柄な身体を恐る恐る抱き返して、彼の頭に手を置いてそっと撫でた。 「翼……翼ぁ……」  繰り返し名前を呼ぶ礼二の掠れた声を聞いて、翼は涙でぐしゃぐしゃの情けない顔をあげて彼を見返した。 「嫌だ……いなくならないで」  その言葉を聞いて、礼二は翼の頭を優しく撫でていた手の動きを止めた。 「あんな酷いっ……こと……言うっ……つもりじゃ……なかっ……」  そう続けて言いながら、ぐしゃぐしゃに泣いて情けない顔を隠すように礼二の胸に再び顔を埋めて、みっともなくしがみ付いた。  今まで兄に一度もこんな風に甘えた事のない翼が、自分にしがみ付いて、幼い子供のように泣きじゃくっている所をはじめてみた礼二は、戸惑いつつも宥めるように、胸の中にいる翼の背中へと腕を回してそっと抱き返した。 「俺は……ここに……いても……いいのか?」  抑揚の無い声で呟くように言った礼二の言葉に翼は涙を手で拭いながら頷いた。 「……今更、俺が……こんなことをいうっ……のは……おこがましいっ……し、どうか、している……と自分でも思う、けど……それでも……」  礼二を傷つけてこんなにぼろぼろになるまで放置していた自分がこんな事を言うなんて、本当に身勝手でどうかしていると思う。  けれど、言わずにはいられなかった。 「俺の為に、生きてくれ」  翼の言葉を聞いて礼二は、肩を震わせて、自分の口元に手を宛てて、静かに真珠のような大粒の涙を零した。  けれど、その涙は、寂しさや辛さから来るものではなく、純粋な喜びの涙だった。     自分が生きている事が翼を苦しめているのではないかと考えていた礼二は、思いがけず言われたその言葉に、胸の内側から嬉しさが込み上げてくるのを抑え切れなかった。 「うあっ、ううっ……つばさぁ……」  ぼろぼろと泣き出した礼二を見て翼も泣き、彼にしがみ付いた。  ただこれからもずっと礼二に自分の傍にいて笑っていて欲しいと願う。  身勝手で情けないこんな自分だけを見て、そして愛してくれる存在がいる。  だからこそ、そのかけがえのない存在を守りたいと思う。  好きとか愛してるという感情から、それがくるものかどうか自分でさえ分かってはいないのに……。  自分の傷口から流れて伝っている血が、胸に顔を埋めてしがみ付いている、翼の頬や額に付着してしまっているのに、気が付いた礼二は、手でそれを拭き取ろうと彼の頬をそっと撫でる。  拭き取ろうとして手の平で摩るたびに赤い血が塗り広げられてゆき、翼の頬や額を赤く染めていく。  手で拭き取るのは諦めて、礼二は翼の眦に浮かぶ涙を唇で吸い上げて、彼の頬に付着してしまった汚れた血も舐め取ってゆく。  母猫が子猫を舐めて、毛づくろいをする時の様に、汚れてしまった翼の頬や額を優しく舐める礼二を、翼は嗚咽交じりに黙って見ていた。  自分自身の左胸が抉れて怪我をしている事自体には無頓着で、特に気にした様子も見られない礼二が、翼の頬や額に血が付着してしまったのは気になるのか、綺麗にしようと懸命に塗り広げられた汚れを、舌先で拭い取っていた。  そんな健気な礼二の姿を見て、翼は余計に胸が締め付けられるように、苦しくなるのを感じて息が詰まりそうになる。  血を綺麗に全て舐め取って離れていく礼二の舌と唇にかじりつくようにキスをした。 「んっ……ふぁ……ふぅ……んっ」  翼に急に口付けられて、くぐもった甘さを含んだ喘ぎを零しながらも、礼二はそれを当たり前のように受け入れる。 「んく……ふぅっ……ん、んんっ……」  翼は礼二の口の中に残る血を啜るように、舌を絡めて吸い、深く口付ける。  キスをしてもらって嬉しそうに口元を緩ませて、礼二も舌先を彼の舌に絡めて懸命に答えようと負けじと翼の咥内に舌を差し込んで唾液を美味しそうに啜り上げる。  鉄臭い少しだけ塩辛いような味がする咥内を、拭い取るようになぞり、舐め回して血の味がしなくなるまでそれを繰り返して翼は唇を離した。  乱れた呼吸もそのままに翼は礼二の左胸に伝う血を引き剥がしたシーツで拭い取った。  血が固まり始めた傷口には触れないように拭き取ってから、礼二の額に手を宛てた。  熱がぶり返してはいないだろうかと心配になったのだ。      翼は礼二の額に自分の額をコツンとくっつけて彼の目を見ながら、疲れたような笑みを浮かべ 「……今の俺には礼二が必要だから、傍にいて笑っていて欲しいんだ」  包み隠さずに自分が思っている事をそのまま素直に口にした。  礼二の額はじんわりと温かく、心地よい体温のままだった。  熱がぶり返しているかと思っていたが、変化はないようで翼はほっとした表情で息を吐いた。 「俺はガキの頃に酷い事を言って礼二を傷つけてしまった事……今はすごく後悔してる」 「…………」  礼二は翼の膝の上に跨ったままの状態で翼が言う言葉を黙って聞いていた。  中途半端に引き剥がされたシーツは、礼二の左胸から流れ出ていた血を、拭き取ったせいで、点々と紅の水玉模様が散り、ぐしゃぐしゃに乱れている。  血が固まり始めて、塞がり始めた傷口に触れないように指先でそっとなぞる。 「礼二は俺の言う事を何でも聞くって言っただろ?」 「……うん?」 「だったら、もうこんな風に自分の体を傷つけるような真似は止めてくれ」 「ん……ゎかった……」  礼二が翼に言われた事に返事をしてコクリと頷いた。 「礼二が怪我をするのは見ている俺も痛い」 「そうなのか?」 「ああ。だからもうしないって約束できるな?」 「うん。もう、しない」 「いい子だ」  汗で薄っすらと湿り、張り付いた髪を指先で剥がして、乾かすようにかき乱して礼二の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。 「ふふっ……」  翼に頭を撫でられて礼二は嬉しそうに無邪気に笑い、目を細めて翼を見下ろす。 「礼二、ごめんな……」 「ん……?」 「俺は……今まで自分ひとりだけが、ずっと辛い思いしてるんだって思い込んでて……自分の事しか考えてなかった……」 「…………」  頭を撫でられながら礼二は無言でじっと翼の話に耳を傾ける。 「礼二だって離れ離れになって寂しい思いや辛い思いしてきてるのにな……」 「…………」 「今更になってやっとそんな当たり前の事に気付いた。  父さんも母さんもみんな辛い思いや、悲しい事やいろいろ悩みも抱えてて、それでも一生懸命に頑張ってたんだ……なのに、俺はずっと逃げてた。  辛い現実から、礼二から、向き合おうともせずにずっと背を向けて……。  でも、今はちゃんと礼二とこうやって向き合って、一緒に生きたいんだ……」 「一緒に?」  礼二にそう聞き返されて翼はゆっくりと大きく頷いた。    「礼二は……俺のたった一人きりの兄さんで、代わりはいないかけがえのない、大切な存在だから……」  兄らしい事をほとんど出来ないような頼りない兄貴だけど、こんなにもこんな自分だけを見てくれて、愛してくれる存在は他には一人だっていやしない。  なんの面白みもない本当につまらない、身勝手で、情けないこんな自分を見てくれて、愛してくれる存在がいてくれた事がただ純粋に嬉しかった。  こんなに近くにいたのに気付くまでにとても長い時間が掛かってしまった。  だからこそ、これからはもっと、彼にしてやれることをしてやって、手を繋いで、二人で一緒に歩いて行きたいと思う。  人を愛すると言う事がどういうことか本当に気付けた時に、隣に立つ彼に自分なりに見つけ出した答えを、いつかちゃんとした形で自分の気持ちを伝えられればと思う。 「自分の事ばかり考えて、ずっと礼二の事をないがしろにしてきたような、俺がこんなこと言うのはどうかしてると思うけど……」  そう言葉を続ける翼を見返して、礼二は首を左右に緩く振り、それを否定した。 「翼は翼の事だけ考えていればいい。俺も翼の事だけ考えてるから、だからそのままでいい」  普段はあまり長い言葉は口にしない礼二が饒舌に受け答えをするところを始めて聞いた翼はぎょっとした表情で驚き、固まってしまう。 「俺はねえ、翼の心臓になりたいんだぁ」  無邪気な笑みを浮かべてそう言う礼二の言葉にどういった意味があるのか理解できない翼は、眉根を八の字に寄せて考え込んでしまった。 「俺が翼の心臓だったら離れ離れにならずに、ずっと一緒にいられるでしょ?」  確かにそうかもしれないが、そもそも翼が礼二と同一の存在であったなら、礼二は存在していない事になるのではないだろうか?  普通に考えれば心臓自体に自我や意識はないのだ。  別々の体があるからこそ、こうやって向かい合って、話すことができ、そして一緒にいられるのではないのか?  翼はそう考えていた。 「例えば、俺の腕や足、全身の肉をこそげ落として翼がそれをシチューにしてぐつぐつ煮込んで食べたとするでしょ?  そしたら、俺は翼の血肉になって一緒に生きられる」  礼二が例えに出した言葉を聞いて翼はあまりの気持ち悪さに軽い吐き気を催した。  ……狂っている。  やっぱり、礼二はどこかがおかしい……どういう思考をすればそんな考えに至るのかがまったく理解できない。

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